己に素直に、思うままに!!

浅学菲才を恥じることなく、思う事を飾らずに綴ります。

朝日新聞の大誤算

2014-09-07 18:02:29 | 日記

放談(110)  朝日新聞の大誤算
                 
2014-09-03 00:00:00 | 時事放談


藤原 もし、集団訴訟が国民規模での訴訟になったらどれくらいの金額になりそうですか?


赤峰 専門家の方に試算していただきました。

・朝日新聞が、名誉棄損で日本国民に支払う金額は、国民一人当たり安く見積もって300万円。総額380兆円支払わなければなりません。

・人々を間違った考えに導いた罪、社会を不安に陥れた罪は非常に重いので、社長などの役員は当然、懲役刑に服すことになります。刑務所から出ても社会から隔離しなければならないかもしれません。

・慰安婦の弁護士をした福島瑞穂氏などは当然、弁護士懲戒の対象になり、弁護士資格はく奪になりますね。

横井 刑事事件としても立件される雰囲気もあるのでしょうか? 


 確かに朝日新聞が国家転覆を意図しているのでしたら「内乱罪」になりますし、外国から武力の行使に加担するなどの意図があった場合は「外患罪」になりますが・・・。 

少なくとも、内乱幇助罪に問われかねない犯罪行為をしていましたからね。朝日新聞は、「そんなことはありえない」と思っていたでしょうが、「従軍慰安婦」の捏造と、その背後にある「国家転覆の意思」が証明されたら内乱幇助罪が適用されます。


この種の裁判は、高等裁判所が一審ですから、地裁判決で稀にある不思議な判決はありえません。

藤原 ところで、現状の朝日新聞の様子を見ますと「嵐の通り過ぎるのをじっと待つ」とのことのようですが、それは無理だと思いますね。朝日新聞には淡い期待感もあるようですが。

30年以上にもわたって、嘘をつき続けて、国民を欺き、しかも、日本を辱め、世界に日本の汚名を宣伝していたわけですから、国民の怒りは収まりません。この問題、朝日新聞が沈黙して逃げ切ろうとしても逃げ切れるものではないのです。

横井 朝日新聞もたかをくくって、「日本人が熱しやすくて冷めやすい」と思っていても、これは早々に鎮火するはずもありません。さらに炎上してきますよ。日本社会全体が、被害者になっているからです。

その上、ほとんどのマスコミが、朝日糾弾運動を繰り広げていきますから、この流れが止むことはありません。朝日新聞は、謝罪しなかったばかりに傷口を広げてしまいました。

赤峰 しかも、朝日新聞も気づいていないし、朝日新聞を「日本の良心」と讃えている韓国もいまだ気がついていない問題があります。

それは、ある日突然、韓国は、「朝日新聞の慰安婦記事取消によって日本からの賠償金がふいになった」ということに気づくということです。これで、朝日新聞を激しく恨み始めることになる可能性もあります。
  

 以上、http://blog.goo.ne.jp/akaminekazu/e/cbc84be8a549ba84dd810a649183faef より

天下の朝日新聞には本当に恐れ入る。
 
慰安婦問題の誤報を「謝罪すべきだ」とした池上彰氏の連載原稿の掲載を、朝日新聞は拒否した。しかし、その後にその誤りを認めて謝罪した。
 
池上氏に対しては謝罪したものの、慰安婦誤報そのものについては、いまだに謝罪していない。
 
記事に対する批判を認めないというのは、朝日新聞が如何に驕り高ぶっているかということの証だ。朝日新聞の廃刊を求める声があるのも当然だ。

「過ちを認め謝罪する。このコラムで私が主張したことを今回に関しては、朝日新聞が実行されたと考え、掲載を認めることにしました」と、池上氏はそのコラムで言っている。朝日新聞にはもっと謙虚な報道姿勢を持ってもらいたい。
     
誤りは誰にでもある。批判を受け入れないというのはあってはならない。

朝日新聞が池上彰氏のコラムを掲載「週刊新潮」広告には黒塗り箇所も http://news.livedoor.com/article/detail/9216178/  

朝日新聞購読は売国行為の共同正犯

http://blogs.yahoo.co.jp/naohantake/39237482.html
   

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間違った引用が混乱の原因

2014-03-26 13:04:13 | 日記

問い合わせても著者からは回答なし

ハイブロー武蔵氏は、エッセイを書くことについて木村 治美氏の「エッセイを書きたいあなたに」から引用したものを「いますぐ本を書こう!」に書いていた。しかし、その引用には実に迂闊なミスがあった。

