エクストリーム四十代のかもめ日記

野球を中心に、体力気力に任せて無茶をしがちな日常を綴る暑苦しい活動記。

プロ野球 人生を変えた名・珍場面

2019-12-26 21:04:54 | プロ野球
我が人生、プロ野球とともにあり。
ということで、私の人生において、プロ野球にまつわる
「人生を変えた驚きの名・珍場面」を振り返ってみます。

子供の頃は巨人ファンでした。
親に連れられて、後楽園球場に行ったことも何度かあります。
父、母、弟、私、全員が巨人ファンだったわけですが、
最初に私の野球ファン人生を変えたのは、「帽子」でした。
弟はいつも巨人の野球帽をかぶっていました。
当時、小学生の女の子が野球帽をかぶるなんて文化はありませんが
小学4~5年生、10歳前後の私は「私も巨人の野球帽がほしい」
と親に言いました。すると、巨人ファンのはずの母は、私を
野球帽売り場に連れて行き、こう言いました。
「同じ帽子だと(姉弟の)どっちの帽子かわからなくなるから、
〇〇ちゃんは別の帽子にしなさい」
そこに並んでいたのは12球団それぞれの帽子。いやいや母よ、
なんで巨人ファンの娘に、他の球団の帽子を買えって言うの!?
私は「なんであの時、巨人の帽子を買わなかったのか、変な子供だ」
と思っていた時期もあるのですが、そういえば母のせいだった…。
私が選んだのは「この、小さい星がついてるのが可愛い」という
意外に女の子らしい理由で「ロッテオリオンズ」の帽子。
ロッテのロゴは「ロッテのLとオリオンズのOを組み合わせて、
小さな星(オリオン座の星?)をあしらったもの」でした。
小学校高学年の私の写真は、ひらひらのワンピースを着ていても、
頭にはロッテの野球帽が…。
弟が巨人の帽子、私がロッテの帽子をかぶって暮らしていました。
すると私にとって、やっぱりロッテは特別な存在になるんですよ。
高校野球で見ていて「すごいな」と憧れた愛甲猛もロッテに
行っていたし、新聞の片隅でしか見られないロッテの状況が
(当時のスポーツニュースはパ・リーグなんてほぼスルー)
気になるようになり、「巨人とロッテのファン」になりました。

斎藤雅樹に傾倒して一番「巨人ファン度」が高かった高校時代も、
巨人戦のチケットはなかなか取れないという認識のため、
結局自分で東京ドームに行こうと思うことはありませんでした。
初めて、自分でチケットを買って野球場に行ったのは、なんと
ロッテオリオンズ本拠地、あのぼろっちい川崎球場。
当時私が「友達以上」を目指していた巨人ファンのイケメン男子と、
冗談の延長線上で球場を訪れた1991年の夏。
ガラガラのライトスタンドで、ごく一部に固まって妙にアツい
応援団をすごいと思いました。内野席は超絶ガラガラだし。
結果としてその巨人ファン男子は獲り逃しましたが、それが
今のダンナとの縁につながっていくのだから不思議なものです。
川崎球場にはこの一度しか行く機会がなく、翌年にはなんと
ロッテが移転して「千葉ロッテマリーンズ」になりました。
同じ「ロッテファン」でも、川崎球場に行ったことがあるのと
ないのとでは「箔」が違うじゃないですか♪
私は、誇り高き「川崎球場に行ったことのあるロッテファン」
になれたのです。まあ、当時はほぼ巨人ファンでしたが。

私がゲットした人生初の彼氏(今のダンナ)は千葉県民でした。
ロッテも千葉に移転。であれば、私が千葉マリンスタジアムに
行く際に、「千葉県民だから来て」と彼氏を付き合わせるのは
そんなに悪いことではないでしょう。
それがたとえ、極寒の3月のオープン戦「ロッテ×巨人」の、
寒風吹きすさぶレフトスタンドであっても。
彼氏が野球にまったく興味がなくても。
自分が試合から目を離したくないために、彼氏に何度も
「寒いから、あったかいものを買ってきて」と頼んで
使いっぱにしたとしても。
いやあ、彼氏(千葉県民)、いつまで経っても野球ファンには
ならなかったけど、何度も何度も野球場に付き合ってくれて、
ほんとに優しかったな。
そんな千葉県民の彼は、立場が「夫」に変わっても、
野球にはあまり興味がなく、でも野球場には来てくれて…
しかしある時、ダンナがロッテファンになる日が訪れました。
ゴールデンウィーク、野球観戦でばかり千葉に行っている
我々夫婦は、球場からそう遠いわけでもないのにご無沙汰して
しまっているダンナの実家に立ち寄りました。
めっちゃ、野球観戦のついでになっちゃいましたが、
半年以上ほったらかしていたダンナの両親と、久々の
楽しい時を過ごしました………。
それから一週間後、お義父さんが急逝したのです。
「千葉にロッテ戦を見に行ってたお陰で死ぬ前の父に会えた。
ずっと顔を見ないまま死なれるところだった。ヨメのお陰でも
あるが、ロッテにも生涯感謝したい」
こうして、ダンナは急速に野球に興味を持ち、もともと頭の
いい人なので、野球の戦略的技術的な部分などをめきめきと
理解していき、ガチでアツいロッテファンに育ちました。

