仏道

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(21-2)HP(理法【031】一切皆苦の真実 続き)

2020-03-23 06:19:20 | 日記
文字数の制限のため、前回の続きをこちらに。

【法華経】
譬喩品 第三 大長者の家
(ここで記されているものが、一切皆苦を述べていると考えます。)


【維摩経】

みなさん。この身は無常であり、カもないし、堅固でもない。速やかに朽ちるものであって、たよりにすることができない。苦しみであり、悩みであり、もろもろの病の集まる所である。
みなさん。このような身は、明智の者がたのみとしないものである。
この身は聚沫(しぶき)のごとくであり、とらえることができない。
この身は泡のごとくであり、久しく存立することができない。この身はかげろうのごとくであり、渇きのような妄執から生ずる。この身は芭蕉のごとくであり、中には堅いものは存在しない。この身は幻のごとくであり、顛倒した見解から起る。この身は夢のごとくであり、虚妄の見えたものにほかならぬ。この身は影のごとくであり、業の縁から現ずる。
この身は響(こだま)のごとくであり、もろもろの因縁に属している。
この身は浮雲のごとくであり、須臾(しゅゆ)にして変滅する。この身は電(いなずま)のごとくであり、刹那、刹那にほろびて住(とど)まらない。
 この身には主人がない。地のようなものである。この身には我がない。
火のようなものである。この身には生命がない。風のようなものである。
この身には人格主体がない。水のようなものである。この身は実体ならざるものである。ただ地水火風という四大をもって(身体という)家をつくっただけである。この身は空であり、我と我がものとを離れている。
この身は精神的ならざるものであり、草木瓦礫のごとくである。この身は動かす活動主体がない。ただ風のような生気の力に回転されているのである。この身は不浄であって穣悪が充ち満ちている。この身は虚偽であり、かりに澡浴衣食をもって気づかっても、必ず磨滅に帰してしまう。
この身は災いである。
この身(を構成している四大の一つ一つ)に百一の病悩がある。この身は丘嘘の枯れ井戸のようなものである。老いのために逼(せ)められる。この身には定めがない。かならず死すべきものである。この身は毒蛇のことく怨(あだ)をなす賊のごとく、ひとのいない聚落のようなものである。五つの要素、十二のよりどころ、十八の領域がともにあつまって合成したものである。
 ひとびとよ。これは厭うべきものであるから、仏身をねがうぺきである。そのゆえはいかに、というに、仏身とはすなわち法身である。それは無量の功徳・智慧から生じ、いましあ、おちつき、智慧、解脱、解脱したと知る見解から生じ、慈しみ、悲(あわ)れみ、喜び、たいらかな心から生じ、なさけぶかさ、いましめ、たえしのび、柔和、つとめはげみ、おちつぎ、解脱、三昧、学識、智慧というもろもろの美徳の完成から生じ、方便から生じ、六神通から生じ、三つの明知から生じ、三十七のさとりのよすがから生じ、止・観から生じ、十の力、四つの畏れなきこと、仏にのみある十八の特有の性質から生じ、一切の悪いことがらを断じて一切の善いことがらを集めることから生じ、真実から生じ、精励から生じる。このような無量清浄の法から如来の身を生ずる。
ひとびとよ。仏身を得て一切衆生の病を断じようと欲するならば、無上のさとりに向う心をおこすべきである。」
このように維摩長者は、見舞ってくれた者どものために、かたのごとく法を説いて、幾千と数えられぬほど多くの人々をして皆無上のさとりをもとめる心をおこさせた。





(21)HP(理法【031】一切皆苦の真実)

2020-03-23 06:14:00 | 日記
理法【031】一切皆苦の真実


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初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
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前回のブログで「人々(衆生)」を見ましたが、関係のある【031】一切皆苦の真実を見てみます。

⭕ホームページの引用始まり⭕

世の一切の感受、すなわち人々(=衆生)が六識(眼耳鼻舌身意)によって感受するすべてのことは、つまるところ苦であるということを一切皆苦と言いならわす。 ここで、一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことが、後にそれとまったく同じことを感受しても苦としか認知されないという意味ではない。 一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことがそのままの形で、それそのものがその本当のところは苦に他ならないということである。 実に、錯綜した認知が苦の真実を歪め、人々が苦をそのまま苦であると正しく認識することは出来なくなっている。 その不幸なありさまを知って、もろもろの如来はこの世はすべてが顛倒している(さかさまである)世界であると語るのである。

実のところ、人々にとって苦は苦として認知されることは無く、たとえ正しい認知を生じつつあったとしても結局は苦ではないものを苦であると誤認して認知する心の仕組みが出来上がっている。 そして、この誤認の仕組みこそが名称と形態(nama-rupa)の作用に他ならない。 その結果、人々には迷妄と妄執とがつきまとうことになる。

