電通の問題で、高橋まつりさんのお母様が手記を寄せられていて、共感しました。
以前何かの資料で見た、図書館職員の鬼十則(?)のような、「先輩から後輩に伝えましょう」などという言葉に、私は異論があります。
現実的な作業手順などは、経験が伝えられることもあるでしょうが、選書の仕方、良い本の見分け方にもこれが当てはめられているように思います。先輩の推す良書に、後輩が無理に合わせているのではないか。これが繰り返されて「読み継がれた本」になっているのではないか、という疑問を私は持っています。
私は、自分が「これが好き、これが面白い」と思った本に対して先輩が悪いところをあげつらう、そういうボランティアの現場にいました。
新人は「これはいい本だわ」と思って提案するのに、否定される。そういうときの新人の辛さは、とても言葉に言えないものがあります。心の過労です。そこから自己否定がはじまり、うつになる人もいたのではないでしょうか。
先輩は「そういう本を推薦するのは、地域を悪くする。〇〇先生に申し開きができない。あやまりなさい」などという論調です。これは電通の上司の「お前の残業代は無駄だ」にあたります。
「地域のために、子どものために、良い本を」という一見美しい言葉には、「それ以外のものは排除しなさい」ということが含まれているのです。「良い本以外のものを読み聞かせに使おうというのは、地域を悪くすること」と言外に言っているようなもの。だから、良書主義でやっているうちは、こういう暴論は今でも続いていることでしょう。
県の読書ボランティアリーダーの講座でも「良い本を考える」の延長上に、「嫌いな本があってもいい」などと講師が言っていますね。
自分のどうしても好きでない本を「嫌い」「良くない本」と認識し、自分では排除する。そこで止まってしまう。
ここで止まってしまえば、ただのわがまま奥様です。こういう人は世の中にたくさんいますから仕方がないとしても、これが司書や絵本講師では困ります。
自分は「ただの普通の人」という広場に降りて、「では、この本が好きな人はどこがいいというのだろう」と考えて、それを見つけていくのがまともな大人というもの。そこから研究が始まります。
でも、絵本講師や司書は「ただの普通の人」になれないでいる。「高みに登って降りてこられない」のです。自分たちはただの普通の人でない、というのが「伝統」だと思っている。そういう伝統の中にいて、その困った伝統で新人を育てよう、あるいは地域を育てようとしている。
この前、思い立って検索しました。「ゾロリを置かない」という他地域の図書館の元職員がいます。それを涙目で崇拝するボランティアが新潟市にはいます。これは殆ど宗教ですから本人たちは思いのままにやるしかないでしょう。でも、私たちは、そういう他の地域の図書館の「子分」ではありませんから、そういう人がリーダーになって新潟県のボランティアを指導することに異論を申します。
伝統に囚われず、差別意識を捨てて、改善に向かいたいと思っています。差別をやめるために、すべてを平らに見て、それぞれの特徴を探し出して分類して、淡々と認識していく方法はどうでしょうか。