2005年、ロッテ×阪神の日本シリーズ第一戦のチケットが
取れた時は本当にうれしかったものです。巨人ファンだった
時代は、日本シリーズなんてプラチナどころじゃない
絶対に取れないチケットだったので、自分が日本シリーズを
観戦できるなんて、思いもしませんでした。
しかも、夫婦で参戦したその試合で、大学卒業から10年
ご無沙汰していた大学のサークルの先輩にバッタリ会って
めちゃくちゃびっくり。
ダンナと私は大学のサークルの先輩後輩なのですが、
なんとそのサークルに希少なるロッテオリオンズファンが
一人いて、その人もこの試合に来ていたのです。
あの「ロッテファンって存在するの?」というレベルで
ファンの少なかった1991年に私が初めて出会った
自分以外のロッテファンの人。でも、その彼としては、
うちのダンナがガチロッテファンになってたことが多分
一番の驚きだっただろうな。笑
しかも、この試合は「霧でコールド」という珍試合に…。
試合再開を期待しながら、阪神ファンの方々と共に、
球場じゅうでぐるぐるウェーブを繰り返したのは本当に
楽しかった…。実は霧が球場に垂れこめてきた時に、
「劣勢の腹いせに、阪神ファンが発煙筒か何かを
焚いたのでは」と思っていたことはナイショです。
普通の日本シリーズとして「勝利の瞬間」が見たかったけど
霧の中、主審が出てきてコールドを宣言するというのも
超・激レアな経験ということでいい思い出です。

すっかりロッテを応援しに千葉マリンに通うようになり、
ビジターとしても野球場各所に通うようになった私ですが、
あくまでも内野観戦派であって、応援に参加することは
ありませんでした。
日本野球の応援文化は好きです。子供のころから、
「かっとばせー中畑」とか叫んでテレビを見ていたので。
でも、自分がその中に入って声をあげることは考えても
みなかった…
なのに、ある日、その運命を変える日が訪れました。
東京ドームで開催された日ハム×ロッテの試合。
内野自由席を購入した私は、すいていたので、周囲に
人のいないエリアにぽつんと座っていました。
そこに「お一人ですか?」という声がかかりました。
「はい」と答えると「お隣、失礼します」と座ったのは
同じく一人で観戦に来た女性。
おお、同志か…と思ったら、彼女は桁が違いました。
内野席なのに腕を振り上げ、突如私に向かって、
「レッツゴーマーティー、からお願いします」
とレクチャーを始めたのです。!?!?!?
スルーするのも申し訳なく、気をつかってなんとか
彼女のレクチャーに合わせて応援をやってみる私。
もちろん内野席だから座ってできる範囲内ですが、
腕を振り、声を出して応援を続けるハメに………
しかし、これが実に気持ちいい。
応援歌はもともとさんざん耳にしていてほとんどの
メロディーを覚えていたのが、彼女の歌声で歌詞を覚え、
主力選手の応援歌はたいがい歌えるようになりました。
以降、応援しながら見るようになり、やがてはマリンの
ライトスタンドや、ビジター球場のレフトスタンドで、
人一倍大きな声で歌って叫んで跳ぶようになりました。
ダンナも付き合わされて歌って叫んで跳ぶようになり、
「あの、野球に興味もなく、球場で大声を出すようには
見えない温和でインドアインテリな人が…」と感慨に
ふけりました。
でも絶対変だよね、あの東京ドームのロッテ女子。
今も、彼女がどこの誰か、まったく知りません。
でも彼女によって私の人生の新たなドアが開かれたことは
確かなのでした。

そして、2009年に起こった「ロッテ応援団による
西岡剛応援ボイコット事件」も我が野球人生における
大きな出来事でした。
ボビー・バレンタインはロッテ球団の歴史を変えた
大功労者であり、私もその信者の一人です。
2009年は、ボビーの去就について、一部ファンと球団が
対決する状態となり、過激なファンが球場のライトスタンドに
暴言やセクハラな横断幕を掲げる騒ぎに発展しました。
西岡剛がその状況を見て「子供たちも来るのだから」という
ごくごく真っ当な理由でそうした「汚い」類の横断幕を
やめてほしいと訴えたところ、翌日から西岡に「裏切者」
という横断幕が掲げられ、応援がボイコットされる事態に
なりました。
私はボビーにいてほしいけれど、球団がボビーにこれ以上の
金を出せないというならやむを得ないという考え方でした。
もうボビーの改革は済んだし、功労者として送り出すのも
良いと思っていました。
しかし、考え方がどうあれ、西岡に対してこれはない。
彼は「応援団が間違っている」ではなく、「子供たちに
そういう横断幕を見せるのは良くない」と中立の立場で
苦言を呈しただけです。
私は、千葉マリンのバックネット裏2階にいましたが、
モニターや遠目に「裏切者」横断幕を見てかなりの憤りを
感じました。ボビー信者でも、西岡が決して間違って
いないことはわかります。
試合開始後も、西岡の応援をするタイミングで、何か
ラッパの音楽を奏でてお茶を濁し、応援を先導せず
放棄する応援団に怒りがこみ上げて外野席に文句を言いに
行きたかったのですが、今いる場所は応援席から一番遠く、
しかもマリンは内野から外野への通行ができません。
試合は延長戦に入り、グラウンド整備で球場が静かになった
タイミングで、私ははるかに遠い応援団に全力で叫びました。
「応援しない応援団なら、帰れよ!!!!!」
すると間髪をいれず背後のオッサン2人が「そうだ、
帰れ帰れ!」と追従してくれました。
それからしばらくして、内野席を中心とする球場全体から
さわさわ、ざわざわと「帰れ」のコールが湧き上がり、
とうとう大きな「帰れ」コールになりました。
皆、同じ気持ちだったのでしょう。
なんか私が「帰れ」コールを先導したみたいになって
恐縮でしたが、同時に、大きな感動をおぼえました。
やっぱりロッテファンは素晴らしい。
延長戦では、応援団を無視して球場じゅうで「ツヨシ」
コールをして西岡を応援。太鼓や笛などの先導がなくても、
心がまとまれば声援は綺麗に揃うんです。
延長12回裏、球場中に声援された西岡が3塁打を打ち、
球場は大歓声に包まれました。あとはサヨナラ勝ちするだけ!
次の打者は堀幸一。応援団が堀の応援歌を奏でても、
球場のロッテファンはそれを無視して「コーイチ!」の
コールを続けました。
結果、堀幸一はスクイズ失敗でゲッツー、試合終了。
「あーあ」というため息の後、皆が三塁打を打って
チャンスを作った西岡に笑顔と拍手を贈りました。
西岡も、笑顔で帽子を取って球場じゅうにお礼の気持ちを
伝えていました。
勝ったわけでもないのに拍手と笑顔に包まれたあの日の
球場の様子は、美しく誇らしい景色として心に残っています。
翌2010年、西岡剛をキャプテンに据えたロッテが、
シーズン3位ながら奇跡以上の輝きを放って日本一に
なったのは、野球の神様から西岡とロッテファンに贈られた
プレゼントだったんじゃないかなと思っています。
あの日の球場のロッテファンは、本当に素晴らしかった…。