何度読み返しても理解できなかったのでQ&Aサイトで質問してみた。そうしたところ、36件の回答があった。その多くが著者の文章の拙さを指摘していた。しかし、いずれの回答でも疑問を解消するには至らなかった。

ハイブロー武蔵氏の文章がどうして理解しづらいのか、考えられるのは引用した木村氏の本に問題があるということである。木村氏の文章自体がわかりにくいものであるにもかかわらず、ハイブロー武蔵氏はそれをそのまま引用したということが考えられる。

そこで、木村治美氏が実際にどういうふうに書いているのかを図書館で調べてみた。そうしたところ、ハイブロー武蔵氏が木村氏の文章を引用するに当たって間違った記述をしていたことが判明した。木村氏の文章には何の問題もなかった。

間違い 「いますぐ本を書こう!」
⇒ ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。 

正解 「エッセイを書きたいあなたに」
⇒ ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されかねないからです。

読んでいて「おやっ?」と思うのは、そこにそれまでの文章の流れからして不自然なものがある(流れが途切れる)からである。

「なぜならば」と続く文章ならば、著者がそう主張することの理由がそこになくてはならない。「しかし」と続く文章ならば、それまでの主張と対立するものがそこになくてはならない。

一読して理解できない文章は「悪文」と言っていい。ハイブロー武蔵氏は、引用を間違っただけでなく、「から」という表現を重複して使っている。まさにそれは「悪文」としか言いようがない。「悪文」の見本と言ってもいいぐらいだ。

どうしてこういう「悪文」の本が流通するのか。「いますぐ本を書こう!」の改訂版とも言える「新・いますぐ本を書こう!」がその5年後に出版された。しかし、その「悪文」は訂正されていない。訂正されるどころか、さらにおかしな文章になっている。まったくもって呆れ果てる。 (怒)

間違い 「新・いますぐ本を書こう!」
⇒ ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からというのです。

「です・ます体」と「である体」の説明に誤りが…
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8481725.html

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エッセイには「である体」が最適 ?

2014-02-26 14:01:17 | 日記

「です・ます体」と「である体」

 文章の書き方には「です・ます体」と「である体」というのがある。
  ( 中 略 )
 
私自身、スラスラと書けるのは、「です・ます体」かもしれない。目の前の人に話しかけているようであり、きつい言い方とならないので、遠慮せず書きすすめられるからである。
 
一方、轡田隆史氏は、「です・ます体」はなるべくやめようと説いておられる。「よほどの名手が上手に使わないと冗漫な感じの文章になってしまう」からとの理由である(『うまい!と言われる文章の技術』三笠書房)。
 
「です・ます体」で名文エッセイを書かれる木村治美氏は、評論や論説に「です・ます体」を使えば、読者がカチンとこなくて、やわらかく自己表現できるのではないかと述べておられる。他方、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイと書くときには、「である体」が無難ではないかという。なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。 

以上、「いますぐ本を書こう!」 (ハイブロー武蔵・著   93~94ページ) より
 
 なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されなからという理由からだ。
 
 「から」が重複している。ここは、「増幅されないからだ」でいいのではないか。しかし、それよりもわからないのが「増幅されない」である。
 
おそらく、「ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」とは、女性の文章の特徴ということだろう。「です・ます体」を使えばそれが「増幅されない」ということだろう。
 
著者は、「です・ます体」を使えばやわらかく自己表現できるが、「ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがち」な女性は、そうならないように「である体」を使った方がいいと言いたいのではないのか。そうであるのなら、

>なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」では増幅されない(増幅されずに抑制される)からだ。

 
とすればいいのではないか。 ⇒ 少し(大いに?)おかしい(修正中)

「です・ます」調と「である」調を使い分けよう!http://www.p-press.jp/correct/mailmagazine/mailmagazine24.html  
   
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記憶の風化との闘い ― 世田谷一家殺害事件から13年  

2013-12-29 19:20:01 | 日記

凶悪な犯罪者を野放しにしてはならない

多くの遺留品があるにもかかわらず犯人特定に至っていない。だからこそ一般人からの目撃証言を求めている。しかし、無情に過ぎ去る月日の流れが犯人逮捕を難しくする。
    
犯人は今頃、どこで何をしているのか。
少しも罪悪感を抱かずに私たちのすぐ近くに住んでいるかもしれない。場合によっては同様の犯行を他でもやっているかもしれない。闇サイト殺人事件で逮捕された堀 慶末(よしとも)被告がまさにそうであった。

