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朝の光(聖書の言葉)

インマヌエル(イザヤ7:14)ほか   イザヤ書 抜粋

イザヤ書によるキリスト(救い主)の預言




キリストの誕生の預言


(イザヤ7:14)

「それゆえ、
主はみずから
一つのしるしを
あなたがたに与えられる。
見よ、
おとめがみごもって
男の子を産む。
その名は
インマヌエルと
となえられる。」


イザヤ7:14の

「インマヌエル」

なる男の子の性質を

明らかにします。




王なるメシヤ(キリスト)


(イザヤ9:6,7)

「ひとりのみどりごが,
私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が,
私たちに与えられる。
主権はその肩にあり,
その名は
『不思議な助言者,
力ある神,永遠の父,
平和の君』と呼ばれる。
その主権は増し加わり,
その平和は限りなく,
ダビデの王座に着いて,
その王国を治め,
さばきと正義によって
これを堅く立て,
これをささえる。
今より,とこしえまで。
万軍の主の熱心が
これを成し遂げる。」



(イザヤ7:14)

「それゆえ、主はみずから
一つのしるしを
あなたがたに与えられる。
見よ、
おとめがみごもって
男の子を産む。
その名は
インマヌエルととなえられる。」

 

イザヤ7:14の

「インマヌエル」

なる男の子の性質を

明らかにします。


この方は

『不思議な助言者,力ある神,

永遠の父,平和の君』です。


ダビデの王座に就く

メシヤ(キリスト)を描き,

ダビデの子孫のイエスにおいて

この預言が成就します。






キリストの来臨の預言


(イザヤ11:1-10)

「エッサイの株から一つの芽が出,
その根から一つの若枝が
生えて実を結び,
その上に主の霊がとどまる。
これは知恵と悟りの霊,
深慮と才能の霊,
主を知る知識と
主を恐れる霊である。
彼は主を恐れることを楽しみとし,
その目の見るところによって,
さばきをなさず,
その耳の聞くところによって,
定めをなさず,
正義をもって貧しい者をさばき,
公平をもって
国のうちの柔和な者のために
定めをなし,
その口のむちをもって国を撃ち,
そのくちびるの息をもって
悪しき者を殺す。
正義はその腰の帯となり,
忠信はその身の帯となる。
おおかみは小羊と共にやどり,
ひょうは子やぎと共に伏し,
子牛,若じし,
肥えたる家畜は共にいて,
小さいわらべに導かれ,
雌牛と熊とは食い物を共にし,
牛の子と熊の子と共に伏し,
ししは牛のようにわらを食い,
乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ,
乳離れの子は
手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山の
どこにおいても,
そこなうことなく,
やぶることがない。
水が海をおおっているように,
主を知る知識が
地に満ちるからである。
その日,エッサイの根が立って,
もろもろの民の旗となり,
もろもろの国びとは
これに尋ね求め,
その置かれる所に栄光がある。」



イザヤは,

紀元前8世紀に南ユダに

あらわれた預言者です。


旧約聖書の中で

最大の預言者の一人です。


イザヤは,

キリスト(メシヤ)の来臨の

預言をします。




(イザヤ11:1,2)

「エッサイの株から一つの芽が出,
その根から
一つの若枝が生えて実を結び,
その上に主の霊がとどまる。
これは知恵と悟りの霊,
深慮と才能の霊,
主を知る知識と
主を恐れる霊である。」


「新芽」,「若枝」は,

ダビデの家系から出る王である

キリストを指します。


キリストの上に

聖霊(「主の霊」)が

とどまります。





(イザヤ11:3-5)

「彼は主を恐れることを
楽しみとし,
その目の見るところによって,
さばきをなさず,
その耳の聞くところによって,
定めをなさず,
正義をもって貧しい者をさばき,
公平をもって国のうちの
柔和な者のために定めをなし,
その口のむちをもって国を撃ち,
そのくちびるの息をもって
悪しき者を殺す。
正義はその腰の帯となり,
忠信はその身の帯となる。」


このキリストは,

イスラエルの王として,

「正義」と,

「公平」によって導きます。





(イザヤ11:6-9)

「おおかみは小羊と共にやどり,
ひょうは子やぎと共に伏し,
子牛,若じし,
肥えたる家畜は共にいて,
小さいわらべに導かれ,
雌牛と熊とは食い物を共にし,
牛の子と熊の子と共に伏し,
ししは牛のようにわらを食い,
乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ,
乳離れの子は
手をまむしの穴に入れる。
彼らは
わが聖なる山のどこにおいても,
そこなうことなく,
やぶることがない。
水が海をおおっているように,
主を知る知識が
地に満ちるからである。」


キリストの来臨によって,

エデンの園における

平和が回復します。




神の栄光


(イザヤ11:10)

「その日,エッサイの根が立って,
もろもろの民の旗となり,
もろもろの国びとは
これに尋ね求め,
その置かれる所に栄光がある。」



「その日」とは,

終末のとき,

神の栄光が現れるときです。


神の国,

神の民の回復の預言します。





「主のしもべ」の歌



(イザヤ53:5)


「しかし,彼は,

私たちのそむきの罪のために

刺し通され,

私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが

私たちに平安をもたらし,

彼の打ち傷によって,

私たちはいやされた。」





この著者のイザヤは,

イエス・キリストの生まれる

500年近く前に

生まれた旧約時代の預言者です。

 
イザヤ書のこの箇所は,

「主のしもべ」,

あるいは「受難のしもべ」

といわれています。


苦難のしもべ苦難は,

彼自身に理由があるのではなく,

他の人々の身代り,代償でした。


自分自身が何か罪を犯し,

報いとして災いを受ける

というのではありません。


刑罰を受けるべき者たちの

身代りとなって刑罰を受け,

傷つけられ,苦しめられるのです。


苦難のしもべは,

「私たち」に「平安」を与え,

「いやし」を与えるために,

わたしたちの身代りになりました。



☆彡



(イザヤ53:3-5)


「彼はさげすまれ,

人々からのけ者にされ,

悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげすまれ,

私たちも彼を尊ばなかった。

まことに,彼は私たちの病を負い,

私たちの痛みをになった。

だが,私たちは思った。

彼は罰せられ,神に打たれ,

苦しめられたのだと。

しかし,彼は,

私たちのそむきの罪のために

刺し通され,

私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが

私たちに平安をもたらし,

彼の打ち傷によって,

私たちはいやされた。」



この「受難のしもべ」は,

だれのことでしょうか。


この時代の人にとっては,

イスラエルの民の罪を負って

代償的な死を遂げる

メシア(キリスト)と

みなすことが出来ました。



新約聖書では,この言葉は,

受難に会い十字架にかけられた

イエス・キリストの

預言であったとしています。


 
(1ペテロ2:21-24)

「あなたがたが召されたのは,

実にそのためです。

キリストも,

あなたがたのために苦しみを受け,

その足跡に従うようにと,

あなたがたに模範を残されました。

キリストは罪を犯したことがなく,

その口に何の偽りも

見いだされませんでした。

ののしられても,ののしり返さず,

苦しめられても,

おどすことをせず,

正しくさばかれる方に

お任せになりました。

そして自分から十字架の上で,

私たちの罪をその身に負われました。

それは,私たちが罪を離れ,

義のために生きるためです。

キリストの打ち傷のゆえに,

 あなたがたは,

いやされたのです。」




キリストが来て人々の罪を赦し,

神の国をもたらす預言を

イザヤはします。




2020-03-13

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