ガラテヤ人への手紙 解説3
ガラテヤ人の手紙は,
パウロが第3回伝道旅行の終わりごろ,
エペソ,マケドニヤか
コリントにいたとき,
ローマ人への手紙の作成前,
エルサレム会議以前,
51-53年ごろ,
書いたといわれています。
〇
イエス・キリストの啓示
(ガラテヤ1:11,12)
「兄弟たちよ。
私はあなたがたに知らせましょう。
私が宣べ伝えた福音は,
人間によるものではありません。
私はそれを人間からは受けなかったし,
また教えられもしませんでした。
ただイエス・キリストの啓示によって
受けたのです。」
パウロの宣べ伝えた福音は,
神の啓示によるものだといいます。
ですから,わたしたちは,
パウロの手紙を神の言葉として
受け入れているのです。
〇
義とみとめられる(義認)
(ガラテヤ2:16)
「しかし,
人は律法の行ないによっては
義と認められず,
ただキリスト・イエスを信じる
信仰によって義と認められる,
ということを知ったからこそ,
私たちも
キリスト・イエスを信じたのです。
これは,
律法の行ないによってではなく,
キリストを信じる信仰によって
義と認められるためです。
なぜなら,
律法の行ないによって
義と認められる者は,
ひとりもいないからです。」
「義と認められる」とは,
神の前に義であると
宣言されることです。
神の律法を守れないに罪を
犯したとされる場合にも,
キリストの贖いによって
キリストを信じる者が義とされます。
法廷用語であって,
「義と認める」主体は
裁判官としての神です。
神が人を義と認めるのは,
その無罪を宣言することです。
「信仰」は,
キリストにすべてを委ねることで,
キリストに示された
神の恵みに根拠をおいています。
「知った」とは,
人が神の恵みをその人の
人生全体で受け入れることです。
神の義について,
パウロはローマ人への手紙に,
次のように書いています。
(ローマ3:21-24)
「しかし,今は,律法とは別に,
しかも律法と預言者によって
あかしされて,
神の義が示されました。
すなわち,
イエス・キリストを信じる信仰による
神の義であって,
それはすべての信じる人に与えられ,
何の差別もありません。
すべての人は,罪を犯したので,
神からの栄誉を受けることができず,
ただ,神の恵みにより,
キリスト・イエスによる贖いのゆえに,
価なしに義と認められるのです。」
○
十字架につけられる
(ガラテヤ2:19,20)
「しかし私は,神に生きるために,
律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに
十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく,
キリストが
私のうちに生きておられるのです。
いま私が,この世に生きているのは,
私を愛し私のために
ご自身をお捨てになった神の御子を
信じる信仰によっているのです。」
この言葉は,
パウロの個人の体験ですが,
イエス・キリストを信じる者の
生き方です。
わたしたちが,
イエス・キリストを信じて歩むことは,
わたしたちが主と共に死に,
主の復活と共に生きることです。
○
内なるキリスト
(ガラテヤ2:20)
「私はキリストとともに
十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく,
キリストが
私のうちに生きておられるのです。
いま私が,この世に生きているのは,
私を愛し私のために
ご自身をお捨てになった
神の御子を信じる
信仰によっているのです。」
「私はキリストとともに
十字架につけられました」とは,
キリストが十字架の上で,
わたしの代表者として
死んだのですから,
キリストが死んだときわたしも
「十字架につけられた」
と認めるのです。
「キリストが
私のうちに生きておられる」
とは,
わたしがキリストの支配の下に
あることです。
わたしたちが
イエス・キリストを信じるなら,
わたしたちのこころのうちに
キリストが入り住みます。
(ローマ6:6)
「私たちの古い人がキリストとともに
十字架につけられたのは,
罪のからだが滅びて,
私たちがもはやこれからは
罪の奴隷でなくなるためであることを,
私たちは知っています。」
○
信仰によって義と認められる
(信仰義認)
(ガラテヤ3:6-8)
「アブラハムは神を信じ,
それが彼の義とみなされました。
それと同じことです。
ですから,
信仰による人々こそ
アブラハムの子孫だと知りなさい。
聖書は,神が異邦人をその信仰によって
義と認めてくださることを,
前から知っていたので,
アブラハムに対し,
『あなたによって
すべての国民が祝福される』
と前もって福音を告げたのです。」
イエスを信じる信仰によって,
わたしたちは義
(神によって正しいとみなされる)
とされます。
そして,イエスを信じることによって,
神の祝福を得ることが出来ます。
〇
キリストの贖い
(ガラテヤ3:13)
「キリストは,
私たちのために
のろわれたものとなって,
私たちを律法ののろいから
贖い出してくださいました。
なぜなら,
『木にかけられる者は
すべてのろわれたものである。』
と書いてあるからです。」
「贖い出す」とは,代価を払って,
ある人を奴隷の身分から
解放することです。
「私たちのために
