コリント人への手紙第2
6章ー13章 (2)
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6章
パウロの体験
(2コリント6:8-10)
「また,ほめられたり,
そしられたり,悪評を受けたり,
好評を博したりすることによって,
自分を神のしもべとして
推薦しているのです。
私たちは
人をだます者のように見えても,
真実であり,
人に知られないようでも,
よく知られ,
死にそうでも,見よ,生きており,
罰せられているようであっても,
殺されず,
悲しんでいるようでも,
いつも喜んでおり,
貧しいようでも,
多くの人を富ませ,
何も持たないようでも,
すべてのものを持っています。」
パウロは死,病気の問題があり,
迫害を受け貧乏をしました。
しかし,パウロは信仰によって,
富む者となることを教えています。
イエスを信じる者は,
福音の豊かさを
持つことができます。
この世が与えるもの
以上のものです。
わたしたちは,所有する土地,
財産以上のものです。
主を信じるものには
全宇宙が与えられ,
神御自身が
聖霊として
心の内にやどってくださいます。
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生ける神の宮
(2コリント6:18)
「神の宮と偶像とに,
何の一致があるでしょう。
私たちは生ける神の宮なのです。
神はこう言われました。
『わたしは彼らの間に住み,
また歩む。
わたしは彼らの神となり,
彼らはわたしの民となる。』」
旧約聖書に示された「神の宮」は,
イエス・キリストを信じる者です。
それは,
心に神が宿っているからです。
その神は,天地を造った神です。
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7章
みこころに添った悔い
(2コリント7:10)
「神のみこころに添った悲しみは,
悔いのない,
救いに至る悔い改めを
生じさせますが,
世の悲しみは死をもたらします。
ご覧なさい。
神のみこころに添った
その悲しみが,
あなたがたのうちに,
どれほどの熱心を
起こさせたことでしょう。
また,弁明,憤り,恐れ,慕う心,
熱意を起こさせ,
処罰を断行させたことでしょう。
あの問題について,あなたがたは,
自分たちがすべての点で
潔白であることを
証明したのです。」
パウロは以前,
「ある問題」について,
コリントの教会のある人に
批判しました。
批判された人は
それを悔い改め,
教会は熱心を起こさせました。
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8章
キリストの富
(2コリント8:7-9)
「あなたがたは,
すべてのことに,
すなわち,信仰にも,ことばにも,
知識にも,あらゆる熱心にも,
私たちから出てあなたがたの間に
ある愛にも富んでいるように,
この恵みのわざにも
富むようになってください。
こうは言っても,
私は命令するのではありません。
ただ,他の人々の熱心さをもって,
あなたがた自身の
愛の真実を確かめたいのです。
あなたがたは,
私たちの主イエス・キリストの
恵みを知っています。
すなわち,
主は富んでおられたのに,
あなたがたのために
貧しくなられました。
それは,あなたがたが,
キリストの貧しさによって
富む者となるためです。」
イエス・キリストは,
父なる神から
すべてを与えられたお方でしたが,
すべてを放棄して,
十字架に架って下さいました。
それは私たちの心の内が,
富むものとなるためでした。
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9章
喜んで与える
(2コリント9:7)
「ひとりひとり,
いやいやながらでなく,
強いられてでもなく,
心で決めたとおりにしなさい。
神は喜んで与える人を
愛してくださいます。」
献金の勧めですが,
いろいろなことに
当てはまりそうです。
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神をあがめる
(2コリント9:13)
「このわざを証拠として,
彼らは,
あなたがたがキリストの
福音の告白に対して従順であり,
彼らに,
またすべての人々に惜しみなく
与えていることを知って,
神をあがめることでしょう。」
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賜物に感謝
(2コリント9:15)
「ことばに表せないほどの
賜物のゆえに,
神に感謝します。」
パウロはコリントから受けた
献金について感謝しています。
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10章
従順
(2コリント10:3-6)
「わたしたちは,
肉にあって歩いてはいるが,
肉に従って戦っているのではない。
わたしたちの戦いの武器は,
肉のものではなく,
神のためには
要塞をも破壊するほどの
力あるものである。
わたしたちは
さまざまな議論を破り,
神の知恵に逆らって立てられた
あらゆる障害物を打ちこわし,
すべての思いをとりこにして
キリストに服従させ,
そして,
あなたがたが完全に服従した時,
すべて不従順な者を処罰しようと,
用意しているのである。」
従順は
イエス・キリストへの信仰を,
積極的に行うことです。
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主を誇る
(2コリント10:17,18)
「『誇る者は主を誇れ。』
自己推薦する者ではなく,
主から推薦される人こそ,
適格者として
受け入れられるのです。」
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11章
教会に偽使徒が入る
(2コリント11:12-15)
「しかし、わたしは、
現在していることを
今後もしていこう。
それは、
わたしたちと同じように誇りうる
立ち場を得ようと
機会をねらっている者どもから、
その機会を
断ち切ってしまうためである。
こういう人々はにせ使徒、
こういう人々はにせ使徒、
人をだます働き人であって、
キリストの使徒に擬装しているに
すぎないからである。
しかし、驚くには及ばない。
しかし、驚くには及ばない。
サタンも光の天使に
