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2025年1月の土曜午後、アーティゾン美術館を訪問する。
会期終盤だからか、想像していたよりも賑わっている。
6階
ジャム・セッション
石橋財団コレクション×毛利悠子 - ピュシスについて
2024年11月2日〜2025年2月9日
アーティゾン美術館のジャム・セッションの第5回目の共演アーティストは、1980年生まれの毛利悠子。
初めて名前を知るが、「主にインスタレーションや彫刻を通じて、磁力や電流、空気や埃、水や温度といった、ある特定の空間が潜在的に有する流れや変化する事象に形を与え、立ち会った人々の新たな知覚の回路を開く試みを行って」いる作家だという。
どう楽しめばよいのか分からないままで終わるが、人が少ない環境だったら、違ったかも。
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毛利悠子
《Piano Solo : Belle-ile》
2021年-/2024年
&
クロード・モネ
《雨のベリール》
1886年、60.5×73.7cm
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/01/157aa45e29b27de23d98ecc99b7eedb0.jpg)
仏ブルターニュ地方のベリールの海岸で採取された音をピアノの音に変換して奏でるという作品。
この地は、行くのも面倒だが、現場は足場が悪くたいへんなところらしい。
モネの悪天候下の奮闘を思う。
5階
ひとを描く(石橋財団コレクション展示)
2024年11月2日〜2025年2月9日
古代ギリシャ陶器や古代ローマ壁画・その日本人画家による模写から始まるが、その次は印象派を中心とする19世紀から20世紀前半の作品が並ぶ。
私的3選。
カミーユ・コロー(1796-1875)
《イタリアの女》
1826-28年、33.4×21.3cm
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コローは、1825年から3年間、イタリアに私費留学する。
本作は、そのときに現地のモデルを使って制作したものだという。
マックス・リーバーマン(1847-1935)
《イタリアの少女》
1878年、95.9×76.0cm
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リーバーマンは、1878年、イタリアを初めて旅行する。
本作は、そのときに制作されたものだという。
アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)
《若い農夫》
1918年頃、73.1×50.3cm
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モディリアーニは、1918年、南仏ニースに転地療養する。
本作は、そのときに現地の農夫をモデルに制作したものと考えられている。
4階
石橋財団コレクション選
&
特集コーナー展示「マティスのアトリエ」
2024年11月2日〜2025年2月9日
日本近代洋画の展示作品より、フランス/イタリアで「ひとを描く」3選。
黒田清輝(1866-1924)
《ブレハの少女》
1891年、80.6×54.0cm
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黒田は、1884-93年、フランスに留学する。
1891年9月、友人の画家久米桂一郎、河北道介に誘われて、ブルターニュ地方のブレハ島に、写生旅行として3週間滞在する。
本作は、そのときに現地の少女をモデルに雇って描いたもの。
和田英作(1874-1959)
《読書》
1902年、73.6×61.5cm
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和田は、1900-03年、文部省留学生としてフランスに留学する。
1901月10月〜02年3月、パリ南郊のグレー=シュル=ロワンで、浅井忠と共同生活を送る。
本作は、そのときに現地の女性をモデルとして描いたもの。
浅井と和田は、投宿していたホテルのオーナーの斡旋により、ホテルの1軒おいた隣りに住んでいた20歳前後の女性をモデルに雇う。
和田は側面から(本作)、浅井は正面近くから(東博所蔵作品)、モデルを描く。
しかし、子どもが泣くのを無視して平気で小説を読むモデルに2人は閉口し、しまいにはモデルをお払い箱にしたという。(✳︎アーティゾン美術館HPの作品解説より引用。この記述では状況不明)。
約2週間モデルを務めたその女性の後も、ホテルのオーナー夫人にモデルをつとめてもらって、肖像画制作を継続する。
藤島武二(1867-1943)
《黒扇》重要文化財
1908-09年、63.7×42.4cm
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藤島は、1905年1月からフランスに留学し、1907年12月にイタリアに移り、1910年1月に帰国する。
本作は、ローマ滞在時に描いたもの。
本作が発表されたのは画家の最晩年。それまで人に見せることなく手元に置いていたらしいが、おそらく亡くなる前年に石橋正二郎に譲る。1969年、重要文化財指定。
今回訪問のお目当て、モネ《睡蓮の池》1907年や関根正二《子供》1919年も見て満足する。石橋財団コレクションの豊かさに改めて感心する。