投錨備忘録 - 暇つぶしに借りた本のメモを残すブログ

阪神・淡路大震災(1995-01-17)のメモ


建物にトラックがぶつかったかのような衝撃で目が覚める。一瞬、何事が起こったのか訳がわからない。寝室で妻と目を合わせるも何も出来ず。間をおいて地震と分かる揺れが発生。布団に寝たまま動くことが出来なかった。揺れが収まっても窓がある南面から地下で何かザワザワと動くような音が一瞬続く。

揺れが収まった後、目を醒ました息子(3歳)が、トイレに行くというので抱き上げて寝室を出ると、床一面ガラスの破片が散った状態。この時点では大きな地震が起こった程度の認識でしかなかった。とりあえず床を掃除し、散らばったものを片付ける。北の部屋の箪笥が数十センチ移動していることに驚く。娘(0歳)は、全く目を醒まさない。

後で知ったことだが、我が家は単に家具の向きが都合よかっただけだったらしい。お隣の家(Iさん)は部屋の構造上、我が家とは家具の向きが90度異なっており、ほとんどの家具が倒れたとのこと。食器はほとんど全滅だったそうだ。

テレビを付けるも何も映らない。ケーブルが切れたか中継局が壊れたか・・・。ラジオを聴こうとするがラジオもケーブルに委ねていたため約に立たない。孫のために田舎の祖母が送ってきていたお菓子のオマケについていたラジオ(キティちゃんの絵がついた真っ赤なレシーバー)を見つけ出し聴こうとするが、鉄筋コンクリートの建物故、電波が通らない。ベランダに出て地元AM局の放送を選局し、須磨のあたりで火事がおこり、家を無くした人々が列をなして歩く様子を知る。

暗い中、外で車を発進する音がする。バタンバタンとドアを閉めあわただしく車で出かける人が多い。しかしすぐ戻ってくる。後で知ったことだが、車のラジオを使っていたようだ。車に付くラジオは山に囲まれたこの住宅地でも十分受信できる能力があった。

ヘリコプターが空を横切る音がした。自衛隊か?初動は早い?

明るくなってから通常通り出勤できるのかどうか知りたくて駅に向かったが、駅前の道路にできた亀裂に足をとられる。出勤する人はいない。駅舎に着くと天井より水が滝のように落ちており、電車は全く不通状態。家に戻る。

京都に住む後輩(Y)から電話連絡あり。通勤は見合わせることを話す。

丹波篠山に住む先輩(Kさん)と電話で会話する。

会社に電話するも誰も出ず。

この後、電話はしばらく不通状態となる。午後、会社に電話が通じる。大阪は何事も無かった様子。

近所の人(息子と同い年の娘さんがいるKさん)から水を貯めておくように連絡がある。全く気づかなかった。家中の器に水を張っていく。もちろん風呂桶にも。水は見る見る汚れていく。上水道が止まっているため、屋上にある貯水タンクの水が自然落下で降りてくるだけだ。明日には水が無くなるだろう。

車で近辺を調べに出る。道路には亀裂が入っているが東西南北とも通じることを確認。店舗はどこも開けていない。銀行も開いていない。車のガソリンは十分あったが、連休明けの火曜日ということで、現金が乏しい。

テレビが復旧。しだいと様子が分かるが、人的被害は少ないように見えた。歴史や地理の教科書で知る過去の地震に比べはるかに被害が小さい。規模が小さかったのか、耐震構造が良かったのか。さすが近代建築でできた街は丈夫だとその時は思ったが、それは大きな勘違いだった。ただ単に情報が拾えておらず、その断片的な情報をマスコミが流していただけだった。

テレビで報道する被害は時間経過とともにあっという間に膨らんだ。

私たちが住む街は、震源地から直線距離にして10km程度であったにもかかわらず、幸いなことに水道以外は無事だった。人的被害も無かった。ただ食べ物が無い。夜、紙コップと紙のお皿で食事をする。紙のお皿にはサランラップを張り、皿だけリサイクルできるようにした。

何年経っても、やたらとこの時の記憶だけ鮮やかだ。16日の我が家の晩飯のおかずは、塩鯖と餃子だった。そこでの会話は春になったら旅行に行こうという話だった。だから、この日は郵便局に行って簡保の宿を予約するはずだった。長く続いた赤字プロジェクトも予算がなんとか付き、春にはまとまった休みがもらえるという話が土曜日にあったばかりだった。


(2010年1月17日)
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「その他」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事