彼は、闇サイト殺人事件(2007年)で逮捕されて裁判で刑が確定した(2012年)後に1998年に強盗殺人事件を起こしていたことが発覚して再逮捕された。人の命を何とも思わないこういう者にどうして人として生きる権利を認めなければいけないのか。死刑という刑罰はそういう者がいる以上、やむを得ない。

世田谷一家殺害事件から13年 捜査員が情報提供呼び掛け
http://www.youtube.com/watch?v=Mm-3bTv-6Mw

「悲しみ薄れることない」=世田谷一家殺害13年で遺族  
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201312/2013120700371


逆質問に困惑

2013-11-05 11:01:54 | 日記

あるブログの記事に誤記がありました。私はそれをメールで指摘しました。数日してから記事は訂正されました。そして、そのコメント欄に「ご指摘いただきありがとうございました」とありました。

しかし私は、メールで指摘したのにどうしてメールで回答がなかったのかということが納得できませんでした。そこで私はそのコメント欄でその疑問を表明しました。そうしたところ、私の疑問に対する返信がコメント欄にありました。

>大変失礼いたしました。
>実は、ここで返信したのには理由があります。
>なぜだと思いますか? 「翻訳」というキーワードを入れて長文でご回答いただければと思います。

「なぜメールで返信(回答)しなかったのか」と私が質問しているのに「なぜだと思いますか」はないはずです。逆に質問するその感覚が私は理解できません。

皆さんのご意見をお聞かせください。

その記事は、 「推敲の重要性」
http://ribosomaltranslator.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-c3b9...
です。


千葉大生殺害で死刑判決を破棄 

2013-10-08 21:41:18 | 日記

裁判員裁判で2例目の死刑回避の高裁判決

千葉県松戸市でに2009年、千葉大四年荻野友花里さん=当時(21)=を殺害したとして、強盗殺人などの罪に問われた竪山辰美被告(52)の控訴審判決が8日、東京高裁であった。村瀬均裁判長は「被害者が1人の強盗殺人で計画性も認められず、死刑の選択がやむを得ないとはいえない」と、裁判員裁判だった一審・千葉地裁の死刑判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。

裁判員裁判の死刑判決が破棄されるのは2例目。村瀬裁判長は今年6月、1人殺害のケースで裁判員裁判の死刑判決を初めて破棄した。控訴審が裁判員裁判の厳罰化傾向に、歯止めをかける方向性が顕著になった。

村瀬裁判長は「先例をみると、被害者が1人の強盗殺人で計画性がない場合は、死刑は選択されない傾向だ」とし「荻野さん殺害を除けば、人の生命を奪って自己の利欲目的を達成しようとした犯行ではない。強盗致傷や強盗強姦(ごうかん)の前科にも、人の生命を奪おうとまでした事件はない」と述べた。

判決によると、竪山被告は09年10月、荻野さんのマンションの部屋に侵入し、帰宅した荻野さんを縛ってキャッシュカードなどを奪い、包丁で胸を刺して殺害して逃走。その翌日、証拠隠滅のため現場に戻って室内に放火した。ほかに同時期の8人に対する強盗強姦や強盗致傷、窃盗罪なども一括審理した。

千葉地裁は11年6月、被告が刑務所を出所後3ヵ月弱で犯行に及んだ点を指摘し「殺害された被害者が1人でも極刑を回避する事情とはならない」と死刑判決を言い渡した。

以上、東京新聞 2013年10月8日 夕刊 より

死刑判決に慎重な判断が求められるのは当然だ。しかし、裁判員が悩みに悩んで出した判決が高裁で覆るという事が続くとなると裁判員裁判の意味や質が問われかねない。

被害者の母親は、「死んだのが1人だから死刑を回避するとはよく言えたものだ」という感想を述べている。遺族としてその心情は当然のものだ。

どんなに犯した罪を後悔したとしても失われた命は戻ってこない。かけがえのない命を奪った者は、その責任を取るという意味で死刑という刑罰を受けるべきだ。人の命が差別なく尊いというのなら、その尊い命を奪った者こそその命でもって罪を償うことこそ理に叶うというものだ。

最高裁の司法研修所は、「死刑判断は先例を尊重すべきだ」と裁判員裁判の厳罰化傾向に懸念を示している。果たして、裁判員裁判には如何にして参加すればいいのか・・・

 

