歌舞伎学会事務局

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事務局インタビュー「この人、どんな人?(3)犬丸治」

2015-03-16 13:44:09 | 人物紹介
この突撃インタビュー企画も、めでたく3回目を迎えました(パチパチ)! 
お声をかけては「いやいや、私は(僕は)いいです~」とフラれ続けた事務局Sを「来ましたか」と迎えてくださった今回のゲストは犬丸治先生。
企画委員でもあり、歌舞伎学会奨励賞の選考委員でもある先生をつかまえたのは、先日、皆様のおかげで成功裏に終了しました秋季大会の初日が幕を開ける直前のことでした。では、始まり始まり…。



犬丸 治(いぬまるおさむ)
1959年、東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。歌舞伎学会運営委員、日本ペンクラブ会員。現在「テアトロ」、読売新聞夕刊に歌舞伎劇評執筆。著書に「市川新之助論」(講談社現代新書 2003。のち「市川海老蔵」岩波現代文庫 2011として増補)、「菅原伝授手習鑑精読 歌舞伎と天皇」(岩波現代文庫 2012)など。


―まずは現職を教えてください。
「演劇評論家」ですが、本職はテレビ局で放送内容の間違い・放送表現の是非などをチェックする「番組考査」という仕事をしております。
そもそも僕が歌舞伎を観始めたのは、昭和46年(1971)9月の国立劇場。演目は『東海道四谷怪談』で、それで歌舞伎が大好きになったんです。


―おいくつの頃でしたか?
小学校6年生ですね。
我が家の人間はそれほど歌舞伎というものに縁が無くて、どちらかというと欧米文化派。
僕みたいな「日本文化が好きだ」っていうのは異色だったんだけど(笑)、とにかく「昔のものが好きで、調べることが好き」で、っていう性格と歌舞伎とが、妙にマッチしてね。


―昔のものが好きというのは、小さな頃から?
古今東西の美術とかが好きで、美術全集を抱えては飽かずに眺めていた、マセた子どもでした。

―その『四谷怪談』は、誰が出ていたか覚えてらっしゃいます?
この前、三十三回忌をやった白鸚の伊右衛門。お岩が(十七代目)勘三郎(※1)
直助が猿之助(今の猿翁)で、与茂七が今の幸四郎。お袖が精四郎、今の澤村藤十郎でした。
なかなか良い舞台でね。最後の「蛇山庵室」が、原作通り、雪なんですよ。
伊右衛門がお岩さんに祟られて、よろぼい出たときに、雪が降っていて。後ろが黒幕なんだけど、それがパッと振り落とされて雪の遠見がわあっと拡がったときに、「なんなのこれ!?」って子ども心にすごく新鮮で。
鮮やかな記憶が今でも残ってますよ。


―その中で一番印象に残った役者は?
僕は猿之助ですね、不思議なんですけど。
「三角屋敷」で、(直助が)お袖とまさに関係をもとうとしている。上手のところで、衝立を立てて濡れ場になってて、そこに与茂七が訪ねてくるんだけれども、そのときに(直助が)上半身裸になって出てくるわけ。その肉体が生々しくてね。
あるいは、奥田庄三郎を殺して、顔の皮を剥ぐところなんか結構リアルに演ってねえ。そういう細部が、妙に印象に残ってるんですよ。「歌舞伎っていうのはこういうこともやるのか」って、すごく新鮮な感想をもちました。


―歌舞伎好きの犬丸少年が演劇評論家になるまでに、そこからどんな道のりがあったんでしょうか。
僕の家と家族ぐるみの付き合いがあった方に、巌谷慎一さんという方がいらっしゃいました。
歌舞伎座の監事室ってありますよね、客席の一番後ろの方の小部屋で、ダメを出したり、いつも観ている所。
巌谷さんはその監事室長だったのですが、なぜか、小学生か中学生くらいの僕をとても可愛がってくれて、いつも監事室に入れてくれたので、そこで観ていたんです。
僕は十一代目團十郎や寿海は間に合わなかったけども、(十四代目)勘弥や(八代目)三津五郎ってよく観てたので、それは良かったなぁと思います。
たとえば、勘弥の与三郎が「見染め」で浜辺というか客席を歩いてきて、監事室の前を通って、ガッと曲がるんですよね。ああいうところなんか、監事室側から勘弥の顔を見られる経験をしたという(笑)。
舞台稽古なんかも結構見せてもらって、勘三郎と(二代目)松緑の『安政奇聞佃夜嵐』とか、今でも覚えてますね。


―それは貴重なものをご覧になって。劇評を書いてみたいと思った一番のきっかけは?
いやぁ、なんでしょうね。
大学では歌舞伎研究会に入りました。慶應の歌舞伎研究会は、古くは戸板(康二)先生や渡辺(保)さんとかを輩出した歴史ある部で、今でもそうですが、学生は実演というのがありまして、僕も…。

