昔の文章、少し修正して再掲載。
(2007.05.23掲載文から)
ここ最近、みみかは「教室」へは行かずジジのそばにいます。
現在の我が家は、実家の母がこちらから仕事に出かけ、帰って来るという体制をとっています。
実家で母の帰りを一人待つよりも、みんなで一緒にいる方が父にとってもいいだろうし、みみかにとっても安心だろうという事になったのです。
しかし、以前も同じ試みをしたことがあり、父の予想の付かない行動や気持ちの変化に、振り回されてしまうことが多くありました。
今回も同じような展開になる可能性は大いにありますが、以前とは歴然とした違いがあります。
それは、父とみみかが導くように、『みんなが一緒にいる』状態を作り出そうと働いていること(無意識的でも)。
それに、子供にとって祖父母と一緒にいるという、大家族的な要素の大きな意義を、ママがとても感じていることです。
私たち人間の喜びや楽しみは、自分の持っているものを生かすこと、表現すること、個性を現しだすこと。
それは、子供も大人も老人も同じでしょう。
高齢化の進むこれから、老人たちの楽しみ生き甲斐は、孫やそれに当たる子供たちに、自らの人生経験から得た、貴重な知恵や豊富な体験や、深い愛を与えること・・そんな風にママは思うのです。
親のように責任がないから・・とか、ただただ可愛くて溺愛する・・と言うようなものではなく、孫(それに当たる子供たち)に対する祖父母の愛は、親の無償の愛に加えた更なる大きな深いものがあるように感じられるのです。
そんな深い大きな愛をいっぱいに受け、心豊かになる子供たちはどれだけ健やかに育つことでしょう。
また、孫(それに当たる子供たち)というかけがえのない存在に、老人たちはどれだけの喜びを見出し、自分自身を表現することが出来るでしょう。
これから向かおうとしている社会の成り立ちには、子供からすれば父母から与えられる影響だけではなく、祖父母やその他の存在からの影響、大家族的な要素が必ず必要になってくるのではないかと思うのです。
思えば、「天地一切の子・地球の子・全ての子」である子供たちの未来には、(閉鎖的な)核家族では、ある意味限界があるのかも知れないと感じる、今日この頃のママなのです。
我が家において言えば、『みんなが一緒にいる』ことで、母にとっても私にとっても自分以外の拠りどころがあり、些細な愚痴でも語り合えます。
相手が子供のみみかであったり、認知症の夫であったりするだけでは、なかなか対処し切れないものが出て来てしまいます。
みみかに関して言えば、『みんなが一緒にいる』ことで、たとえそれが認知症の祖父であっても何も問題はありません。
認知症のそんなジジと接することで、それに対する理解と認識が深まり、自分が彼に出来る役割を自然とやってくれています。
たとえば、庭いじりの後の、汚れた手を洗うための洗面所への誘導や、石鹸の使い方の指導。
たとえば、歯磨きの際の、歯ブラシに歯磨き粉を付けてから渡してあげる・・とか。
きっと、こんな経験を生かして、他の認知症の人たちへの対応の仕方も、みみかは自ずと分かるようになるのかも知れません。
何事も、無駄なものは何一つ無いのでしょう。
「教室」が嫌になったわけではないみみか。
「ジジのことは心配ないからね。」と言っても、今はどうしてもその気にはなれない様子。
今のみみか(及びママをはじめみんな)は、自分がジジのそばにいること、ジジババが自分のそばにいてくれることなど、『みんなが一緒にいる』ことの大切さを実感するという、尊い体験をしている貴重な瞬間なのかも知れません。
※今になって、この当時のことは、【『みんなが一緒にいる』ことの大切さを実感するという、尊い体験をしている貴重な瞬間だった】と、本当にそう思えている。
ずっとという長期的じゃなくとも、それが一時的なことであっても、『みんなが一緒にいる』という瞬間を体験すること、その体験自体にかけがえのない意味があるのだと、そうつくづく感じる現在である。
大家族的な要素の大きな意義、そんな認識を深めるに至ったあの瞬間、味わった貴重な体験。
