レンブラント・ファン・レイン
《ダビデ王の手紙をもつバテシバ》
1654年、142×142cm
ルーヴル美術館、1869年ルイ・ル・カーズ博士遺贈
バテシバのエピソードは色々な画家が作品にしており、レンブラントもここに一枚の絵としている。水浴しているところをダビデ王に見られたバテシバを、彼は伝統的な形式を自由に翻案して描いた。覗き見する王の姿はなく、バテシバが手にした恋文からその存在を見る者に想像させるにとどめている。
モデルは画家と共に暮らしていたヘンドリッキェ・ストッフェルスといわれているが、茶褐色の色調と等身大の裸体は生涯忘れられない絵画の醍醐味というものを味あわせてくれる。ベニス風だが、そのような影響も超越した作品と言えよう。巧みに塗られた白、赤いタッチがくっきりと浮かびあがっている。
(『ルーヴル 作品案内 日本語版』1990年刊)
画面の大きさ。
理想美ではない、リアルさ、生々しさ。
その迫力に感嘆するばかり。
確かに「絵画の醍醐味」。
レンブラントへの興味がさらに高まり、アムステルダムやハーグに行かなければならない、と思ったものであった。
本作品のモデルと考えられているヘンドリッキェ・ストッフェルス(1626-63)は、1647年頃、レンブラント家に住み込みの家政婦として雇い入れられた。
1642年の《夜警》完成とサスキアの死去以降、人生が反転したレンブラント。
注文が激減したのは、戦争勃発による経済不況の影響が大きいが、完璧を求める制作姿勢が敬遠されるようになったことや、画風が徐々に流行遅れとみなされるようになってきたこともある。
一方、浪費癖はそのままで、経済的に困窮し、やがて破産申告、邸宅売却に至る。
ヘンドリッキェは、サスキアの遺産と、息子ティトゥスへの相続に関係した問題により、婚姻関係を結ぶことはなかったが、そんな時代のレンブラントを支える。
1654年、娘コルネリアを未婚の母として出産するが、出産前、それ故に改革派教会評議会から訴えられ、聖体拝領の儀式への出席を無期限で禁止されている。
本作品は、その年の制作であり、ヘンドリッキェ28歳頃ということになる。
本作品のバテシバには、左の胸の外側にくぼみと脇の下に腫れが見られるが、ヘンドリッキェはこの作品が制作されてからおよそ9年間生きていたことから、乳がんではなく別の病気ではないかとも考えられているようだ。裸体のモデルは別の女性だったのかもしれない。
1663年、ヘンドリッキェ死去。享年37歳。
その年にオランダで流行したペストによる可能性もあるようだ。
1668年9月、同年2月にマグダレーナ・ファン・ローと結婚したばかりの息子ティトゥスが急逝。享年27歳。
1669年3月、未亡人となったマグダレーナは女児をもうける。ティトゥスの忘れ形見でレンブラントの孫である。ティティアと名付けられる。
同年10月、レンブラント死去。享年63歳。
母親に続いて兄そして父親も失い、一人となった15歳のコルネリア。
1670年、画家コルネリス・スイトホフと16歳で結婚し、まもなく夫婦でオランダ領東インド諸島に向かう。1671年3月、バタヴィアに到着。彼女は3人の子供を産み、1684年に30歳で亡くなったとされる。
ティティアは、生まれる前に父親を亡くしているが、生まれて間もなく母親も失う。マグダレーナが、レンブラントと同じ月に死去したのである。享年28歳頃。その後、父ティトゥスからの相応の財産を相続。1686年に保護者の息子と結婚し、1715年まで生きる。子供はいなかったようである。