そして最近では、イチロー引退を現地で見送ることができた、
(当ブログ別記事参照)というのが我が野球好き人生の
名場面です。

えらい長くなってしまいましたが、47年分あるので、
ホントはまだまだ「2015年、神宮のライトスタンドで
ヤクルト優勝を生で見るまでの長い物語」などいろいろ
あるのです。
でもまあ、私の野球人生の重要な場面は、ここに長々と
書いたエピソードが主なものかな、ということで超~長文
失礼いたしました。

私と読売ジャイアンツ

2019-12-14 23:14:07 | プロ野球
なんか気が向いたので自分の巨人についての全てを吐いておく。

生まれた時点で、私はすでに読売ジャイアンツのファンだったと
思う。両親が巨人ファンで、ナイターをテレビで見るのを
欠かさない家だったので、胎教も受けていたはず。
幼少期も、家では巨人戦と高校野球が必ずかかっていた。
自分が巨人ファンになった瞬間を、私は知らない。

福岡に引っ越したら、町内会対抗の野球がハンパなかった。
茶山と田島の何丁目ごとにチームが組まれて対戦する。
弟は茶山2丁目チームのピッチャー。
きっと将来は巨人のエースピッチャーになるんだと思っていた。
巨人以外の球団に行くという“発想”そのものがなかった。
そういう時代だったんだなと思う。
2人でたくさんキャッチボールをした。
私のグローブはお下がりで、弟のグローブはもちろん自分用。
弟の帽子は、試合では町内のだけど、普段はもちろん巨人の
野球帽。私も巨人の野球帽がほしかったのだけど・・・
ここで私がロッテオリオンズの野球帽を買うことになったのが
以降「巨人とロッテのファン」を名乗ることにつながる。

小学館の「小学〇年生」という雑誌には「リトル巨人くん」
という漫画が連載されていた。小学生の滝巨人(きよと)
という少年が読売ジャイアンツに入って活躍する漫画。
中畑、篠塚、原、山倉、堀内など当時の人気選手が実名で
そっくりな似顔絵で出ていて、本当に面白かった。

実は幼児期、小中学校時代の私は脳みそも人間的にも
非常に未熟かつ視野が狭くて、江川や桑田のダークな入団の
経緯にどうこう思ったりする感覚はなかった。

私にとっての巨人黄金期は藤田元司監督の下で、
生え抜きのスターたちが活躍し、超投手王国を築いていた
あの時代。もちろん中尾捕手という外様の存在が強さに
影響したのは確かだが、とにかく巨人育ちの素晴らしい
選手たちが活躍して勝っていく、それが私にとっての
読売ジャイアンツだった。
そして斎藤雅樹という、投手としても人としても最高の
選手との出会いは私を巨人ファンから「巨人狂」にした。
高校では巨人ファン仲間を見つけてははしゃぎ、
成人式は「まだ19歳だから晴れ着は着ない」と言って、
オレンジ色に黒の飾りリボンのついたジャイアンツカラーの
6万8千円もしたファッションスーツを着て出た。
日本一になればスポーツ新聞全紙を抱えて大学に行った。
自己紹介には「巨人とロッテのファン」と書いていたが、
巨人9:ロッテ1、いや多分ほぼ巨人10の度合いで
巨人ファンだった。

