キリストの謙(へりくだ)り
(ピリピ2:8)
「キリストは
人としての性質をもって現われ,
自分を卑しくし,
死にまで従い,
実に十字架の死にまでも
従われたのです。」
キリストは神ですが,
へりくだって人となりました。
イエスは,ベツレヘムの飼い葉桶でうまれ,
犯罪人として十字架で死にました。
それは,神が崇(あが)められるためでした。
イエスが貧しくなることによって,
わたしたちは富むものとなりました。
「あなたがたは,
私たちの主イエス・キリストの恵みを
知っています。
すなわち,主は富んでおられたのに,
あなたがたのために貧しくなられました。
それは,あなたがたが,
キリストの貧しさによって
富む者となるためです。」
(2コリント8:9)
☆彡
(ピリピ2:6-11)
「キリストは,
神の御姿であられる方なのに,
神のあり方を
捨てることができないとは考えないで,
ご自分を無にして,仕える者の姿をとり,
人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ,
自分を卑しくし,死にまで従い,
実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ,神は,キリストを高く上げて,
すべての名にまさる名を
お与えになりました。
それは,イエスの御名によって,
天にあるもの,地にあるもの,
地の下にあるもののすべてが,
ひざをかがめ,すべての口が,
『イエス・キリストは主である。』
と告白して,
父なる神がほめたたえられるためです。」
ある学者たちは,
このピリピ2:6-11は
ピリピの教会などで歌っていた
賛美歌をパウロが引用したとして考えています。
スタディー・バイブルもその考えを紹介しています。
どこから,その考えが出来たかわかりませんが,
あまりにも美しいので,
賛美歌であると推測したのではないかと思います。
わたしは,聖霊が直接パウロに与えた
言葉ではないかと思っています。
それは,パウロが2コリントの箇所などで,
同じ内容の言葉を記していることからも,
パウロが神から,
直接啓示を受けたのではないかと思うからです。
新聖歌102「主は命(いのち)を」は,
ピリピ2:6-9のことばから出来ています。
「主は命を 与えませり
主は血潮を 流しませり
その死によりてぞ われは生きぬ
われ何をなして 主に報いし」