「ストーリーテリング」とはどういうものでしょうか。
私が知っている限りのことですが、新潟市では「本に書いてあることをそのまま暗記して口にすること」と思われています。
ストーリーテリングは図書館がやるもので、自分の言葉で語る「語り」は公民館がやるもの、という認識さえあります。
黙っているとそのまま突き進みそうなので、もっと広く解釈したらどうか、と私は講座でも話すつもりでいます。
ブログに書いておけば、誰かが検索してたどり着いてくれるかもしれません。
県内の図書館に、新潟市から講師が行って「ストーリーテリングを始めよう」などというタイトルで、本を暗唱するような語りが広められてきました。
これでは受講した人に、「ストーリーテリングは今までやったことのないもの」と受け取られてしまうのですが、「ストーリーテリング」と「語り」は同じものですよね。
長岡市などは昔語りが盛んなところですから、新潟市から行った講師たちは昔語りと違うやり方を進めたいと思ったのでしょうか。
ところが、今「ストーリーテリング」で検索すれば、企業の中で何かを説明する時に物語仕立てにして語りかける方法、というような本が続々と現れます。
もちろんその物語は自分で作った話でしょうから、そういう「ストーリーテリング」も現実にあるわけで、世の中で役に立っているのですよね。
瞬時に情報が世界中を駆け巡り、英語を社内語にしてしまう会社もあるこの頃です。
すとおりいてりんぐ、と、なにやら外来語をカタカナにしてモダンな感じを持たせようとしても、世の中は複雑になっていて、人に相手にされないのではないでしょうか。
「ストーリーテリングの語り方はこれこれ」と図書館おかかえ講師が一生懸命指導して上品に語ったとしても、「よく覚えていて、すばらしい」と思うのは一部のおばさまだけで、若い人には理解も尊敬もしてもらえないと思います。
理由ですか?「すばらしい」というのは語り手に対する賞賛であって、語り手には賞賛を受けたいがためにやっているような雰囲気がありありと出てくるからです。これははたから見るとあんまり気持ちのいいものではないですね。
かつて、ある程度の年を重ねて自分の時間ができて、語りをやってみたいと思った時に、活字が覚えられずに挫折するという人がかなりいました。
「おはなし会」に行ってみたけど、数話聞くと退屈で、どうせ退屈する自分が悪いのだと、そこから離れる人もたくさんいました。
本を暗記することを最初の講座で指導されたせいで、今も苦しむ人がたくさんいます。
自分なりに変えて語ると、些細な失敗を指摘されて「あなたは勉強不足。良い資料をきちんと覚えなさい」と気持ちを折られることも多かったです。
けれど、どなたもみんな「やってみたい」と思う、貴重な人材ではないでしょうか。貴重な人材を無理に型にはめて、現実に対応できないボランティアに育ててしまったのではないかと思えてなりません。
私には、この問題を何とか解決していきたいという願いがあります。
好きな話を、自分の思いを込めて語れば、多少のブレは聞き手が補っていくものです。「さーす」などと合いの手を入れるということはそれが結実したものではないでしょうか。それが聞き手の満足にもつながっていくのです。それが対等な目線の交流ではないでしょうか。
「自分の思い」を語りにするとき、その作業のコツがわかればいいのですし、試しに練習する場所があればいいと思います。
私は偉い先生ではありませんから、私の名前で人を集められるとは到底思えません。
センセイのマネをして型にはめるのでなく、互いに学び合って自由な形式を自分で作ることで、状況を改善していきたいと思っています。