「です・ます体」と「である体」
文章の書き方には「です・ます体」と「である体」というのがある。
( 中 略 )
私自身、スラスラと書けるのは、「です・ます体」かもしれない。目の前の人に話しかけているようであり、きつい言い方とならないので、遠慮せず書きすすめられるからである。
一方、轡田隆史氏は、「です・ます体」はなるべくやめようと説いておられる。「よほどの名手が上手に使わないと冗漫な感じの文章になってしまう」からとの理由である(『うまい!と言われる文章の技術』三笠書房)。
「です・ます体」で名文エッセイを書かれる木村治美氏は、評論や論説に「です・ます体」を使えば、読者がカチンとこなくて、やわらかく自己表現できるのではないかと述べておられる。他方、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイと書くときには、「である体」が無難ではないかという。なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。
以上、「いますぐ本を書こう!」 (ハイブロー武蔵・著 93~94ページ) より
>なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。
「から」が重複している。ここは、「増幅されないからだ」でいいのではないか。しかし、それよりもわからないのが「増幅されない」である。
おそらく、「ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」とは、女性の文章の特徴ということだろう。「です・ます体」を使えばそれが「増幅されない」ということだろう。
著者は、「です・ます体」を使えばやわらかく自己表現できるが、「ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがち」な女性は、そうならないように「である体」を使った方がいいと言いたいのではないのか。そうであるのなら、
>なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」では増幅されない(増幅されずに抑制される)からだ。
とすればいいのではないか。 ⇒ 少し(大いに?)おかしい(修正中)
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