「完黙」被告、2審は無期懲役 裁判員裁判の死刑判決、初めて破棄 東京高裁http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130620/trl13062013520001-n1.htm (msn 産経ニュース 2013.6.20 13:52)

何故覆ったか、裁判員裁判の判決http://blog.goo.ne.jp/yokosukaikeda/e/031456d8029b4e40308d250502da3a51(2012-02-14 06:00:56)

 

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書評 「人生逆戻りツアー」

2013-09-15 23:32:28 | 日記

心が温かくなり勇気の湧く本!! ・・・

人生逆戻りツアー/泉ウタマロ(本感想)     2011-11-07 22:16:58 | 本感想

とても軽妙なタッチでコミカルすぎるほどコミカルな部分もあるのに、グッと深いことを言ってる。その入りやすさと奥深さの両方で、笑ったりホロッとしたりしているうちにあっという間に読了。

人間誰しも「あの時ああしていたら」「こんなはずじゃなかった」「自分にも夢があったのに…」などと思うことがあるだろう。一度でもある人は、多分とても共感できるし、考えさせられると思う。逆に、自分はこの人生で100%満足!という方は読む必要ないかもです。^^

あるスーパーの店員をしている60代の男があっけなく死んでしまう。死んでしまうところから始まる話。死んだ彼は自分の3人の守護天使と会い、人生を逆回しに振り返る旅に出る。…という荒唐無稽な話ではあるのだけど、随所に出てくるまるで格言のような言葉が本当に心に沁みる。

( 中 略 )

この主人公は、死んでしまってから魂の世界で自分の人生を一つ一つ検証していき、最後には変な神様(おかまです!笑)に直接話を聞いて、学んでいく。次に生まれる時には記憶はなくなってしまうのだけど、ほんの少しずつ前世よりも進歩できるのでは?と思わせてくれる。

そうは言っても、誰もが好きなことを職業にして、しかもそれが人をも幸せにできるとか、そう単純にできていないのが人生…ってことは分かっている。

でも、あっという間に歳を重ねてきてしまって、なんとなく人生尻すぼみ的な感じになっていた今日この頃、たまたまこの本と出会った今、キラキラ輝く方との新しい出会いや頑張っている懐かしい人との再会が重なり、私もまだまだこれからやらなきゃ!と思えた。

以上、 http://blog.goo.ne.jp/yuyuhirorin/e/405b09c2ef6049412932ba1a851eaceb より

 他の書評にもありますが、かなりの人が一気に読み終えたと言っています。しかし私は、これを読み終わるのに難儀しました。「あれっ?」と思うところが多々ありました。その一つが、50ページの「583回目の過去生と私」です。

なぜ「583回目」なのでしょうか。また、「過去生と私」というのもよくわかりません(「583回目」の「過去生と私」なのか、それとも「583回目の過去生」と「私」なのか・・・。そもそも私は、「過去生」という言葉を知りませんでした)。

主人公は64歳で亡くなりました。この64年の人生とその「583」という数字はどう関係するのかというのが私はわかりません。583÷64=9.1・・・(?) 「その数字に意味はない。単なる語呂合わせ」と言う人もいます。さっぱりわかりません。

141ページには「おそらく天使の名はウリエルであろう」とあります。主人公がそう言っているのですが、なぜ「おそらく」なのかということについてまったく言及ありません。また、「ウリエル」という天使(の名前)はここで初めて出てきます。しかし、ウリエルはストーリー展開に何も関与していません。どうしてそういうストーリーに無関係な天使が出てくる必要があるのかと思います。まったく理解できません。

同書を読んで感動したという人にぜひ聞いてみたいと思います。「あなたは何も疑問は抱きませんでしたか」。あるいは、「あなたの感動は本物ですか」と。(怒られるかな……)


土佐 樹誉彦氏のブログ

2013-08-26 11:04:53 | 日記

息子・娘達へ   

以下、抜粋(一部ハイライト表示)です。全文は ⇒ 「義理と人情と心意気と・・・ときどきてきと~に2」

学校は楽しいですか? 友達と沢山遊んでいますか?ご飯は沢山食べていますか?ボールを蹴ったり、壁に上ったり、自転車で冒険したり、秘密基地を作ったり・・・

今あなたが経験していることは、大人になったときにとても役に立つ事です。友達と物の獲りっこをしたり、いたずらやケンカをすることもあるでしょう。新しい遊びを考えたり、木の枝などで武器を作ったり、好きな子にわざとちょっかいを出してみたり、テレビや友達から覚えたばかりの乱暴な言葉をわざと使ってみたり、近所の家のインターホンをいたずらで鳴らして逃げて怒られているかもしれませんね。