監督が長嶋茂雄に代わって巨人の良き文化はぶち壊された。
私が子供のころから見ていた読売ジャイアンツは、
自分のチームで育ってきた生え抜き、ずっとおなじみで
いてくれた素晴らしい選手たちの活躍するチームだった。
だが、長嶋は他所の看板を次々に金で買ってきた。
他所のチームの看板選手が並ぶスコアボードに、
巨人、読売ジャイアンツの矜持はもはやなかった。
ホームランを待つだけの退屈な戦略も、すでに目の肥えて
しまった私の野球観にはまったく合わない。
さらに、巨人ファンの多くはそんなものを求めていなかった。
この時期に、私の周辺にいた同世代の巨人ファンは全滅した。
「こんなの巨人じゃないし、プロ野球はもういい」という
感じで野球ファンまでやめてしまった。
私は、斎藤雅樹がいたから、巨人に辟易しつつもファンを
やめることはできなかった。
だが、あんなに好きだった野球中継を見ることは著しく減った。
私にとっての「プロ野球、失われた10年」に入った。

ある日、電話が鳴った。父からだった。
「斎藤引退するって、今会見がテレビで流れてるよ」
滂沱の涙を流しながら引退会見を見た。
長嶋が斎藤、槙原、村田を引退に誘ったという。
だから3人もの選手が同時に引退になった。
桑田も言われたが断ったという。聡明だと思う。
長嶋茂雄はどういう人間なんだ。年寄りにとっては神様だか
なんだかか知らないが、四十代以下の元巨人ファンには
「巨人をダメにした張本人」でしかない。

どんな大金を払っても斎藤雅樹の引退試合は命をかけて
絶対に行くつもりでいた。
だが、あまりに急に、しかも長嶋の勇退と一緒に引退
セレモニーがある日のチケットが手に入るはずもなかった。
長嶋は私から斎藤を見送る機会も奪った。
そして、斎藤雅樹を200勝させず、いくら150勝が
かかった試合だからといっても延長12回まで179球も
投げさせるような無謀な起用で斎藤の晩年をつぶしたことも
許せない。
野球界で、私から誇れる球団と最愛の選手を奪った長嶋は
最も嫌いな人物だ。生涯許す気はない。

2001年、斎藤雅樹の引退で私のプロ野球愛は死んだ。
それは2004年にボビー・バレンタインが再来日して、
私の二番目に好きだった球団・ロッテを魅力的に作り変えて
くれたことでロッテファンとして蘇ったが、もはや私は
「失われた10年」を経て巨人ファンではなくなっていた。

現在の巨人ファンは、FAで他球団の看板選手を買い漁る
ことに抵抗がないようだ。
その一部が飼い殺されて選手生命を無駄に消費していたり、
若手選手の成長機会が阻害されたりしていても、
チームが金を使うことを「頑張っている」と思っている。
「他球団の主力を引き抜けば他所が弱くなって優勝できる」
というやり方にも見えるFA獲りが、セ・リーグ全体の
レベルを下げていることに気づかないのだろうか。
巨人の栄光のエースナンバー「18」を外様がつけることに
なんとも思わない人も増え、背番号への憧れや誇りという
感覚も薄れてしまったようだ。
「球界の盟主」であった「栄光の読売ジャイアンツ」は
長嶋茂雄が滅ぼしたと私は思っている。
自分で手を下しておいて何が「永遠に不滅」なのか。

私の中の栄光の読売ジャイアンツは、藤田元司と斎藤雅樹
とともにある。
あの時代、正力松太郎が「紳士たれ」と説いた理想の
読売ジャイアンツがいた。その時代に巨人ファンで
いられたことが私の人生の喜びである。

オフシーズンのつぶやきとロッテ愛

2019-10-20 13:36:30 | プロ野球
プロ野球の一球速報についていた応援掲示板がなくなって久しいですが、
あの掲示板は不快なことも多かったものの、いろんな知識を得ることが
できました。また、野球ファンは知的でユーモアのある人が多いなと
思うことも多々、いや相当ありました。

応援掲示板に限らず、ニュース記事のコメントからもってきたものも
ありますが、面白かったからメモしておいたネタをオフシーズンの徒然に
発掘してきました。
すべてどこかの誰かが書いたコメントで、本当なら許可をとらないと
いけないのでしょうが、もはや出典不明になってしまったので、
個人の感想としての引用だからゴメンね、ということで。


  勝ったら六甲おろし
  負けたら真弓おろし

阪神の監督が真弓氏だったときの阪神ファンのコメントですね。
「おろし」の意味合いが真逆のフィーリングになっていて秀逸。
阪神ファンが拳を振り上げて叫んでいる1枚の写真を用意して、
下にこのどっちを表示してもいい。
そして、これは阪神の監督が誰になっても使える定型文。
今なら「負けたら“矢野”おろし」となるわけですね。


  何が「巨人軍は紳士たれ」だ
  「巨人軍は馬鹿たれ」と改めるがよい。

もはや、これがいつのどのタイミングで出たコメントなのか
わかんないくらい、巨人はいつも不祥事ばかりですね…
元巨人ファンとしてはもはや嘆くこともないですが。
このコメントも「たれ」の使い方が絶妙。
「紳士たれ」のほうは「紳士であれ」という有難い教えであり、
「馬鹿たれ」のほうは単に「バカタレである」ということ。

「巨人軍は常に紳士たれ」プロ野球の父、正力松太郎氏の遺訓です。
だいぶ前、野球殿堂博物館に行った時、正力氏の肖像画が飾って
あって写真撮影可だったから、「お守りに」と思ってすぐ
写真撮っちゃった。今の巨人は正力さんに顔向けできるのかい?
藤田元司監督の時代は私も紳士である巨人を誇りに思っていたよ。


