綴り箱

今、そして思い出綴り…

2月14日

2020年02月16日 | 日記
久しぶりに、実家にお泊まり。
母の隣で眠る夜。
いつもより早い時間に就寝したせいか、変な時間に目が覚めました。

年末から毎日が早かった。

日々が、選択肢だらけで、目一杯詰め込んだ感満載でした。

父の認知、アルツイマーとレビー小体型との合併症、母のアルツイマーとの診断から、3つ目の仕事を始めた年末でした。
グループホームでの仕事は、両親を丸ごと理解するための自分への試練として、母との生活を考えての一歩でした。
そこで経験したことは、私にとっては、あらたな知識と経験になりました。
看取りにも関わり、今回の父の様子を冷静に受け止められたと思うところです。

12月25日に、部屋で転倒。
腕をテーブルにぶつけて上腕骨を骨折。
糖尿病のある父は、全身麻酔が出来ないため、固定で回復を、待つことになりました。年末…31日に病院へ行くと、三角巾で腕を固定された父は、梅干しをペースト状にしたものを持っていくと、満足そうに食べてくれました。爪を切りたいというので、看護師さんに言うと、手が開いたらとのことで、爪切り借りて、足と手の爪を切ったことも今となっては、最後の思い出となりました。
1月6日、妹からお昼に父の発熱で連絡。
午後の診断で、インフルエンザA
熱が下がらず、1月9日に肺炎と診断。
ガンマグロブリンで、回復。
1月14日に、大部屋に戻る。
1月22日の検査で胸水をどうするかを検査。胸水より貧血の方が酷くて輸血を27日から行うとのことになりました。
24日、朝急変。
酸素10リットル…主治医の院長との約束が救急対応があり、代理の先生から説明。
妹の到着時間に説明が出来ないとのことで、先に到着していた従兄弟が聞いてくれました。
私達にとって、兄のような存在の従兄弟は、妹に状況を説明。そして、妹に託され電話をくれた。
状況は、肺が、真っ白であること。
呼吸のこと、人間の呼吸の話。
息を吐くことが重要。
吐かなければ、血中に二酸化炭素が増えて、脳が呼吸を止める…自発呼吸ができなくなる。

私自身、施設で看取りの話を思い出しながら、次の言葉を受けとめられました。

延命…蘇生。
決断の時。

肺の状況から、選択肢は1つ。
義父の時、13年前を思い出しました。

従兄弟には、即答でしないと伝え、妹に、病院との書面のやりとりで辛いことをさせなければならないこと、そこまで妹を支えて欲しいと頼み、妹に電話を代わってもらいました。
妹の答えも、同じでした。
この後のこと、辛い思いさせてゴメン…
そう伝えるのが精一杯でした。

その後、父は、落ち着き
妹に、惠は?
再来週来るよと話したよ。
母には、話さないとのことで、翌日電話をすると、
母は、なんだかわからない。もう、お母さん、何にもいらないと泣きじゃくるので、再来週、お母さんの病院一緒に行くから、その時、お父さんのところへ一緒に行こう。

私の決心。
今、私が動くと母が余計に不安になる。
父を信じよう。

2月8日
予定どおり母の付き添いで病院へ
そのあと、娘が合流。
父の病院へ。

酸素3リットル。
落ち着いてるかな。
でも、呼吸がゼロゼロしていて、肩で呼吸してる。痰が辛そうでした。

それでも夫の名前を口にして、まだ来ないかって。
トイレ行ってるから、もうすぐ来るよ。

しっかりわかってるんだね。
顔見て納得してる父。
年末爪切りしたこと覚えてる?
孫達、みんな来たでしょ。
わかった?
うなずく父がいました。

俺は、あと2〜3週間だという父。
相変わらずです。
足見せてと布団をまくると、痩せ細った足首でした。
ふくらはぎと、足をマッサージ。
チアノーゼが出てないか、さりげなく確認。足が硬くないかも気にしながらでしたが、問題なくでした。
ただ、全体的に冷たい。
そんな印象でした。