それらの経験で学ぶものは学校の勉強からは得られません。テレビゲームからも得られません。でも勉強はしっかりとして下さい。出来ないよりは出来たほうが良い。大人になって必要な基礎、また学ぶという姿勢は必ず役に立ちます。それを今しっかりと築いて下さい。

テレビゲーム、ポータブルゲームは無くても良い。やらなくても、あなたの人生を困らせることはありません。代わりに沢山の本を読んでください。本を読むことで、知識が増え、読み取る力がつき、勉強もできるようになります。何より、あなたが一生かけても出来ない経験を本の世界では得ることができます。それはあなたの人間としての厚み可能性を無限に広げてくれます。

色々な友達や、周囲の人達との関わりを大切にして下さい。誰かに会ったときには必ず笑顔で、自分から挨拶をして下さい。その人がそのときは返してくれなくてもです。いずれその人達があなたの味方になってくれるでしょう。そして、自分が心をひらかなければ、相手もひらいてくれないことを知って下さい。

あなたを叱ることがあります。あなたが嫌いだからではなく、可愛いからこそと理解して下さい。自分があなたと同じ年齢を経験してきたからこそ、叱らなくてはいけないときがあります。

今は家族以外の人から叱られることが少なくなりました。でもお父さん・お母さんだけではなく、他人から叱られることはとても大切なことです。その時は嫌な気分になるかもしれませんが、本当に大切なことを教えてもらっていると思ってください。

そして、家でも、学校でも、習い事でも、辛いことがあったときに逃げないで下さい。善悪の判別がつかない小さいうちは特にです。そのときはお父さん・お母さんの言うことを聞いて下さい。逃げることからは何も生まれません。目を背けず、向き合うこと、それがあなたの心を鍛えてくれます。

ただ、万が一いじめだったり、一人ではどうしようもないときには、逃げていい場合もあります・・そのときにはあなたは絶対に一人ではない ということを忘れないで下さい。

たまに、家庭でも、学校でも、友達同士でも理不尽なことがあります。でも、生きていると常に正しいことは起こりません。むしろ、沢山の正しくないことと、正しいことがあって世の中が出来ています。生きている人間の数だけそれはあります。10人居たら、それぞれが違う考えであることを理解して、むしろそれは自然なことであると処理をして下さい。

しかし、それでも正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると貫き通せる自分の信念を持って下さい。間違っていると分かったときには、素直に謝ってください。意地を張っても何のプラスにもなりません。

なにより、あなたが今生きているのは、お父さんお母さんがいるお陰です今、毎日ご飯が食べられること、着る服があること、幼稚園や学校にいけること、空手やプールやサッカー野球、ダンス、塾、へいけることは当たり前ではありません。いきたくてもいけない子、好きなものを食べたくても食べられない子が世の中にはいます。自分だけがこの世の中で生きているわけではないこと、そしてご両親に生かされていることに感謝の気持ちを持って下さい。

習い事は行かされているのではなく、行かせて頂いているのです。僕は私はそんなこと頼んでないなんて思わないで下さい。それを言っていいのは、一人で生きる力がついたときです。大体、やらされた、やらされてると思いがちですが、それは違います。養われているうちは、自分で生きていけないうちは、それは言ってはいけない。なぜなら、お父さん、お母さんの長い人生の経験で、必要であると思うことだからこそ学ばせています。

それでも、言いたくなるときも、言ってしまうときも、言うことを聞きたくないときもあるでしょう。それは自然なことです。なにより、あなたが親離れをしようとしている証しです。そのときは口げんかをするかもしれませんが、お父さんとお母さんはあなたの成長を強く感じ喜んでくれているはずです。今は分からなくても、いつかあなたに家族ができたときにその意味が分かるでしょう。

人間はそうやって、周りの人たちと自分の違いの中で揉まれて大きくなっていきます。お父さん、お母さんとそうした話しが出来るようになったことに感謝してください。どんなに気に入らなくても、少なくともあなたをそこまで育てたのはお父さん、お母さんです。

一生のうち本当に多くの人たちとめぐり合いますが、友達、仲間を大切にしてください。どれだけあなたが偉くなっても、強くなっても、お金を持っていたとしても、人はただそれだけの人にはついてきてくれません。ついてきているとしたらそれは、あなたにではなく、あなたの持っているお金、名誉、地位、に対してです。