  後悔先に立たず、後悔あとを絶たず

これも「先」と「後」で対比になっているのに「に」と「を」が
違うだけで絶妙な表現になっています。
野球の「やっちまった~」という場面でビシッと書かれてくると
胸に刺さる名コメントでした。


  やっぱり巨人って、
  今の日本の状況が全く分かってなかったんですね。
  どうりでドームで野球ができるなんて勘違いしているわけだ。
  せめて読売新聞くらい読めばいいのに。

これは東日本大震災の時に巨人が開幕を強行しようとした件で
書かれたコメントですね。最後の一行が超強烈に効いています。


  秋の風物詩とチームの中心だった人物が引退する試合が
  合わさった時 ホークスは歴史に残る敗戦をする

これは、秋にホークスファンの誰かが書いたコメント。
預言みたいで面白かったので取ってありました。
王監督最終戦、雨中の12回裏サヨナラ負けとか。
小久保引退試合をノーヒットノーランで負けるとか。
自らの手で何度も「秋の風物詩」こと“ポストシーズンの悲劇”
にホークスを叩き落としているロッテのファンがうなずくのも
アレですが、こういう都市伝説的な「チームあるある」も
プロ野球の楽しいところです。


  両チームのナインから十分に猛虎魂を感じる試合であった
  このような試合を見せてくれた野球の神様から猛虎魂を感じる

もはやどこの掲示板でもコメント欄でも定番の「猛虎魂」ネタ。
これは確か、阪神に関係ない日本シリーズとかの対戦で、
すっごい劇的で感動的な試合展開だった時に書かれたコメント。
阪神に何にも関係なくても、すべてのことに猛虎魂を感じる
阪神ファンの心意気を見た。
総じて阪神ファンは自虐が上手くてネタのツボを押さえている。
一方で、巨人ネタはどうしても「時の権力への痛烈な風刺」
みたいなチクリと効いたネタが増えてしまうのはやむを得ないか。

そして、パ・リーグのネタ、我がロッテのネタが全然ないのは、
やはりセ・リーグほどファン文化の熟成がなされていないのと、
まだまだ酸いも甘いもかみ分けた歴戦の猛者ファンの頭数が
足りないというところかな、と思います。
阪神板が大喜利になってる時とか半端ないし、巨人関連の
掲示板や記事で見る上手い巨人への風刺はほんとに含蓄がある。

ついでに、今なおネットでは「334」(2005年日本シリーズ
ロッテと阪神の総得点差)がネタになっていることをありがたく
思っていることを付け加えておきます。
ロッテファンは、その後2010年にも日本一になっているし、
2005年に圧勝したことは「楽しかったあ」みたいなイメージで
点差がいくつとかあげつらう気は全然ないんだけど…
今なお、セ・リーグの野球掲示板やコメント欄では阪神ファンに
限らず「334」ネタが散見されて、そのたびにちょびっと
うれしくなってしまうロッテファンでした。
阪神ファンには「長く使えるネタになって、むしろオイシイわ!」
と思ってもらえれば幸いです。

ラストとして、昨今の「FA選手に金を積む=球団頑張ってる」
という浅はかなファンの風潮を揶揄しておきたいと思います。
「金を出さない球団は頑張ってない」というのを、FA選手に
5億も6億も積むとか、そういうレベルで言われてもね。
そこまでしなくても優勝するチームは作れる。
下は、球団が金を出す・出さないの話の中で出ていたコメント。

  阪急創業者・小林一三氏のありがたいお言葉を送ります。
  「金がなければ何もできないという人間は
   金があっても何もできない。」

我がロッテにも一時変なのが住み着いていたことがあってね。
「球団が金を出さないから優勝できない」とわめいて補強を
ひたすら要求し続けた。
でもその人、前に追い出された球団でも「俺でなく球団が悪い」
とやって、退団時に花束も出なかったんだって。
その球団は常勝だったのに、その人が何年も監督をしたら、
なんと26年ぶりにBクラスに落ちてしまったって。
ロッテのことも最下位に叩き落として消えていった。
そんなのが今も球界で持ち上げられてるんだから、ほんとに
不思議な業界だよね。現在の実力より過去の名前が優先する世界。

球団が金を出さないから優勝できない…
それは「無能だから金でフォローしてほしい」という意味だ。
一部の無能な監督がそれを言うのは無能なんだから仕方ないが、
ファンを名乗る者が「もっと金を出せ」「大金を積め」と
言うのを見ると「野球の面白さを知らん奴はこれだから」と
思うばかりだ。

我が千葉ロッテマリーンズは、貧乏だけどとても素晴らしい
球団です。金にならないどころか、膨大な赤字を垂れ流す
「経営に対する危険因子」でしかなかったロッテオリオンズを
ずっとずっと維持してきてくれた親会社。
浅いロッテファンはすぐ「身売りしろ」とか言うけれど、
どんな赤字でも耐え抜いて50年球団を持ってくれる親会社、
今の時代、鉦や太鼓でどんなに探したって見つからないよ。

話の流れで、ここで我が親会社であるロッテに心からの
感謝を述べておきたいと思います。
継続は力なり。よくぞ今に至るまで「無駄金」と言われても
仕方のない膨大な資金を突っ込んで球団を守ってくれました。
「ロッテが金を出さないから…」
とんでもない。これまでに球団に「赤字」として費やしてきた
金額は、どのプロ野球チームよりロッテが多額なんじゃないかな。
ロッテは球団にお金を使ってるよ。
千葉の25年だかのファンが目先で知っているよりよっぽどね。