人々が名称と形態(nama-rupa)とを心に有する限り、一切皆苦の真実を正しく認知しその仕組みを理解することは期待できない。 たとえ、如来が説く「一切皆苦」という言葉を知っていたとしても、その真実を正しく認知し、理解することはできないであろう。 その様は、人が錯覚図形を見て、それが錯覚図形なのであると頭では分かっていたとしても、錯覚を生じて見えるという認識の事実そのものを回避することは出来ないようなものであるからである。 すなわち、今、この文章を読んで一切皆苦の錯綜したありさまについて心から納得した人であっても、一切皆苦の真実を正しく理解することは難しい。 それほど、一切皆苦の真実は、人々の理解するところから隔たっているのである。

しかしながら、ここなる人が聡明であって、一切皆苦の真実を知ろうと熱望し、次のように観じるならば、その観の完成に伴ってついには一切皆苦の真実を知ることができると期待され得る。

 『衆生である限り、この世には楽しんでいる人、喜んでいる人など誰一人としていない』

すなわち、お金持ちのあの人も、身分の高いあの人も、才能豊かなあの人も、経験豊かなあの人も、意地悪なあの人も、狡猾なあの人も、傲慢なあの人も、自由奔放なあの人も、脳天気なあの人も、若い力がみなぎるあの人も、美とセンスにあふれるあの人も、いかにも健康そうなあの人も..、その他のいかなる人であっても、この世には本当に楽しんでいる人、本当に喜んでいる人など誰一人としていないのであると観じ、その真実を見極めることが苦の覚知を促すのである。 そして、人が一切皆苦の真実をまさしく覚知するに至ったとき、かれ(彼女)はすでに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)の近くにあるのである。

⭕ホームページの引用終わり⭕


この内容を一部再度取り出します。(一部表現を私が変えているところがあります。)


○世の一切の感受、すなわち人々(=衆生)が六識(眼耳鼻舌身意)によって感受するすべてのことは、つまるところ苦であるということを一切皆苦と言う。

○一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことが、時間が経過した後になって、それとまったく同じことを感受したときに、苦としか認知されないという意味ではない。 

○一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことがそれそのままの形で、それそのものが本当のところは苦に他ならないということである。

○錯綜した認知が苦の真実を歪め、人々が苦をそのまま苦であると正しく認識することは出来なくなっている。 

○その不幸なありさまを知って、もろもろの如来はこの世はすべてが顛倒している(さかさまである)世界であると語る。

○人々は苦を苦として認知することはできない。

○苦ではないものを苦であると誤認して認知する心の仕組みが出来上がっている。この誤認の仕組みこそが名称と形態(nama-rupa)の作用である。

○人々が名称と形態(nama-rupa)とを心に有する限り、一切皆苦の真実を正しく認知しその仕組みを理解することは期待できない。 

これらの事実から、
○『衆生である限り、この世には楽しんでいる人、喜んでいる人など誰一人としていない』


前回の(人々(衆生))のブログで再度取り出した内容と、スッタニパータの引用を再掲します。

○この世は、すべてが顛倒した(=さかさまになった)世界であるのだと(知る人には)知られます。 

○この世はすべてが顛倒した世界であるにもかかわらず、人々(=衆生)にとってはそれをその通りには認識できないゆえに、善かれと思って(実は)誤った選択肢を自ら選び取ってしまう。

○すなわち、人々(衆生)は好ましいものだと思って厭うべきものを選び取り、愛すべきものだと思って憎らしいものを選び取り、安楽に至る道だと思って自ら苦の道を選択している。

○ 衆生は、(実は自分ならざるものであると知られる)名称と形態(nama-rupa)に突き動かされた存在であり、その結果、善かれと思って苦に至る道を選択してしまう。


【スッタニパータ】

759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──

760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。  また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。

761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。  (正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。

762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。 他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。  解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。

763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。  善良な人々には開顕される。  あたかも見る人々に光明のあるようなものである。  理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。

764 生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。

765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。  この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。

前回の引用終わり

更に、いくつかピックアップします。

○人々(=衆生)が感受するこの世の一切の感受は、つまるところ苦である。

○この世はすべてが顛倒した世界であるにもかかわらず、人々(=衆生)にとってはそれをその通りには認識できないゆえに、善かれと思って(実は)誤った選択肢を自ら選び取ってしまう。

○ 衆生は、名称と形態(nama-rupa)に突き動かされた存在であり、その結果、善かれと思って苦に至る道を選択してしまう。

○『衆生である限り、この世には楽しんでいる人、喜んでいる人など誰一人としていない』

【スッタニパータ】

有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──それらは、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。 

◯他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。 

◯覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。  善良な人々には開顕される。  あたかも見る人々に光明のあるようなものである。  理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。


太字下線部分ですが、「この世の一切の」、「有ると言われる限りの」という言葉に注目しました。


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祝福されて生まれ、畜舎に守られて大事に育てられ、美味しい飼料をつねに与えられていても、最期は屠られてしまうのが家畜である。 その最期の瞬間が来るまでは、家畜どもはまさか飼い主が自分の肉を狙っているとは思いもしないであろう。