絵本の読み聞かせって、お稽古事?

自分のやっていることに意味を持たせたいという気持ちはだれにでもあるのでしょうね。生け花には池坊、草月、古流、なんだかんだ、自己流、フラワーアレンジメント、などいろいろあります。自己流以外はお稽古事として免状のある先生から習うようになっている。

先生は「基本はおさえて、自由に」というけどやっぱり先生の批評は気になるし、必ず先生の一言がついて、「はー、なるほど」と安心するやら恐れ入るやら。結局いつのまにかある種の形になっていき、先生を崇拝するようになるみたい。
だから紙芝居でも絵本の読み聞かせでもストーリーテリングでも、なるべく先生がいっぱいいる諸派混合型でやれればいいと思っているのです(私だけ?)。究極は先生なんかいなくてもいい。昔は一緒だったみたいだよ。全日本語りネットワークのサイトで見ました。

お稽古事の先生が数十年前の古い型に固執したり、持ち上げられて勘違いしたりすることも多い。先生だって人間だから自分の趣味が入ることだってある。新しい情報や現場の気持ちに無関心な大先生って多いよね。

ただ、もちろんモラルは大事だよ、表現はモラルに制限されると思う。どんなに自分がいいと思っても一人で20分もしゃべられたのでは他の人も困るから。ボランティア以前の問題。マナーにはずれるとか、調子に乗ってトークに熱が入りすぎたら、だれかが注意しなくちゃいけない。「先生」を卒業した先生がいちばん厄介だね。でもそれに固執するのが御自分の生きがいなんだね。きっと。

集団による絵本の読み聞かせも、最初はだれかが言い出したのでしょうね。読み聞かせに人が集まらないとき「皆さんの努力が足りない」「そう、私たちのせい」ってけなげに言ってたよね。でも、ほんとにそう?それって上官と下級兵士みたいでないかい。もとを間違ってない?上下関係があること自体がヘンなんだから、昔にさかのぼって、からまった糸を解けば解決できないかな。

堀田穣研究室(口演童話)
http://homepage2.nifty.com/johotta/kohen.htm

新潟の中越はガンガン雪がつもってるそう。地震の前からあとからこれでもかってくらい災難続き。新潟市は少なくて申し訳ないみたい。昨日、それでもぴゅ―ぴゅ―吹きすさぶ中、犬の散歩に行ったら、公園で中学生と小学校高学年くらいの子どもが遊んでいた。天気が荒れるときって子どもは異様に元気。中学生の男子なんか地面に大の字になっていた。体の中にあるものと共鳴してるのかな。
女の子の集団は「はないちもんめ」をやっていた。わらべうたを仲間うちの楽しみにして暗がりの強風の中で叫んでた。

不審者にとっさに対応するのに大声を出す練習するようにってCAPの人たちが言ってる。わらべ歌で叫ぶのっていいよね。それと、拍子木の音もいい。アナログだからどっち方向から聞こえるってすぐわかるし、意外と遠くまで届く。高齢者にも耳障りではない。持っているといざというときの武器にもなる。

(去年の12月19日作成分を書き変えて投稿しなおしました)



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