人の心、繋がり、絆は、その人がもっている心に惹かれます。それは未来永劫絶対に変わりません。あなたの親友・心友が、仲間が、一生の財産・宝となります。そんな「心」で付き合える友達を作ってください。

そのために、色んな人に会い、見て、話しをし、色々な考え方、視点、発想力、応用力を学ぶ必要があります。自分の考え方、意見をしっかりとつくる必要があります。だからこそ、テレビゲームなどではなく外に出て、友達と遊び、沢山の経験を積んで下さい。

人はときに失敗をすることがあります。失敗しない人間は居ない。人は失敗することを恐れます。失敗はしないほうが良い。だけど恐れず沢山の失敗をして下さい。失敗・挫折無くして、人間は成長しない。失敗は、あなたを次のステップへ進ませてくれるために起こります。そのときにあなたがこれをどう捉えるかで、人生は変わります。神様はあなたに乗り越えられない試練は与えません。

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1985年8月12日、御巣鷹山

2013-08-12 22:33:26 | 日記

空の安全を祈って28年  

520名の乗客・乗員が亡くなりました。働き盛りで会社の命運を握っていた人や家族連れの乗客など、その一人一人の人生がこの事故で失われました。それと同時に、関係する人たちの人生も大きく狂いました。年老いてから慰霊のために登山することになろうとは誰が思ったことでしょうか。

4名が奇跡的に救助されました。しかし、機体の破損で迷走を続けていた数十分間、どんなに怖かったことかと思います。死を覚悟したとしてもおかしくありません。

「両親をたのむ。しっかり生きろ。立派になれ」「こんなことになるとは残念だ。さよなら。子供達のことをたのむ」というメッセージをメモとして残した乗客もいます。文字の乱れは機体の揺れが如何にすごかったかを物語っていました。

操縦士は、懸命に操縦が不能になった機体の立て直しを図っていました。ボイスレコーダーに残されたその音声を聞くと、乗客の安全を守ろうとする悲痛な叫びが聞こえます。  

あらためて520名の御霊に頭を垂れると同時に、「空の安全」を祈らざるを得ません。  

                                       合 掌

          

御巣鷹の尾根、昇魂之碑

www.­goennet.­ne.­jp/­~hohri/­n-­irei.­htm


ブログに綴る「生きた証」

2013-08-07 10:02:41 | 日記

小野義秀氏は、矯正の世界に身を置いて35年。退職後は伊豆高原に居を構え、ブログ「伊豆高原シニア・ライフ日記」で、自然あふれる環境の下での悠々自適の生活を綴っています。

「少しでも身体能力と知的能力の衰退を防ぎ、他者に依存することなく自立できる後期高齢者の生き方をできるだけ実現するよう日々努力したい」とブログで自己紹介しています。

2005年から書き始め、当初は試行錯誤の連続だったといいます。そして、齢を重ねるに従い、「いつしか気付かぬままに」執筆の量が減ってきているといいます。そしてそれは、「致し方ないことなのであろう」といいます。

歳をとれば誰でも気力が衰え、できることも限られてきます。だからこそ、歳をとってから書くブログはかなりの重みを持ってきます。「ブログ道」の久米信行氏も、人生最後の日までブログを書き続けていくことに意味があると言っています。 

小野氏は、ブログの記事を本にして残しています。いわば「私家版」というものです。毎年2回、半年分の記事をブログの製本サービス「Mybooks」を利用して本にし、それが今年の夏に14冊になったといいます。

「14冊の記録を手元に置いてみると、よくぞここまで書き続けてきたとも思う。これから後何年、つまりあと何冊書き上げることができるだろうか」と、小野氏はその思いを綴っています。パソコンで読むのと違って印刷(製本)されたものを手に取って読む感慨は格別なものだろうと思います。それはまさに、「生きた証」をそこに見ると言っていいのではないでしょうか。

「いずれにせよ、この冊子を広げる人があるとすれば家内しかいないだろうが、一つの形を残すこと自体にも意味あることだとおもっている」と、小野氏はいいます。

しかし、親が健在なときにはそのブログをまともに読まなかった子供も親の死後にはそれをかけがえのない形見として手に取って読むはずです。そういう親子関係もあっていいと思います。

私は子供がいません。しかし私もブログを「生きた証」として活用しています。子供がいないからこそブログに「生きた証」を残す意味もあろうかと思います。

伊豆高原シニア・ライフ日記 ⇒ http://blog.goo.ne.jp/tengoro7406

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