2012年の朝鮮日報の記事。1923年だから日本統治時代の話。
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記事入力 : 2012/03/25 08:14
植民地時代のソウルに生きた華僑の大富豪
19-20世紀の華僑企業を分析した研究書『同順泰号』
1923年、当時の京城(現在のソウル)で、個人納税額トップの人物は譚傑生(1853-1929)という中国人だった。この事実を知っている人は、まれだろう。譚傑生は、19世紀末から20世紀初めにかけて朝鮮で活動していた華僑の商店「同順泰号」の社長だった。中国経済史を研究している慶北大学のカン・ジンア教授は、譚傑生と同順泰号の成長と没落を中心に韓国華僑資本の浮沈を分析した『同順泰号-東アジア華僑資本と近代朝鮮』(慶北大学出版部)を出版した。
広東省出身で、20歳ごろに上海に移住した譚傑生は、義兄が開設した「同泰号」で店員として働いた。1882年に袁世凱が朝鮮に赴任し、清の政治的影響力が強化されると、譚傑生は同順泰号を設立し、清-朝鮮間の貿易に乗り出した。この時から、汽船会社を設立し漢江の航行権などを獲得、各種の国策事業に参加するようになった。
■タクシー市場で台頭、京城のタクシーの7割を占有
譚傑生の同順泰号は、1903年に朝鮮社会の注目を集めることになった。朝鮮の民衆や商人たちは、同順泰号が発行する手形(同順泰票)の発行禁止を要求し、デモが起こった。同順泰票は一商店の手形にすぎなかったが、信用度が高く、高額の決済貨幣が不足していた朝鮮の市場で、貨幣のように流通していた。国権侵奪の危機に直面した朝鮮の人々は、これを貨幣主権の侵害と見なした。最終的に、同順泰号は手形の発行を中止したが、華僑実業家の影響力をまざまざと見せつけた事例として記録された。
もともと中国から主に絹織物や麻の布を輸入していた譚傑生は、やがて西洋家具、ピアノ、望遠鏡、電気蓄音機、ガラス、日本産のキリンビールに続き、中国の宝くじまで取り扱うようになった。1920年代には、米国から1台1万ウォン(現在のレートで約700円、以下同)もする最新型の高級車「カニンガム」を輸入し、タクシー会社を設立した。1台4000ウォン(約280円)のフォード車がほとんどだったタクシー市場で、独自の存在感を発揮して台頭し、20年代末には京城のタクシー市場の7割を占めるようになった。
続いて譚傑生は、不動産に力を注いだ。乙支路2街にあった2階建ての赤れんが造りの建物を漢城(京城=ソウルの中国語名)本社として使用し、明洞の3階建てのビルは『時代日報』の社屋としても使われた。1923年には、京城の都市土地税・家屋税・戸口税分野でいずれも譚傑生が個人納税額第1位となった。1932年の京城府の公式発表によると、全7万戸のうち、1万1856戸が賃貸住宅で、このうち同順泰号が350戸を所有していた。京城の賃貸住宅の34軒に1軒は、同順泰号が所有していたわけだ。
■次男のスキャンダルで没落
同順泰号をはじめとする中国人の経済的繁栄は、日本によるけん制を招いた。朝鮮総督府は1924年、ぜいたく品など中国からもたらされる輸入品の関税を大幅に引き上げ、輸入商中心の華僑社会は打撃を受けた。同じころ、同順泰号は破滅の危機に直面した。「百万長者の中国人富豪・同順泰号のアヘン密売、紅参(高麗ニンジンの一種)密輸出、詐欺事件」。1924年8月、真夏の京城メディアは騒然となった。譚氏の次男など、家族が数十年にわたりアヘンの密売や紅参の密輸出を行ってきたというニュースに加え、次男の女性遍歴まで報道され、同順泰号は不道徳な企業として追及された。借金に追われた譚傑生は1929年、失意のうちに76歳で世を去り、その後故郷の広東省高要県に埋葬された。さらに、1937年に日中戦争が始まり、ほかの家族も皆、朝鮮を離れた。
カン・ジンア教授は、ソウル大学奎章閣や中央図書館古文献資料室で偶然、同順泰号の帳簿や取引の書信などを発見し、研究を始めた。カン教授は「譚傑生と同順泰号は、19-20世紀の東アジア経済ネットワークにおける華僑の役割を説明する、立派な端緒。2004年に、韓国の貿易相手国として中国は米国を抜き最大の相手となったが、中国はここ100年を除くと、約2000年にわたり常に韓国の最大の貿易パートナーだった」と語った。
金基哲(キム・ギチョル)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/03/25/2012032500059.html
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