ローマの信徒への手紙
ローマ人への手紙は,
紀元56年頃,
コリントでローマの教会宛てに,
パウロが書いています。
この手紙は
パウロの手紙の代表的なものです。
特に 教理に重点が置かれ,
論理的体系的に書かれています。
この手紙は,
ガラテヤ人の手紙とともに,
パウロの重要な教えがあり,
論文の性格があります。
信仰義認を強調しています。
ローマ書の主題は,
ローマ1:17です。
○
福音
(ローマ1:16-17)
「私は福音を恥とは思いません。
福音は,
福音は,
ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも,
信じるすべての人にとって,
救いを得させる神の力です。
なぜなら,
福音のうちには
信じるすべての人にとって,
救いを得させる神の力です。
なぜなら,
福音のうちには
神の義が啓示されていて,
その義は,
信仰に始まり
その義は,
信仰に始まり
信仰に進ませるからです。
『義人は信仰によって生きる。』
と書いてあるとおりです。」
福音とは,
『義人は信仰によって生きる。』
と書いてあるとおりです。」
福音とは,
イエス・キリストを
信じることによって
救われるということです。
私たちが
イエス・キリストを信じるなら
神はわたしたちの罪を赦し,
わたしたちを義(良し)とします。
○
「霊による心の割礼」
(ローマ2:29)新共同訳
「内面がユダヤ人である者こそ
ユダヤ人であり,
文字ではなく“霊”によって
心に施された割礼こそ
割礼なのです。
その誉れは人からではなく,
神から来るのです。」
「割礼」とは,
旧約時代(イエスの生まれる前)に
神の民とされた印です。
「霊による心の割礼」は,
イエス・キリストを信じる者に
聖霊によってなされます。
○
信仰による義
(ローマ3:21,22)新共同訳
「今は,律法とは別に,
しかも律法と預言者によって
あかしされて,
神の義が示されました。
すなわち,
イエス・キリストを信じる
信仰による神の義であって,
それは
すべての信じる人に与えられ,
何の差別もありません。」
イエス・キリストを信じる者は,
罪が赦されるだけでなく,
義とされます。
「義と認める」という言葉は,
「義を宣告」するという
法廷的用語です。
神は,被告人に
「無罪」だと宣告します。
神は
「あなたは,
罪を一度も犯していない,
良いことをしてきました」
と宣告します。
○
信仰による義
(ローマ3:22)新共同訳
「 すなわち,
イエス・キリストを
信じることにより,
信じる者すべてに与えられる
神の義です。
そこには何の差別もありません。」
この言葉は,
旧約聖書,新約聖書を貫く
メッセージです。
イエスを信じる者は義とされます。
預言者ハバククの言葉の引用です。
(ハバクク2:4b)新改訳
「正しい人は,
その信仰によって生きる。」
☆彡
信仰による義
(ローマ3:21,22)新共同訳
「ところが今や,
律法とは関係なく,
しかも
律法と預言者によって立証されて,
神の義が示されました。
すなわち,
イエス・キリストを
信じることにより,
信じる者すべてに
与えられる神の義です。
そこには何の差別もありません。」
○
なだめの供え物
(ローマ3:25)
「神は,
キリスト・イエスを,
その血による,
また信仰による,
なだめの供え物として,
公にお示しになりました。
それは,
ご自身の義を現わすためです。
というのは,
今までに犯されて来た罪を
神の忍耐をもって
見のがして来られたからです。」
「なだめの供え物」とは,
贖罪所の契約の箱のふたに,
小羊の血が注がれたことです。
神の怒りに対する
「なだめ」でした。
「なだめの供え物」は,
人々のあらゆる
不敬虔と不正とに対して
啓示された
「神の怒り」
をなだめるためのものでした。
イエス・キリストが
血を流されたのは,
「なだめの供え物」として
信じる者の罪を赦すためでした。
☆
(レビ17:11)
「肉のいのちは
血の中にあるからである。
わたしはあなたがたのいのちを
祭壇の上で贖うために,
これをあなたがたに与えた。
いのちとして贖いをするのは
血である。」
旧約聖書のレビ記では,
「血」はいのちを現わしています。
イエス・キリストの十字架による
血をあらわします。
(ヘブル9:22)
「律法によれば,
すべてのものは
血によってきよめられる,
と言ってよいでしょう。
また,
血を注ぎ出すことがなければ,
罪の赦しはないのです。」
○
(ローマ3:25)新共同訳
「神はこのキリストを立て,
その血によって信じる者のために
罪を償う供え物となさいました。
それは,
今まで人が犯した罪を見逃して,
神の義をお示しになるためです。」
「信仰による」とは,
