東京都写真美術館で日本の新進作家 vol.21「現在地のまなざし」を見た。
展のフライヤに大きく載せられた、かんのさゆりのNewStandardLandscapeに惹かれて。
特に記憶に残ったのは原田裕規の「写真が山になるまで」。
不用品回収業者らによって日々回収されるゴミの中に含まれるおびただしい量の写真は、「売れる写真」は選別して売りに出され、「売れない写真」はゴミとして捨てられていることを知った作家が、写真の山から一枚一枚、手にとっては眺める映像が流れる。いわゆる記念写真がほとんど。大勢の集合写真もあれば、観光地や何かの発表会のとかでの家族や仲間同士数名の記念写真、飲み会のどうしようもない写真やモノクロの名刺判もある。「売れる写真」の選別基準は明かされない。おそらく「売れない写真」が延々ゆっくりと画面にスクロールされる。
今の時代のようにスマホで気軽にではなく、わざわざカメラを持ち出してかしこまって撮った紙焼き写真が大量に捨てられているのを目の当たりにした喪失感というか虚無感のようなものが沸き上がる。それと、他人のプライベートをのぞき見するような居心地の悪さも。
失敗したプリントをやぶいて捨てることなど日常だが、そういうこととはまるで違う。少なくとも写真の持ち主が亡くなれば、持ち物の写真は処分されよう。持ち主が存命でも、撮ったときのことが殆ど思い出せないような写真は、断捨離とかで捨てられもしよう。でも何か、捨ててしまっていいんだっけ、といった気持ちがかすかに疼く。Googleの捨てないで~のCMみたいな感じでもある。
今、ゆっくりと実家じまいに手を付けているところだが、あちこちから未整理の写真が出てくる。とりあえず、決めた箱に放り込んでいっているが、この先自分一人でアルバムなどに整理できるとは思えないし、したところでそれを父や兄弟がどこまで懐かしんで眺めることができるかが疑問。そうなると、うちの写真もこの「写真の山」の仲間入りか。
写真を撮る行為は、選別の連続。とはいえ、その選別の基準は…?。
作家はこの写真の山から何かを選び出そうとしているわけではなさそうだ。しかし、思いが募ったのは、選別の基準。
実家で見つけた写真の山から、残す写真を選び出す基準。
撮った写真から、このブログに上げる写真を選び出す基準。
目の前の景色にカメラを向け、シャッターを押すタイミングを選ぶ基準。。
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