のろわれたものとなって」
とは,キリストと十字架の死を
意味しています。
「木にかけられる者」とは,
十字架につけられる者のことです。
キリストが十字架につけられ,
われわれの罪ののろいを
身代わりに受けてくださったので,
わたしたちは律法ののろいから
贖い出されました。
(ローマ3:24)
「ただ,神の恵みにより,
キリスト・イエスによる贖いのゆえに,
価なしに義と認められるのです。」
○
キリストを着る
(ガラテヤ3:27)
「バプテスマを受けて
キリストにつく者とされた
あなたがたはみな,
キリストをその身に着たのです。」
「キリストを着る」とは,
イエス・キリストと霊的に結合して,
古い自我に死に,
新しい存在となることです。
ヘブル語で「贖う」という言葉は,
覆うということを言い表しています。
それは,
キリストを着ることによって
実現します。
☆彡
パウロはコロサイの手紙で,
次のように言っています。
(コロサイ3:10)
「新しい人を着たのです。
新しい人は,
造り主のかたちに
似せられてますます新しくされ,
真の知識に至るのです。」
☆
旧約聖書の創世記に,
アダムに与えられた皮の衣は,
イエス・キリストの型だったのです。
(創世記3:21)
「神である主は,
アダムとその妻のために,
皮の衣を作り,
彼らに着せてくださった。」
○
「アバ父」
(ガラテヤ4:6)
「そして,
あなたがたは子であるゆえに,
神は『アバ,父。』と呼ぶ,
御子の御霊を,
私たちの心に
遣わしてくださいました。」
「アバ」は家庭内で幼児が
父を呼ぶ最も親しみを表す表現です。
「御子」の受肉と
「御子の御霊」の注ぎにより,
ユダヤ人も異邦人も共に,
神を「アバ,父」と礼拝し
祈る恵みを与えられているのです。
イエス・キリストを信じる者は神の子,
神の相続人となるのです。
(ガラテヤ4:7)
「あなたがたはもはや奴隷ではなく,
子です。
子ならば,神による相続人です。」
(ローマ8:15)
「あなたがたは,
人を再び恐怖に陥れるような,
奴隷の霊を受けたのではなく,
子としてくださる御霊を受けたのです。
私たちは御霊によって,
『アバ,父』と呼びます。」
○
キリストが形づくられる
(ガラテヤ4:19)
「私の子どもたちよ。
あなたがたのうちにキリストが
形造られるまで,
私は再びあなたがたのために産
みの苦しみをしています。」
パウロは,ガラテヤの信徒が,
福音の真理に立ち返り,
「うちにキリストが形造られる」
までは,
パウロ自身が生みの苦しみを
すると言います。
同じように,わたしたちも,
こころにキリストが形造られるまでは,
苦しみます。
わたしたちは,
わたしたちの内にわたしたち自身を
造るのではなく,
キリストを形造るようにと
言っています。
○
キリスト者の自由
(ガラテヤ5:1)
「この自由を得させるために,
キリストはわたしたちを
自由の身にしてくださったのです。
だから,しっかりしなさい。
奴隷の軛に
二度とつながれてはなりません。」
イエス・キリストは
私たちが罪の奴隷であることから,
贖いの代価である
ご自身のいのちをささげて,
わたしたちを
自由にしてくださいました。
○
御霊によって歩きなさい
(ガラテヤ5:16)
「わたしは命じる,
御霊によって歩きなさい。
そうすれば,
決して肉の欲を満たすことはない。」
御霊によって救われました。
○
聖霊の実
(ガラテヤ5:22,23)
「御霊の実は,愛,喜び,平安,
寛容,親切,善意,誠実,
柔和,自制です。
このようなものを
禁ずる律法はありません。」
(ガラテヤ5:22,23)
私たちは,肉の行いではなく,
御霊によって導かれるように,
勧められています。
○
互いの重荷を負い合う
(ガラテヤ6:2)
「互いの重荷を負い合い,
そのようにして
キリストの律法を全うしなさい。」
イエス・キリストは,
わたしたちの重荷を
背負ってくださっています。
(マタイ11:28)
「すべて,
疲れた人,重荷を負っている人は,
わたしのところに来なさい。
わたしが
あなたがたを休ませてあげます。」
つぎに,わたしたちは互いの
「重荷を負い合う」ように
勧められています。
○
(ガラテヤ6:8)
私たちが信仰によって,
心に霊(聖霊)を宿らし続けるなら,
○
十字架につけられた世界
(ガラテヤ6:14)
「しかし私には,
私たちの
主イエス・キリストの十字架以外に
誇りとするものが,
決してあってはなりません。
この十字架によって,
世界は私に対して十字架につけられ,
私も世界に対して
十字架につけられたのです。」
「世界は私に対して十字架につけられ」
とは,
世界がわたしに対して,
力も価値もなくなったということを
あらわしています。
十字架につけられたとは
死を意味します。
この世は自分とは
関係なくなったと言う意味です。
(ローマ6:6)
「私たちの古い人が
キリストとともに
十字架につけられたのは,
罪のからだが滅びて,
私たちがもはやこれからは
罪の奴隷でなくなるためであることを,
私たちは知っています。」
(ガラテヤ6:15)
大事なことではありません。
大事なのは新しい創造です。」
○
(ガラテヤ6:17)
「焼き印」は,所有者の印です。
私たちの内にある聖霊は,
イエス・キリストの所有である印です。
2018.3.4