イエス・キリストの与えてくださる
恵みを受け入れることです。
「罪を償う供え物」と訳されている
言葉(ヒラステーリオン)は,
契約の箱の蓋である
「贖いの座」を表す言葉であります。
(ヘブライ9:5)
(レビ16:2)。
「贖いの座」とは,
至聖所の中に置かれた
契約の箱の蓋のことです。
大祭司が贖罪日に小羊をほふり,
血を契約の蓋に注ぎます。
このことによって,
神は民との和解を成しました。
わたしたちは,
イエス・キリストが
「贖いの座」として,
罪の赦しと神との和解を
得ることが出来ます。
○
主イエスのよみがえり
(ローマ4:25)新改訳
「主イエスは,
私たちの罪のために死に渡され,
私たちが義と認められるために,
よみがえられたからです。」
イエスが私たちの罪のために
十字架で死んだことを,
神は正しいことであったと
認めてくださった証しとして,
イエスを復活させました。
そして,
イエス・キリストの復活を
信じることによって,
私たちをも
義と認めてくださいます。
○
イエスの愛 A
(ローマ5:8)新改訳
「私たちがまだ罪人であったとき,
キリストが私たちのために
死んでくださったことにより,
神は私たちに対する
ご自身の愛を
明らかにしておられます。」
(ローマ5:8)新共同訳
「しかし,
わたしたちが
まだ罪人であったとき,
キリストがわたしたちのために
死んでくださったことにより,
神はわたしたちに対する
愛を示されました。」
イエス・キリストの
十字架での死は,
そして,神がわたしたちに対する
ご自身の愛を
示したものです。
○
神は愛を示された B
(ローマ5:8)新共同訳
「わたしたちが
まだ罪人であったとき,
キリストがわたしたちのために
死んでくださったことにより,
神はわたしたちに
対する愛を示されました。」
キリストが十字架に架かって,
私たちに神の愛を示しました。
☆
「渇く」
(ヨハネ19:28)新共同訳
「この後,イエスは,
すべてのことが
今や成し遂げられたのを知り,
『渇く』と言われた。
こうして,
聖書の言葉が実現した。」
イエスは十字架で苦しみます。
それは,私たちの罪のためでした。
そして,「渇く」と言いました。
☆
「成し遂げられた」
(ヨハネ19:30)新共同訳
「イエスは,
このぶどう酒を受けると,
『成し遂げられた』と言い,
頭を垂れて息を引き取られた。」
「成し遂げられた」のは,
イエスの救いの業です。
☆
キリストの身代わりの死
(1ペテロ3:18)
「キリストも
一度罪のために死なれました。
正しい方が
悪い人々の
身代わりとなったのです。
それは,
肉においては死に渡され,
霊においては生かされて,
私たちを
神のみもとに導くためでした。」
イエス・キリストは
十字架で
わたしたちの身代わりとして,
罪の罰を受けてくださいました。
イエス・キリストを信じると,
罪が赦され,
義とされ(正しい者とされ),
天国に行けます。
☆
喜びのゆえに
(ヘブル12:2b)新改訳
「イエスは,
ご自分の前に置かれた
喜びのゆえに,
はずかしめをものともせずに
十字架を忍び,
神の御座の右に着座されました。」
イエスは十字架を忍んだのは
復活し神の右に着座される
喜びがあったからです。
○
アダムは,きたるべき者の型
(ローマ5:14,15)
口語訳
「アダムから
モーセまでの間においても,
アダムの違反と同じような
罪を犯さなかった者も,
死の支配を免れなかった。
このアダムは,
きたるべき者の型である。
しかし,恵みの賜物は
罪過の場合とは異なっている。
すなわち,
もしひとりの罪過のために
多くの人が死んだとすれば,
まして,神の恵みと,
ひとりの人イエス・キリストの
恵みによる賜物とは,
さらに豊かに多くの人々に
満ちあふれたはずではないか。」
アダムが罪を犯し,
その子孫のわたしたちも
罪の中にあります。
イエス・キリストの正しい人生と
十字架の業は,
神への従順でした。
イエス・キリストの従順によって
神の義を成し遂げました。
私たちが
イエス・キリストを
信じることによって,
私たちは義とされます。
○
罪からの解放
(ローマ6:7)新共同訳
「死んだ者は,
罪から解放されています。」
イエス・キリストの働は
わたしたちの罪を開放して下さいます。
☆彡
(ローマ6:5-7)新共同訳
「もし,わたしたちが
キリストと一体になって
その死の姿にあやかるならば,
その復活の姿にも
あやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分が
キリストと共に
十字架につけられたのは,
罪に支配された体が滅ぼされ,
もはや罪の奴隷に
ならないためであると
知っています。