擬装するのだから。
だから、
だから、
たといサタンの手下どもが、
義の奉仕者のように
擬装したとしても、
不思議ではない。
彼らの最期は、
そのしわざに
合ったものとなろう。」
コリント教会に,
にせ使徒が入っていました。
にせ使徒は,
パウロが偽の使徒だといいます。
2コリントを書いたのは,
パウロ自身が
使徒であるということの
弁明のためでした。
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弱さを誇る
(2コリント11:30,31)
「もし誇らねばならないのなら,
わたしは自分の弱さを誇ろう。
永遠にほむべき,
主イエス・キリストの父なる神は,
わたしが
偽りを言っていないことを,
ご存じである。」
使徒としてのパウロは,
弱さを誇ります。
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12章
第三の天
(2コリント12:1-4)
「無益なことですが,
誇るのもやむをえないことです。
私は主の幻と啓示のことを
話しましょう。
私はキリストにある
ひとりの人を知っています。
この人は十四年前に
・・肉体のままであったか,
私は知りません。
肉体を離れてであったか,
それも知りません。
神はご存じです。
・・第三の天にまで
引き上げられました。
私はこの人が,
・・それが肉体のままであったか,
肉体を離れてであったかは
知りません。
神はご存じです。・・
パラダイスに引き上げられて,
人間には
語ることを許されていない,
口に出すことのできないことばを
聞いたことを知っています。」
「キリストにある一人の人」とは,
パウロは第三者のこととして
書いていますが,
パウロ自身のことのようです。
パウロの生涯は,
詳しく聖書に書かれていますが,
「14年前」というこの体験は
どのときかはっきりしません。
ある学者によると,
「ルステラで
石打ちにされた時のこと
(使徒14:19)かもしれない」
と解説しています。
(使徒14:19,20)
「アンテオケとイコニオムから
ユダヤ人たちが来て,
群衆を抱き込み,
パウロを石打ちにし,
死んだものと思って,
町の外に引きずり出した。
しかし,
弟子たちが
パウロを取り囲んでいると,
彼は立ち上がって
町にはいって行った。」
「第三の天」とは,
「パラダイス」(楽園)のことで,
イエス・キリストと出会える
「天国」と同じだと思われます。
この箇所は,
パウロが自分が使徒であることを
弁明するために書いています。
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とげ
(2コリント12:7-9)
「そこで,高慢にならないように,
わたしの肉体に
一つのとげが与えられた。
それは,高慢にならないように,
わたしを打つ
サタンの使なのである。
このことについて,
わたしは彼を
離れ去らせて下さるようにと,
三度も主に祈った。
ところが,主が言われた,
『わたしの恵みは
あなたに対して十分である。
わたしの力は弱いところに
完全にあらわれる』。
それだから,
キリストの力が
わたしに宿るように,
むしろ,
喜んで自分の弱さを誇ろう。」
パウロは
第三の天国にあげられましたが,
またとげも与えられました。
このとげは,
なにかはわかりません。
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神の恵み
(2コリント12:9)
「わたしの恵みは,
あなたに十分である。
というのは,わたしの力は,
弱さのうちに
完全に現われるからである。」
「わたしの恵みは,
あなたに十分である。」
と主からパウロは聞きます。
パウロは,
この真理を自分のとげを
取り除いてくださいという
祈りの結果として与えられました。
神からの真理は
学問としてだけでなく,
自分自身の苦難をとおして,
祈りによって
主から学ぶことが多いいようです。
神の恵みは弱さの中に現れます。
わたしたちの力が弱いと
感じたときに
励ましになる言葉です。
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私が弱いとき
(2コリント12:10)
「私は,キリストのために,
弱さ,侮辱,苦痛,迫害,
困難に甘んじています。
なぜなら,
私が弱いときにこそ,
私は強いからです。」
わたしたちが,
弱さ,を感じたとき,
ここに助けがあります。
そのとき神が働かれるのです。
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13章
内にいるキリスト
(2コリント13:4)
「確かに,
弱さのゆえに
十字架につけられましたが,
神の力のゆえに生きておられます。
私たちもキリストにあって
弱い者ですが,
あなたがたに
対する神の力のゆえに,
キリストとともに
生きているのです。」
救いの業は,
神の側ではキリストが
カルバリ山の十字架で完成しました。
贖罪,罪の贖いです。
その完成は,
わたしたちの心の中で
今行なわれています。
父なる神と,
子なる神を受けて,
聖霊がわたしたちの心に
降りました。
イエス・キリストの贖罪のわざが,
わたしたちの心に悔改めの業をなし,
わたしたちが罪のない
義なる者としてくださいます。
☆彡
(2コリント13:4,5)
「確かに,
弱さのゆえに
十字架につけられましたが,
神の力のゆえに生きておられます。
私たちもキリストにあって
弱い者ですが,
あなたがたに対する
神の力のゆえに,
キリストとともに
生きているのです。
あなたがたは,
信仰に立っているかどうか,
自分自身をためし,
また吟味しなさい。
それとも,
あなたがたのうちには
イエス・キリストが
おられることを,
自分で認めないのですか。
・・あなたがたが
それに不適格であれば
別です。・・」
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完全な者になりなさい
(2コリント13:11)
「 終わりに,兄弟たち,
喜びなさい。
完全な者になりなさい。
励まし合いなさい。
思いを一つにしなさい。
平和を保ちなさい。
そうすれば,
愛と平和の神があなたがたと
共にいてくださいます。」
パウロのこの手紙の
最後の勧めの言葉です。
2017.5.2
2022-08-29 改定