また、来るねと言うと、コクリとうなずく父が居ました。
次は、爪切ろうというと、手を上げてた。
手を握ると、握り返してくれる。
まだ、力がある。

帰る頃、看護師さんに遅いと言う父を見て、相変わらずで、まだ、大丈夫と思いました。
看護師さんに、血中酸素濃度を聞くと、今日は、93とのことでした。
看護師さんに、ソーシャルワーカーさんとお話し出来るか確認してもらい、急でしたが、対応してくださいました。
医師との面談は、休日の面談では、中々難しいこともあり、ソーシャルワーカーさんが居てくれて、お話出来て良かった。
木曜なら、主治医の話も聞けるとのことでしたが、静岡から来ていることを告げると、主治医の院長にも伝えておくとのことでした。
ソーシャルワーカーさんとの話は、栄養をどう摂るかが一番の問題だとのことで、娘が管理栄養士であることを伝えると、医療区分の話もしてくれまた。
父の病歴の話、胃潰瘍で胃を6分の5とっていることを告げると、胃瘻が出来るかどうかの話になりました。肺気腫…COPDであること、認知症のこと…。
カテーテルで、栄養を摂る説明を受けました。入院と転院の話もでき、良かった。
そして、母を連れて2月10日が命日の伯母のお墓参りしてきました。

2月9日の夜、仕事のメールを見ていたら、上司からで2月12日、品川のセミナーに参加してほしいとの連絡を見て、翌日、参加しますと返事をしました。
参加者が多かったので抽選だったようでしたが、見事当選。
私の中では、17時までだから帰りに病院へ足を伸ばそうと計画でした。
参加を伝えた2月10日夜、妹から病院から電話で酸素10リットルの急変連絡でした。
10リットル投与して、血中酸素が上がらないようであれば、また、連絡するよとのことで、11日は、祝日だからいつでも連絡頂戴と伝えました。
そして、休日出勤をすることにしました。
仕事をしていると、妹からお昼に電話があり、今日の、看護師さんなんだけど、昨日の夜の看護師は、大袈裟だから大丈夫だと言うんだよ。しかも、こんな状態なのに、食欲だけは、あるんだからと言って、高カロリーゼリーを完食したことを言ってたんだよね。でも、酸素10リットルでモニター見ると、88と89を行ったりきたりしてるんだよ。これで大丈夫って、何なんだろうねって。
言葉の使い方1つで、信頼が崩れる。
そんな印象でした。

12日、午後から静岡から移動かけば良いのですが、午前中を休日出勤の代休にしてもらうことをお願いし、12日は、朝、7時半に出勤して引き継ぎのメモ残して、8時15分に出発。
この時間は、在来線も特急があることから、普通電車の本数が減るのと、新幹線の乗り継ぎが、こだまだらけになる。
ロスタイムが多くて、ビックリでした。
バスで駅に移動したものの、到着時間の遅れで、予定していた電車に間に合わずで、結局、特急券購入して新幹線は、予定どおりに乗ることができました。

今回のセミナーは、新コロナウイルスの影響でマスク着用とのこともあったのですが、自分が人混みを歩くため、父のこともありマスク着用、途中うがい、手洗いをしっかりして移動でした。

12時に病院に到着。
病室に行くと、リハビリを受けている父がいました。作業療法士さんにご挨拶すると、お父さんが今日は、誰だかが来るってさかんに言ってたんだけど、娘さんのことだったんだね…って。
いや、急に決まって来てるので、来ることは、父は、知らないはずです。 
誰か他の人が来るのかな…なんて話をしました。
また、来るよって言ってあったよね。だから、来たよ。
わかる?
と聞くとうなずく父でした。
そんなやりとりをしていると、一生懸命に話そとする父が居ました。
声は出るのだけど、聞き取れないため、筆談。筆圧がないからわからない
次に書いた言葉は、水くれ でした。
吸い飲みにお茶が入っていたので、作業療法士さんに、これで良いですか?トロミついてるのかなぁ?と聞くと、そうですねという回答で、父に手渡すと、自分で一生懸命に口へ運んで、ゴクリ
…飲み込めたね。というと、ほんのり笑顔を見ることが出来ました。今日の状況を伝えると、手で行けと言う父。手を握ると、握り返してくれて、今度は、爪切り持ってくるというと、自分の爪見て、親指の爪が気になっているようでした。
腕を見ると、広範囲に色が変わってる。
チアノーゼの跡と判断、酸素6リットル、モニターは、87。
かなり苦しいはず、座位姿勢で気がつくと白目が気になる。
二酸化炭素は鎮静作用があるという。
酸素濃度が落ちてる理由もあり、後ろ髪ひかれる思いでした。父の気性から、私がとどまることは望まないんだと言い聞かせ、病室を、あとにしました。
時間を見ると12時18分
バスが出たあとでした。
駅まで4キロ、歩こうかと病院玄関を出ようとすると、タクシーが目の前に止まって、運転士さんに駅まで行けますか?と聞くと、良いですよって引き受けてくれた。
お昼ご飯、食べられないと思っていたら、30分余裕が出来た。
父は、なんでもお見通しかなって思ったりしました。
セミナー終えて、娘と夕飯食べて静岡向けでした。