死んだ者は,
罪から解放されています。」
○
復活の主と共に生きる
(ローマ6:5)
「もし私たちが,
キリストにつぎ合わされて,
キリストの死と同じように
なっているのなら,
必ずキリストの復活とも
同じようになるからです。」
イエス・キリストは
十字架にかかり,
復活し,今も生きています。
イエス・キリストを信じるなら,
イエス・キリストが
わたしたちの内に
住んでくださいます。
わたしたちの内なるキリストは,
わたしたちのすべての罪を
赦してくださいます。
わたしたちの内にいるキリストは,
復活した主なのです。
☆彡
キリストと共に死に,共に生きる
(ローマ6:4-13)
「私たちは,
キリストの死にあずかる
バプテスマによって,
キリストとともに葬られたのです。
それは,
キリストが御父の栄光によって
死者の中から
よみがえられたように,
私たちも,
いのちにあって
新しい歩みをするためです。
もし私たちが,
キリストにつぎ合わされて,
キリストの死と
同じようになっているのなら,
必ずキリストの復活とも
同じようになるからです。
私たちの古い人が
キリストとともに
十字架につけられたのは,
罪のからだが滅びて,
私たちがもはやこれからは
罪の奴隷で
なくなるためであることを,
私たちは知っています。
死んでしまった者は,
罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに
死んだのであれば,
キリストとともに
生きることにもなる,
と信じます。
キリストは死者の中から
よみがえって,
もはや死ぬことはなく,
死はもはや
キリストを支配しないことを,
私たちは知っています。
なぜなら,
キリストが死なれたのは,
ただ一度
罪に対して死なれたのであり,
キリストが生きておられるのは,
神に対して
生きておられるのだからです。
このように,あなたがたも,
自分は罪に対しては
死んだ者であり,
神に対しては
キリスト・イエスにあって
生きた者だと,
思いなさい。
ですから,
あなたがたの死ぬべきからだを
罪の支配にゆだねて,
その情欲に従ってはいけません。
また,
あなたがたの手足を不義の器として
罪にささげてはいけません。
むしろ,
死者の中から生かされた者として,
あなたがた自身とその手足を
義の器として神にささげなさい。」
○
罪に死に,キリストに生きる
(ローマ6:11)新改訳
「このように,
あなたがたも,
自分は罪に対しては
死んだ者であり,
神に対しては
キリスト・イエスにあって
生きた者だと,
思いなさい。」
イエスを信じると,
罪の奴隷からイエスに解放され,
イエス・キリストと共に
生きる者になります。
○
新しい霊によって生きる
(ローマ7:6)新共同訳
「今は,わたしたちは,
自分を縛っていた
律法に対して死んだ者となり,
律法から解放されています。
その結果,
文字に従う古い生き方ではなく,
“霊”に従う新しい生き方で
仕えるようになっているのです。」
イエス・キリストを信じる者は,
古い文字(モーセの律法)から
解放され,
新しい霊(聖霊)に仕えます。
聖霊によって,
新しい生き方ができます。
☆
聖霊が降る
(使徒2:1-4)新共同訳
「五旬祭の日が来て,
一同が一つになって
集まっていると,
突然,
激しい風が吹いて来るような
音が天から聞こえ,
彼らが座っていた家中に響いた。
そして,
炎のような舌が
分かれ分かれに現れ,
一人一人の上にとどまった。
すると,
一同は聖霊に満たされ,
“霊”が語らせるままに,
ほかの国々の言葉で話しだした。」
聖霊はペンテコステの日に,
わたしたちに下ります。
○
神の子の受肉
(ローマ8:3b)
「神はご自分の御子を,
罪のために,
罪深い肉と同じような形で
お遣わしになり,
肉において罪を
処罰されたのです。」
神の子の受肉の目的を
宣べています。
人の罪を裁くため,
神は独り子の
イエス・キリストを裁きました。
神の子は,
人の身代わりとなるため,
人と同じ姿を取られました。
○
やがての栄光
(ローマ8:18)口語訳
「わたしは思う。
今のこの時の苦しみは,
やがてわたしたちに
現されようとする栄光に比べると,
言うに足りない。」
ここでの栄光は,
イエス・キリストが
もう一度来たとき,
わたしたちに
与えてくださるものです。
そこでは,わたしたちの
霊,心,体が回復し,
完成されます。
そこは,
神が共にいる
天国(神の国)です。
(1ヨハネ3:2)新共同訳
「愛する者たち,
わたしたちは,
今既に神の子ですが,
自分がどのようになるかは,
まだ示されていません。
しかし,御子が現れるとき,
御子に似た者となるということを
知っています。
なぜなら,
