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朝の光(聖書の言葉)

2.開眼 (ぶどうの木)

2.開眼 (ぶどうの木)


フィリピ3:17-4:1 
(目標を目指して)

ルカ18:31-43
 (イエス,死と復活を予告,
エリコ近くで盲人をいやす)


イエスは言われた。
「見えるようになれ。
あなたの信仰があなたを救った。」
(ルカ18:42)




 今わたしたちは主の御受難を

しのびつつ復活祭へ向けて,

信仰を省みる四旬節の日々を

過ごしています。


このわたしたちの信仰の中心は

主の十字架でなければなりません。




(フィリピ3:17-4:1) 
(目標を目指して)

パウロは今日の朗読の箇所で,

フィリピの信徒に向かって,

「キリストの十字架に敵対して

歩んでいる者が多いのです」

(フィリピ3:18a)

と書いていますが,

それは十字架に敵対する者が

信徒の中にも多いということです。


だから,残念で,

残念でしかたなく,このことについて,

「何度も言ってきたし,

今また涙ながらに言いますが」

(フィリピ3:18b)

と前置きして,

「キリストの十字架に敵対して

歩んでいる者が多いのです」

と言っています。


このことは,

わたしたちが自分たちの信仰を省みる時に,

しっかりと

捉(とら)えていなければなりません。


わたしたちは

十字架に敵対などしていないと

思っています。

本当にそうなのでしょうか。





(Ⅰコリント2:1-4) 
(十字架に付けられたキリストを宣べる)


パウロはコリントの信徒への手紙一で,

次のように書きます。

「わたしたちは,
十字架につけられたキリストを
宣べ伝えています。」
(Ⅰコリント1:23)

「わたしはあなたがたの間で,
イエス・キリスト,
それも十字架につけられたキリスト以外,
何も知るまいと
心に決めていたからです。」
(Ⅰコリント2:2) 


ですから,

フィリピの信徒たちへも

「十字架につけられたキリスト」

を宣べ伝えたはずです。


それにもかかわらず,

十字架に敵対して歩んでいる人が

多いのです。


この事実の前に,

パウロは涙ながらに警告しています。


この警告に従って,

わたしたちもキリストの十字架に

敵対していないかどうか,

省みる必要があります。


たとえば,

自分に対して神の愛は十分ではない。


自分には恵みは十分ではない。


このような者が救われるだろうか。


救いを感じることができないと

思っているとしたら,

十字架に敵対して神様を

中心にしてではなく,

自分を中心にして考えているのです。




(マタイ16:13-28) 
(ペトロ,信仰を言い表す)


イエスさまの弟子たちの中で

代表的なペトロもまたそうでした。


イエスさまが弟子たちに

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」

(マタイ16:15)と問われた時に,

ペトロは

「あなたはメシア,生ける神の子です」

(マタイ16:16)と答えました。


ところが,

イエスさまが御自分の受難と死と復活を

弟子たちに打ち明け始められると,

イエスさまをわきへお連れして,

いさめ始め,

「主よ。とんでもないことです。

そんなことがあってはなりません」

(マタイ16:23)

と言います。


ペトロは

「神のことを思わず,

人間のことを思っている」

(マタイ16:23)

とイエスさまに叱られます。


神様中心ではなく,

自分中心に生きていたのです。




(フィリピ3:17-4:1) 

(目標を目指して)

この生き方をする人のことを,

今日の聖書箇所では,

「彼らは腹を神とし,

恥ずべきものを誇りとし,

この世のことしか考えていません」

(フィリピ3:19)

と言います。


わたしたちも神様中心の生活を

しているかどうか,

省みる必要があります。


このことは,

わたしたちの伝道についても言えます。


教会には何か魅力がなければならない,

その魅力を作り,

それを売り込まなければならないと,

いろいろなイベントをします。


それではルーテル教会の,

「聖書のみ,恵みのみ,信仰のみ」

というあり方から外れ,

十字架に敵対しているのではないでしょうか。


救いはキリストの十字架で十分であり,

この救い,十字架に付けられたキリストを

宣べ伝えることが伝道です。



(ルカ18:31-34) 
(イエス,3度死と復活を予告する)

イエスさまの説教を聞き,

その活動に参加していた弟子たちでさえ,

救いが

キリストの十字架にあるということは

理解ができませんでした。


イエスさまが12人を呼び寄せて,

3回目になる「死と復活を予告」されても,

これらのことが何も分からず,

言われていることが理解できませんでした。




(ルカ18:35-43) 
(エリコ近くで盲人をいやす)


ここに弟子たちと対照的な人が現れます。

それは道端で物乞いをしていた盲人でした。


群衆が通っていくのを耳にしたこの人は,

「これは,いったい何事ですか」

(ルカ18:36)と尋ねます。


すると「ナザレのイエスのお通りだ」

と言ってくれる人がいます。


そこで,彼は

「ダビデの子イエスよ,

わたしを憐れんでください」

(ルカ18:38)

と叫びだします。


人々が黙らせようとしても,

彼は

「ダビデの子よ,

わたしを憐れんでください」

(ルカ18:37)

と叫び続けました。


この叫びに,

イエスさまは立ち止まり,

連れてくるように命じられます。


彼が近づくと「何をしてほしいのか」

とお尋ねになります。


それに答えて,

その人は

「主よ,見上げさせてください」

(ルカ18:41)

と言いました。


新共同訳聖書では,

「主よ,

目が見えるようになりたいのです」

(ルカ18:41)

と答えたと書いてあります。


ギリシャ語聖書には「目」という言葉はなく,

「見上げる,上を見る。

仰ぎ見る,見えるようになる」

という意味の言葉が使われていますので,

盲人は,

「主よ,仰ぎ見るようになりたいのです」

と言った。

(ルカ18:41)と訳せます。


ここに,

その人の信仰が表明されていました。


イエスさまは

「見えるようになれ。

あなたの信仰があなたを救った。」

(ルカ18:42)

と言われ,

その人はたちまち見えるようになり,

神をほめたたえながら,

イエスさまに従いました。


これを見た民衆も,

こぞって神を讃美しました。


ただひたすらイエスさまに憐れみを乞い,

「主よ,仰ぎ見るようになりたいのです」

と言った人は,

主を仰ぎ見ることができるように,

イエスさまに,していただきました。

 
ルターの遺言には

「我々は乞食である。それは真である」

と書かれていたと言うことです。


わたしたちも,

ひたすらに主の憐れみを乞い,

主を仰ぐ者にしていただきたいと思います。



(2003年3月7日  
四旬節第2主日節)

松隈 貞雄牧師




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