―どのお役を?
僕は二年から入って、そのときが『盛綱陣屋』のあばれの信楽太郎を演って、三年のときが『伊勢音頭』の喜助。
―良い役ですね!(笑)
ねえ(笑)。ですから、書くことや調べることはもともと好きで、中学校のレポートで南北について書いたりもしてましたので、今にして思うと素地はあったのかなとは思いますけれど、当時は歌舞伎好きの若者に過ぎませんでしたね。

―それで、就活してテレビ局に入られるわけですよね。
テレビ局に入ってしばらくは、全然芝居が観られなかった。僕は、ラジオを経てテレビの報道に異動になったんですね。ちょうど昭和天皇の崩御とかにもぶつかって、宮内庁担当で宮内記者会(記者クラブ)にいたから、メチャクチャ忙しい。
ですから、勘三郎や松緑の晩年は見逃してるんですよ。
で、非現場(テレビの現場以外のセクション)に移ってからは少しは土日が空くようになって、自分の時間ができるようになったのね。そのときに「また芝居に行ってみようか」って昔の虫が疼いて。観に行ったんです。
そのうち「自分でも(劇評を)書いてみたい」という欲求が抑えきれず、「演劇界」の懸賞劇評に書いた頃もありました。
歌舞伎学会ができて一番魅力的だったのは、僕たちが憧れてた渡辺(保)さんや服部(幸雄)さんや、今尾(哲也)さんといった方々と、気鋭の学者が集まって「歌舞伎をなんとかしたい」「現状の歌舞伎を考えよう」という動きができたこと。
そのとき「自分も参加できたら」という熱い思いが込み上げたのは事実ですよね。
歌舞伎を観るだけじゃなくて、学んで、それを今の歌舞伎に反映させたい。その気持ちを実現できる場はないかと考えていたときに、歌舞伎学会ができた。
学会も開かれていたけれど、何より紀要(学会誌)が投稿を受け付けていたということですね。
そこで自分の力試しという気持ちもあって、応募したら、大変温かい評価をしていただきました。
また、その頃「劇評」という小さな雑誌があって、清水一朗さん(学会員)からも声をかけていただいて書くようになったり、そういったさまざまな巡り会わせが講じて、今に至るというか…。


―そうだったんですか。
紀要に投稿していくうちに、こちらでの発表もさせていただいて、その結果、僕が光栄にも委員にも選ばれて。
つまり歌舞伎学会での活動が、今の僕が新聞なり雑誌なりで、劇評家の末席に名を連ねることに繋がったという感じがします。
ですから、歌舞伎学会にもしご興味があるのでしたら、開かれた学会で、誰にでも開かれた道がある、ということを知ってもらいたい。決して、学問的に敷居が高いわけでもないし、歌舞伎が好きなら誰でも参加できますから。


―紀要が一般の方々にも開かれている点は特長ですよね。ちなみに、これまでの『歌舞伎 研究と批評』のなかで印象に残っているものは?
投稿したものでは、最初に書いた「明治婦人の観劇記録~演劇資料としての『穂積歌子日記』」(第7号)ですね。
これは、研究者としての僕なりの習作みたいなものなんだけれど、その次の「お辰の残像 『謎帯一寸徳兵衛』論」(第8号)は、自分の研究と劇評とがマッチングしたらどうなるだろうかっていう試みだったのね。
紀要でも「研究と批評」と謳っているから、「それをうまく融合させたものがなにかできないかな? それまでにないものを考えよう」という気持ちがありました。


―お読みになって印象に残っているものは?
渡辺(保)さんの「九代目団十郎の弁慶」(第7号)かな。
やっぱり、我々が『勧進帳』として後生大事に語っていたものがいかに崩れているか。
九代目がこれだけ掘り下げて、工夫してきたんだということを、非常に実証的に事例を挙げておられて「なるほどなあ」と思いましたよ。
これが一つの、僕なんかは、劇評を書くときのある意味での「お手本」というか。
型というものを知悉した上で書かなければ、ただの印象批評になってしまうし、建設的ではないなと思います。


―書くこと、読むこと、観ることが、歌舞伎学会の活動を通して先生の中で融和しているんですね。
たまたま、僕の中では、本当に幸福な出会いだったと思いますね。

<取材・文=事務局S>


【MEMO】
※1 お岩・小佛小平・吉野屋お波(十七代目中村勘三郎)伊右衛門(八代目松本幸四郎=初代松本白鸚)直助(三代目市川猿之助=二代目市川猿翁)与茂七(六代目市川染五郎=九代目松本幸四郎)お袖(澤村精四郎=二代目澤村藤十郎)喜兵衛(二代目市村吉五郎)奥田庄三郎(四代目市川段四郎)四谷左門(四代目坂東秀調)藤八(二代目市川子團次)秋山長兵衛(七代目市川寿美蔵)お梅(十七代目市村家橘)宅悦(二代目坂東弥五郎)宅悦女房おいろ(二代目中村小山三)後家お弓(中村万之丞=二代目中村吉之丞)ほか
コメント (1)
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