そのとき御子をありのままに
見るからです。」
○
神の右の座
(ローマ8:34)新共同訳
「だれがわたしたちを
罪に定めることができましょう。
死んだ方,否,むしろ,
復活させられた方である
キリスト・イエスが,
神の右に座っていて,
わたしたちのために
執り成してくださるのです。」
(ローマ8:34)
「罪に定めようとするのは
だれですか。
死んでくださった方,
いや,
よみがえられた方である
キリスト・イエスが,
神の右の座に着き,
私たちのために
とりなしていてくださるのです。」
イエス・キリストは,
わたしたちを
罪に定めることがないばかりか,
わたしたちの
「とりなしの祈り」をしています。
イエス・キリストは死んで,
よみがえり,天に昇りました。
今,イエス・キリストは
神の右の座にいて,
大祭司としてわたしたちのために
日夜とりなしてくださっています。
イエスは復活の後,
天に昇ります。
そして,今,神の右の座にいます。
「神の右」とは,
ユダヤ,ギリシャでは,
栄光,栄誉,の地位を
示しています。
○
イスラエルの選び
(ローマ9:4)新共同訳
「彼らはイスラエルの民です。
神の子としての身分,
栄光,契約,律法,
礼拝,約束は
彼らのものです。」
イスラエルの民は
神の恵みは受けていました。
しかし,
イスラエルの民は,
イエス・キリストを信じることなく
救われたいませんでした。
○
救い
(ローマ10:9,10)
新改訳
「もしあなたの口で
イエスを主と告白し,
あなたの心で
神はイエスを死者の中から
よみがえらせてくださったと
信じるなら,
あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ,
口で告白して救われるのです。」
イエス・キリスト自分の主であると
人々の前で告白し,
心で,
イエス・キリストが復活したと
信じるなら救われます。
この信仰は,
わたしたちの
救いの確信となります。
○
イスラエルの救い
(ローマ11:26)新改訳
「こうして,
イスラエルはみな救われる。」
イスラエルの不信仰によって,
救いは異邦人におよびました。
異邦人の救いの数が満ちたとき,
再び神のあわれみにより,
イスラエルの中に
イエス・キリストへの
信仰が起きます。
そして,
イスラエルの人々が救われます。
○
霊的な礼拝
(ローマ12:1b)
「あなたがたのからだを,
神に受け入れられる,
聖い,
生きた供え物としてささげなさい。
それこそ,
あなたがたの霊的な礼拝です。」
パウロは,
わたしたちが直接神に仕えることを
勧めています。
わたしたちが
自分自身に依存するのではなく,
神に自分自身を直接ささげることを
神に自分自身を直接ささげることを
勧めています。
○
自分を変えていただく
(ローマ12:2)
「あなたがたは
この世に倣ってはなりません。
むしろ,
心を新たにして
自分を変えていただき,
何が神の御心であるか,
何が善いことで,神に喜ばれ,
また完全なことであるかを
わきまえるようになりなさい。」
「神に喜ばれ」る生き方は,
わたしたちが
神によって変えられることです。
わたしたちは,
自分で自分を変えることは
出来ません。
○
「隣人を自分のように愛しなさい」
(ローマ13:9)
「『姦淫するな,
殺すな,盗むな,むさぼるな』」,
そのほかどんな掟があっても,
『隣人を自分のように愛しなさい』
という言葉に要約されます。」
旧約聖書の十の戒めは,
まとめますと
神を信じ,人を愛することです。
人を愛するとは,
『隣人を自分のように愛しなさい』
ということです。
○
わたしたちの主であるキリスト
(ローマ14:9)
(ローマ14:9)
「キリストは,
死んだ人にとっても,
生きている人にとっても,
その主となるために,
死んで,
生きている人にとっても,
その主となるために,
死んで,
また生きられたのです。」
「主」とは,神のことです。
イエスの死と復活によって,
イエスが神であることを
現わされました。
○
隣人を喜ばせる
(ローマ15:2)新共同訳
「おのおの善を行って
隣人を喜ばせ,
互いの向上に努めるべきです。」
隣人に対して
積極的に善を務めるように
言われます。
○
神への賛美
(ローマ16:26,27)
新共同訳
「その計画は今や現されて,
永遠の神の命令のままに,
預言者たちの書き物を通して,
信仰による従順に導くため,
すべての異邦人に
知られるようになりました。
この知恵ある唯一の神に,
イエス・キリストを通して
栄光が世々限りなく
ありますように,
アーメン。」
神は,
私たちを「信仰と従順」
に導きます。
イエス・キリストに
知恵があります。
そして,神に栄光があります。
2024.7.16