小学5年生くらいの時に、ロッテオリオンズの野球帽を
買うことになり、以来37年くらいファンやってますが…
金がなくたって楽しく幸せな球団、そんな立ち位置で、
今後も千葉ロッテマリーンズをロッテに守ってほしいと思います。

実は西武の胴上げを見てビールかけも覗いてきました。

2019-10-06 18:18:54 | プロ野球
えーこれまでのあらすじとしては、大病のため9月いっぱい
病欠している私ときたら、9月23日(月・祝)、
病身の体力をすべて使い果たしてロッテ福浦の引退試合を
マリンスタジアムで見て現地泊したわけですが。

24日火曜日は、千葉ロッテマリーンズ今シーズン最終戦。
実は、この分のチケットも持っていました。
現地ホテルの宿泊ももう1泊分確保してありました。
「体力的に無理なら福浦の引退試合だけで帰ろう」と思って
いたし、実際にかなりの疲労ではあったのですが…
(血液不足や自律神経失調からくる病的な脱力感)

幸い、23日はデーゲーム、24日はナイトゲーム。
「日中に体力を回復すれば最終戦も行ける!」ということで
2戦、参加することに決めました!
こういう気力の出し方をするあたりは、体力が尽きてもなお、
気持ちはエクストリームな私なのでした。

朝起きて朝食ブッフェに行くも、これまでの3分の1も
食べられず、心で果てしなく悔し涙を流しました。
朝食後は自律神経失調でのぼせたり胃が止まったりして
ベッドで呻いていました。
しかし「体を動かさないと体内の循環が不十分」と思い、
駅前のマリーンズショップ&ポケモンGOの狩りに
出かけていきました。
が、ついついポケGOに熱中して1時間歩き回り…
ついでに西武の選手たちがマリンに出発するバスを
見かけてちょびっと出待ちをしてしまったりして…
健康な時は1時間なんてなんてことない散歩でしたが
今の私にはこれは無謀。ホテルに戻ってまたぐったり
横になる羽目に。その間、ダンナがコインランドリーに
汗だくのTシャツを洗いに出かけて行きました。…

戻ってきたダンナいわくコインランドリーが女性限定に
なったうえ営業時間が大幅に短縮されていたと。
コインランドリーまでは自転車じゃないとしんどい距離。
私は当分自転車使用禁止。詰んだか…
いや、そんなことに負ける私ではない。
「営業開始時間になったら、私行ってくるよ」
ダンナは止めたが、洗濯ができないと今日のTシャツが
足りなくなることは明らかなので、結局折れた。
延々歩いて、コインランドリーに行く私…
しかも、回した後、2時間したら取りに行くのも私が
やるしかない。
うーん、日中に体力を回復して野球に行くはずが…

夕刻、ダンナは自転車で、私はバスでマリン入り。
私のカバンの中にはコンビニおにぎりが1こ。
突如空腹感で気持ち悪くなった時用の緊急アイテムだ。
球場入りしてまっすぐに向かったのは福浦引退グッズの
販売テント。前日の引退試合でグッズを余裕でスルー
したのは、最終戦で買いに来られるだろうからと
思っていたからです。最終戦、来る気満々やん。
元々チェックしてあったクッキーとバウムクーヘンを買い、
球場の中へ。

だが…平日とはいえそこはロッテの最終戦、そして
相手の西武がマジック2で「今日にも優勝」という状態のため、
場内は前日にもましてごった返している。
売店の行列ハンパない。前日、うどんを買いに並んで
脂汗を流した記憶がよみがえり、腰が引けてくる。
正直、胃があまり食べ物を受け付けないので、必死に
買っても大半残すことになる。カバンの中の1この
おにぎりと、あとは飲み物とかで十分な気がしてくる。

試合開始。試合の内容は語ることすらバカバカしい
クソ試合だった。しかも他球場で楽天が勝ったことで
ロッテの4位が確定し、西武のマジックが1になった。
私の席は3塁側なので、周囲の西武ファンが沸き立つ。
ああ、いいさいいさ、今日はベンチに戻ってくる
森くん(西武の正捕手)をかなり近くで見放題さ。
森くんすてき! でもこの日は荷物を減らすため、
ついつい買ってしまった森友哉タオルを持参しなかった。
なお、食べ物がおにぎりしかなかったことで胃がものすごく
不調になったりして何度も「無理かも」という体調になり
ふらふらになったことも付記しておきたい…

試合終了。目の前から飛び出してゆく西武ナインの姿に、
西武ライオンズ、パ・リーグ優勝おめでとうございます、
というアナウンスが重なる。
まあいいや、好きな選手のいるチームが優勝してくれて
よかったさ。森くん、正捕手として優勝できてよかったな。
辻が胴上げされるのを遠い目で見つめる。

これで私、球場で生で胴上げを見るの3回目。
最初は、母のために桑田真澄引退登板目当てで東京ドームの
SS席を買ったものの相手の中日がマジック1で登板ならず、
たまたま目にすることになった落合の胴上げ。
次は2015年、ヤクルトの優勝を見届けるために血道を
あげてチケットを取り、サヨナラ勝ちで見事決まって
歓喜の中で見た真中の胴上げ。(ビールかけも現地で見た!)
そして今回、初めて「好きなチームが負けて眼前で胴上げを
許す」という屈辱で目にする胴上げとなりました。

優勝監督インタビューは相当我々の目の前で、「なんか
悪いな、辻」という感じでした。
そして西武ナインがファンに挨拶に行き、引っ込んで、
そこからやっとロッテの最終戦セレモニー。
昨年の井口監督の挨拶は「俺は悪くない」という不満げな
気配を感じて不満でしたが、今年はそういう印象はなくて
よかったと思いました。井口来年は頑張れよ!

