図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
ミアッカどん、ヘドレイのべこコ
前のページで、子どもに本を紹介する図書館リーフレットに『イギリスとアイルランドの昔話』(福音館書店)があることについて、問題があるのではないかと書きました。子どもへのおすすめ本リストにこの本があるということが、図書館が子ども文化を理解できないことの象徴のように思われるのです。いくらイベントをしても、図書館の体質が変わらない限り、子どもに相手にされない「こどもとしょかん」になるばかりです。
新潟市立図書館はこの本をリーフレットに載せて、「訳文も味わい深い」としていますが、これらの訳文を読んで、あるいは大人に聞かされて、子どもはどう思うでしょうか。無数にある子どもの本の中で、なぜ『イギリスとアイルランドの昔話』は執拗に推薦され続けているのか疑惑を持っています。今の子どもの目線に立った改訂版とか、改善策を考える気持ちは、出版社にはないのでしょうか。
図書館は「先に立って子どもを引っ張る」のではなく「一番最後を歩いて すべての子どもが前に進めるように下で支える」のではないかと思います。そのために資料は幅広く、となっていますよね。下で支えるのは決して小ぎれいなことではなく、泥臭くみっともないこともしなくちゃなりません。そういったものも受け入れて揃えて、どんな子どもからも信頼されるのではないかと思うのです。
この2編を子どもに語ることについてどこがおかしいか、「ヘドレイのべこコ」と「ミアッカどん」について、私の意見を書きます。
①「ミアッカどん」について
これはついては当ブログに2件書いてあります。
「絵を使って語る(2007-08)」「なぜおはなし会の聞き手が少ないのか①(2006-11)」です。
その一部を抜粋して書きます。
・・・(略)子どもの気持ちになればいいのです。例えば「ミアッカどん」です。『ミアッカどん・・・トミー・ヨゴレンボは言うことを聞くこともあるし聞かないこともありました』
さあ、あなたが子どもだったら、『???何?このおばさんなに言ってるの?トミーっておばけ?ミアッカどんって?』となりませんか。翻訳本は翻訳本だから正確に翻訳してあるだろうけど、物語の言葉を記録してあるだけで、これでは聞いてなんのことだかわかりません。タネ本でしかないので、種のままでなく、発芽した状態で語ったほうがいいとは思いませんか?
あなたの家に子どもが来て、おはなしをしてやるならば、
『ミアッカどんっていうこわいばけものの話をするね。昔、イギリスのあるところに、トミー・ヨゴレンボっていう男の子がいたんだって。トミーはヨゴレンボっていうくらいだから、きっとキカンボだったんだね、あんまり大人のいうことをきかなかったんだって』となりませんか。
②「ヘドレイのべこコ」について
これは3件書いてあります。
「同名の印刷紙芝居(2013-09)」「『ヘドレイのべこコ』について(2013―03)」「自分の欲と向き合って(2009-10)」です。一部を抜粋して次に書きます。
・・・(略) 当時、おはなし会でこの話を暗記して語る希望をだされたAさんがおられて、私はそのときのプログラム作成係だったので、その時にこの話を読んでみたのです。
困ったなと思ったのは、「ヘドレイって何?」「べこコって何?」でした。このまま文字通り語ったとしても子どもには、それどころか私にもわかりはしません。それでも「ヘドレイ」という言葉は「イギリスにヘドレイという地方があるみたいだ」「ヘドレイ鉱という鉱物があるみたいだ」と調べました。そして、「で、どっちだろう」と思いました。「べこコ」は「赤べこのべこ、つまり牛のことみたいだよね」ということで納得しました。 で、Aさんにそのことを話して「ヘドレイは、どっちのことですか」とたずねたら、驚かれたのです。「中身まで調べるんだね~」というのがAさんの驚きの理由でした。
今度は私が驚く番です。「中身がわからないのに語るの?」・・・・・
その頃は、私はプログラムを作るのにも本の片寄りが気になって、異論を言っても通らないどころか話の腰を折られる状態で、投げやりな気分でやっていましたから、「もう、どうでもいいや」とセオリー通りに希望の話を適当に間に入れて他に希望として出された本を並べてやりました。 話の流れはわかるのですが、こういう言葉の羅列で はたして聞き手が面白いのかどうか、どうして他の人は平気でいるのか不思議で仕方がなかったです。 現在、この言葉で検索すれば、あちこちのおはなし会でやられているようです。訳者は著名な方だから、とにかく変えてはいけないとそのままやっているのでしょうね。
なんだか、お笑いに近いものがあると思いませんか?「意味がわからない」「日本の特定地域の方言のベコ”もそのまま」を、大真面目にそのまま子どもに届けるって。
巻末に「昔話は元の形からはなれれば、はなれるほど、力強さを失ってしまうということです。」という文字があり、それに逆らうのはいけないことだという鎖に縛られているのでしょうか。 「べこコ」にしてもそうです。「それぞれの土地で文字のない人の口から一字一句も変えないで写しとった昔話は~~略~~替えがたい貴重な材料でしょう。」と書いてあるので「イギリスの人の口から出た方言」→「日本人の方言にあてはめる」という、機械のような変換もされています。
その巻末の文字だけが切り取られて「べからず集」のようになっていないだろうか。どうしてそのようなことがまかり通っているのでしょうか。
紙芝居で子どもに語れば、あるいは今の子どもに理解できるようにして語れば、親しみのあることばと不思議な感覚で受け入れられ、楽しんでもらえることでしょう。子どもと本をつなぐのであれば、まず大人が不安を乗り越えて、愛情をもってしなくては何の意味もないでしょう。
元の形が最高で、最高のものを子どもに届けるのだという意識の中には、間違いを恐れる気持ちと、「私って崇高な人」という自分自身を持ち上げたいという欲望があると思うのです。 変えることは決して子どもに媚びることではなく、子どもと共にあることだと思います。皆で本を利用して、一歩前に進みませんか?
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