〜体験はいつか生きてくる〜
(2007.05.23掲載文から)
ここ最近、みみかは「教室」へは行かずジジのそばにいます。
現在の我が家は、実家の母がこちらから仕事に出かけ、帰って来るという体制をとっています。
実家で母の帰りを一人待つよりも、みんなで一緒にいる方が父にとってもいいだろうし、みみかにとっても安心だろうという事になったのです。
しかし、以前も同じ試みをしたことがあり、父の予想の付かない行動や気持ちの変化に、振り回されてしまうことが多くありました。
今回も同じような展開になる可能性は大いにありますが、以前とは歴然とした違いがあります。
それは、父とみみかが導くように、『みんなが一緒にいる』状態を作り出そうと働いていること(無意識的でも)。
それに、子供にとって祖父母と一緒にいるという、大家族的な要素の大きな意義を、ママがとても感じていることです。
私たち人間の喜びや楽しみは、自分の持っているものを生かすこと、表現すること、個性を現しだすこと。
それは、子供も大人も老人も同じでしょう。
高齢化の進むこれから、老人たちの楽しみ生き甲斐は、孫やそれに当たる子供たちに、自らの人生経験から得た、貴重な知恵や豊富な体験や、深い愛を与えること・・そんな風にママは思うのです。
親のように責任がないから・・とか、ただただ可愛くて溺愛する・・と言うようなものではなく、孫(それに当たる子供たち)に対する祖父母の愛は、親の無償の愛に加えた更なる大きな深いものがあるように感じられるのです。
そんな深い大きな愛をいっぱいに受け、心豊かになる子供たちはどれだけ健やかに育つことでしょう。
また、孫(それに当たる子供たち)というかけがえのない存在に、老人たちはどれだけの喜びを見出し、自分自身を表現することが出来るでしょう。
これから向かおうとしている社会の成り立ちには、子供からすれば父母から与えられる影響だけではなく、祖父母やその他の存在からの影響、大家族的な要素が必ず必要になってくるのではないかと思うのです。
思えば、「天地一切の子・地球の子・全ての子」である子供たちの未来には、(閉鎖的な)核家族では、ある意味限界があるのかも知れないと感じる、今日この頃のママなのです。
我が家において言えば、『みんなが一緒にいる』ことで、母にとっても私にとっても自分以外の拠りどころがあり、些細な愚痴でも語り合えます。
相手が子供のみみかであったり、認知症の夫であったりするだけでは、なかなか対処し切れないものが出て来てしまいます。
みみかに関して言えば、『みんなが一緒にいる』ことで、たとえそれが認知症の祖父であっても何も問題はありません。
認知症のそんなジジと接することで、それに対する理解と認識が深まり、自分が彼に出来る役割を自然とやってくれています。
たとえば、庭いじりの後の、汚れた手を洗うための洗面所への誘導や、石鹸の使い方の指導。
たとえば、歯磨きの際の、歯ブラシに歯磨き粉を付けてから渡してあげる・・とか。
きっと、こんな経験を生かして、他の認知症の人たちへの対応の仕方も、みみかは自ずと分かるようになるのかも知れません。
何事も、無駄なものは何一つ無いのでしょう。
「教室」が嫌になったわけではないみみか。
「ジジのことは心配ないからね。」と言っても、今はどうしてもその気にはなれない様子。
今のみみか(及びママをはじめみんな)は、自分がジジのそばにいること、ジジババが自分のそばにいてくれることなど、『みんなが一緒にいる』ことの大切さを実感するという、尊い体験をしている貴重な瞬間なのかも知れません。
※今になって、この当時のことは、【『みんなが一緒にいる』ことの大切さを実感するという、尊い体験をしている貴重な瞬間だった】と、本当にそう思えている。
ずっとという長期的じゃなくとも、それが一時的なことであっても、『みんなが一緒にいる』という瞬間を体験すること、その体験自体にかけがえのない意味があるのだと、そうつくづく感じる現在である。
大家族的な要素の大きな意義、そんな認識を深めるに至ったあの瞬間、味わった貴重な体験。
〜体験はいつか生きてくる〜