球場を出たら、なんともう外の目立たないビジターグッズ
テントで西武優勝記念グッズが発売されていて長蛇の列。
おお、楽しそうだな西武ファンたちよ。よかったな。

私は徒歩で、ダンナは自転車でホテルに戻りました。
優勝の盛り上がりと最終戦セレモニーで遅くなり、
たどり着いたのは23時。16時~23時の間、屋外で
活動したうえに汗だくで戻ってきて、体が異常に冷える。
ホテルの浴槽にお湯を張り、入浴して体温を維持。
自律神経失調の影響で、下がった体温をあげる能力が
ひどく下がっていて、お湯で温めるしかなかった…が。
今度は温めたせいで体温を下げるのが上手くいかない。
暑くて暑くて脂汗が出てくる。七転八倒…

そこに外から「おおー!」「ワー!」など、何かを
祝うような集団の声が聞こえてくる。
こ…これは、まさか…ビールかけでは!?!?
がばっと起き上がり、ホテルの窓の外にかぶりつく。
あの紅白の横断幕…日中からあったけど、そういうことか!
近隣のホテルに見えていた紅白の幕は、なんと、
この日に優勝が決まった時のための西武の祝勝会場の
準備だったのでした!!!

真剣に様子を探ると、挨拶と拍手、挨拶と拍手、という
繰り返しの後でとうとう大歓声とともにビールかけが
始まった!!! かなり離れているのに、かなり声が
聞こえた。(話は聞き取れないが、声はかなり届く)
隙間からちょっとだけだけど、選手の脚とかビールの
しぶきとかが見える。
それまで脂汗を流して相当具合が悪かったのに、
とにかくビールかけの様子を覗くのにめいっぱいで
そっちに集中できるように体が体調を整えてくれた。
自律神経が上手く働かない状態でも、人は、
「これを必死でやらなくちゃ」という強い目的があると
ある程度そこに合わせてはくれるんだなというのを
体感した。
もちろんそれで全快したわけじゃないけれど、
西武のビールかけを発見したことでだいぶ回復できた。
「森くん、今ごろ楽しくやってるんだろうなあ」と、
微笑ましい気分でビールかけを垣間見ていた…

正直、2日間で相当無理をしたけれど、現在の自分なりの
めいっぱいのエクストリームを成し遂げられて満足でした。
海浜幕張からの長い長い帰り道もけっこうつらかった。
それでも2試合、予定通りに見られたのは本当にうれしかった…

福浦引退試合への挑戦

2019-09-27 10:38:17 | プロ野球
体力がもともとの何割引しかなく、さらに自律神経失調で不調がランダムに
訪れる日々ですが、9月23日(月・祝)のマリンスタジアムへ、
ロッテ福浦を見送りに行ってきました。
先日「神宮まで頑張って行って、行列に並んでグッズをもらう」という
イチかバチかの挑戦をしてみたのも、「このくらいできなければ、
福浦の引退試合に行くなんて無理」と思っていたのです。

試合開始は14時。我が家からマリンスタジアムまで2時間弱。
開場は12時、早く行くのも遅く行くのも不安だけど、10時半に
家を出ました。12時半に球場に着いて、引退記念グッズ売り場や
福浦パネル等には目もくれずに入場。(とんでもない人だかりで、
今の私にはそこに割ける体力がまったくない)
ダンナは現地泊の荷物をホテルに預けに行くなど別のミッションが
あるので「席で合流」となっていて、別行動だった。

席に荷物を置いて、ファンクラブの来場ポイントをつけに行ったら、
いつもはすいている三塁側カスタマーセンターが大行列!
「来場ポイントの最後尾は、階段の上となっております」
まじか…(愕然、脱力)

延々と並んで、やっと来場ポイントをつけると、次は食料調達。
今の私は胃がナーバスですぐに気持ち悪くなってしまうので、
球場で食べて大丈夫そうなものはうどんくらい。すぐ横の店で
うどんを買うことにしたけど、これまた長蛇の列に並ぶしかない。
そして…麺類はゆでる時間があるので、列が進まない…。
脂汗が出てきて、体をおかしなだるさが襲うが、油ものを食べて
気持ち悪くなるのも怖いのでとにかくうどんを買うしかない。
脂汗をだらだら流しつつ、30分並んであおさすだちうどんを買った。

胃がからっぽになると気持ち悪くなる今の私。
ふらふらで気持ち悪いまま席に戻り、恐る恐るうどんを食べてみる。
「ああ、生き返る~」…よかった。食べてもっと気持ち悪くなったら
どうしようかと思った。
今は、食べても食べなくても気持ち悪くなることがあるので
けっこうストレス。空腹だけで気持ち悪くなるなんて…