13日20時52分
ひと段落して、ふと妹に電話
どんな状況?と聞くと、病院から電話があって、20日11時に、院長と面談することになった。義弟がお休みだから、行ってくるとの話でした。病院からの電話で、20日ということから、なんだ、お父さんそんなに悪くないじゃんっていう妹でした。だから、今日は、行ってない。15日に行く予定。わかった、都合ついたら行くよと告げて電話を切りました。

2月20日は、祖父の命日。
祖父は、56年前のオリンピックイヤーの年に亡くなりました。
76歳でした。伯父は、77歳。
父は、78歳。義父も78歳。

夫に、状況を伝えると、19日と20日は、計画休日申請出してるから、一緒に行くよと言ってくれたんだけど、義父の時の経験から、どうなんだろうと首を、傾げる状況でした。

2月14日7時5分
妹から病院から電話あった。
ダメかも…
わかった。

夫のお弁当を詰めていた時でした。
娘と息子に電話。
同僚に電話。
支度しながら、仕事先にメール。
子ども達からくるLINE、妹からの連絡でバタバタ。
出掛ける支度が出来て時計を見ると、8時4分でした。
娘から駅に着いた。
タクシーで病院行くよ。

妹から電話、ダメだった。
病院へ着いたけど、みんな間に合わなかった。

オリンピック、見て欲しかった。
曽孫、見て欲しかった。

一旦出勤。
部長に、ダメでしたと告げ、おやすみ頂くことをお願いし、留守の間の引き継ぎをして、出発。
母のこともあり、長くお休み頂くことを前提に移動。
13時42分実家に到着。
14時過ぎに、葬儀場で父と対面。
綺麗にしてもらって、今にも動き出しそうな父が居ました。

12日、会えて良かった。

家族で最後の面会者が、1番遠方にいた私でした。誰かが来るは、私だったのかな?

そして、葬儀までバタバタです。
忙しくしている分、良いのかも知れませんが、家族葬となると、知らせる知らせないが難しくて、妹と一悶着。義弟の一言に感極まる思いは、長女として関わってきた私には、辛すぎるものでした。
母と納得するために語り、妹と義弟に任せると決めたのだからとあきらめ、書類他の整理をしていたものの、葛藤している私です。

事情がわからないなら、話を聞け。
話を聞かないなら、頼るな。

どれだけ言葉をのみこんでるか、わからないよね。

一晩過ぎて、葬儀までに出さなくちゃならない書類の山、その後、手続きをしなくちゃならない書類。
どこまでやって帰れるかが勝負。

母のために、頑張ります。













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2 コメント

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Unknown (ひとみ)
2020-02-17 12:01:57
お父さま、お悔やみ申し上げます。
直前に意識がはっきりしているときに会えて本当によかったですね。
私も帰省していたのに、亡くなった時には傍にいなくて・・・結局ひとりで旅立たせてしまいました。
家族が同じような寿命、こういうところにも繋がりを感じますね・・・
うちも祖父母とも84歳でした。
諸々やらなければならないことや、残されたお母さまへの心配、お察しします。
でも、惠さんが体調崩さないよう、無理しすぎないでくださいね。


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Unknown (k-aleidoscope)
2020-02-18 22:56:09
ありがとうございます。今日、送り出しました。急なこととなってしまい、誰も看取れませんでした。寝顔は、微笑んでいます。このあと、バタバタと忙しくなりそうです。季節の変わり目です。体調に、気をつけます。
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