それにしてもすさまじい風。18~19メートルとか…
座ってるだけで風に押され、抵抗して体力を使う。
福浦の息子のファーストピッチセレモニーを経て試合開始。
1回裏に3点が入り、ホッとする。
2回裏、3回裏にも1点ずつを追加して、明るい引退試合になる。
実は4回裏くらいに一旦体力が尽きて「ダメかも」と思った。
半分しか食べられなかったうどんが消化されてまた空腹になり、
風にびゅうびゅう吹きつけられて体力が失われた模様。
糖分を含む飲み物でなんとか回復して試合終了まで持たす。

この試合、日ハムのマリン最終戦でもあったんだけど、
同じく引退を表明しているハムの田中賢介選手もスタメンで、
賢介が打席に立つたびに球場じゅうから拍手が起こるのも
野球って、スポーツっていいなあと思わされた。

福浦には4打席、ヒットが出なかった。
いい当たりはあったけど、やっぱりもう引退するんだなと、
思い知らされるような寂しさがあった。
6対1でリードして9回表を迎え、福浦が1塁の守備に就く。
最初の打者は三振。次の打者はヒット。次の打者は三振。
おいおい、三振ばっかで、福浦の守備機会が全然ないじゃん!
そこで1球、益田が1塁に牽制球を投げた。
「よかった、福浦が守備できた」と球場じゅうが喜びに
ほころぶ。
そして…1、2塁間にヒット性の当たりが飛んだ!
2アウトとはいえ、5点差あるとはいえ、ランナーが2人に
なるのは嫌な、…!?
その瞬間、福浦が横に跳んだ! 捕った!!

まさかの、福浦の素晴らしいファインプレーで試合終了。
なんという幕切れ。
球場を覆う感動の渦。「ふくうらーーー!!」と私も叫ぶ。
去年は福浦の2000本安打もこのマリンで見届けて、
今年は福浦の引退試合をこうして見届ける。
ありがたいことだ。うれしいことだ。
病状によっては、治療状況によっては来られなかった。
最悪の場合はこの世にいなかったかもしれない私が、
予定通りに球場に来て福浦を見送っていることを
本当にありがたいと思った。

まずは今年マリン最終戦の日ハム選手・監督・コーチらが
レフトスタンドへの挨拶。そのあと、日ハム応援団が
田中賢介の応援歌を演奏しはじめたので、私も、そして
球場じゅうのロッテファンも一緒になって賢介の応援歌を
合唱して「かっとばせー賢介ー!」と叫ぶ。

やがて夕焼けが球場の空を覆い、福浦の引退セレモニーが
厳かに始まった。まずはビジョンにかつての名場面が流れる。
2005年のプレーオフ、里崎のツーベースで福浦が
激走ホームインした場面はテレビで見ていた。
2010年のCS1st、西武ドームで延長11回に
福浦が勝ち越しホームランを打った時は、外野席の外側、
立見席の位置から見ていた。「ポールのそばでこれだけの
高さがある、ああ、ホームランだなあ」と思って上空を
見上げていた。まるでスローモーションのようだった。
2018年、福浦の2000本安打を見るために、一人で
陣取ったバックネット裏上空の席。今日はもう無理かと
思われた第4打席、バットに当たり美しく伸びていく打球、
沸き立つ客席、外野に弾んだ瞬間の歓喜、二塁へ向かった
福浦を心配してハラハラした気持ち(笑)。
また一つ、思い出を分かち合った選手が去っていく。

井口があの時、監督になってくれたおかげで、福浦が
2000本安打を達成できた。
そして、そのお陰でこの日に4打席も立てて、1塁守備で
好捕を決めて、勝利して、こんなに素晴らしい引退試合を
することができた。
あんな状態のチームの監督を、言ってみれば火中の栗を
拾うような形で選手たちを引き受けてくれた井口に、
心から感謝したい。

花束贈呈で、初芝とサブローが来たのはうれしかった!
球団にとっても大事な人として登場してくれたのだと思いたい。
いつかまた、ロッテのユニフォームを着た彼らに再会したい。
初芝よりサブローの方が歓声が大きかったのは、ごめんね、
2010年にまたファンが増えた分だと思ってね初芝。
てかこの場面で福浦と自撮りするサブローに笑った。

福浦は、場内一周の挨拶に三塁側から回ってきた。
我々夫婦は三塁側の席のかなり前のほうだったので、
しっかり福浦の顔を見て目を合わせて手を振ることができた。
背中を見送り、外野のロッテファンのエリアにさしかかると、
紙吹雪が舞い始める。風速はまだ15メートル近くあって、
里崎の引退の時の舞い散る紙吹雪ではなく、舞台装置のように
舞い上がり、美しい渦を巻く紙吹雪となった。
その美しい紙吹雪の中を進んでいく福浦を見送りながら、
思っていたのは「片づけ、大変だあ」だった。
里崎の引退試合はライトスタンドにいた我々。セレモニー後、
外野席の者は紙吹雪の清掃までがミッションだった。
今回の外野席組は、あんなに舞い上がって広がった紙吹雪、
片づけ大丈夫だったかなあ。いつまでも空から降りてこない
紙吹雪もあったし。

場内一周の後、福浦の胴上げ。
9回宙に舞った福浦を囲んで選手たちが記念撮影して、
セレモニーは終わった。
もはや、感動していて体調がどうとかは全然なかった。

が…それは球場を出るまで。宿泊先のホテルまでもそれなりに
歩くので、体力がほとんど尽きていてつらかった。
それでも、この日、福浦を球場で見送ることができて、
本当によかった。福浦、長い間ありがとう、お疲れ様。
でも、これからの千葉ロッテマリーンズもよろしくね!