ALWAYS 三丁目の夕日'64 を観てきました。
*画像はgoo映画よりお借りしました
今回は、東京オリンピック当時の東京のお話
わたしは物心ついてた頃の話だったので
街並みや、出来事が 当時の生活をなつかしく思い出させてくれるひとときでした。
東京に住んでいたわけじゃないけれど
白黒TVで、ひょっこりひょうたん島も観てたし
シェ―ッ!!も、やったし(笑)
ちび太のおでんにもあこがれてた。
靴下にサンダルをはいたエプロン姿の母が、買い物かごを持って
野菜は八百屋さん、肉は肉屋さんとそれぞれで買い物してたし
豆腐やさんには、入れ物を持って買いに行ってたしね。
魚屋さんは行商でした。
さおばかりで測って、売っていた記憶が
そうそう、当時借りていた一軒家は五右衛門風呂。
それを沸かすための使う薪をリヤカーを押しながら、家族でもらいに行ったこと
行きは、からのリヤカーの荷台に乗せてもらうのが楽しみだった・・・。
その頃飼っていた鶏
毎朝産む玉子一個を、朝ごはんに4人で分けて食べてたけど
最初にかけると、あまり好きじゃない白身がいっぱいかかるし
あとのほうだと、玉子そのものが少なくなっちゃうから、その駆け引きが大変だった。
お肉はめったに食べなかったし、
たまに食べる貴重なお肉は、カレー粉と小麦粉で作ったカレーの中のひき肉だった。
ポン菓子やさんが来るのが楽しみで
来たとわかると、お米をビニール袋に入れてもらって
走って行ったっけ。
おじさんが機械をくるくる回すと、ポォンと鳴るのがこわくてみんなで耳を塞いでたね。
当時は 1 日 10円のおこづかいをもらうと
近所の駄菓子屋さんに行って
1 円のアメや、5 円のアイスキャンディーをよく買ってた。
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なあんてことが、次から次へと思い出してくる。
決して裕福ではなかったけれど、みんながおんなじ生活をしていたので
うちは貧乏だとは思わずに育った。
母は当時カラカラと音をさせながら 内職で造花を作っていたりしてたから
大変だったと思うのだけれど。
夫は、六ちゃんがお嫁に行くところで、ちょっとうるうるしてたよう
大丈夫だよ、お父さん ♪
まだまだ先の話だと わたしは思うから
でも生活の中のいろんなこと、同じように暮らしていましたね。
私も映画を見てすごく懐かしかったです。
藁につつまれた納豆が美味しかったです~
玄米パンってご存知~?
ゲンマイパーン ほ~やほや~・・・って
歌いながら(?)売りに来るの
あとはリヤカーの焼き芋屋さんかしら
まさに焼きたてホヤホヤのアツアツで食べられたり
むしろ気持ちの面では物に溢れた今よりも
ずっと贅沢な時代だったと
言えるかもしれませんね
たまぁに
クラスに1人くらい
お嬢様みたいな子がいてさ
きれいな洋服とか着て
髪の毛もかわいいリボンとかしてきていた
オリンピックは
見に行く人は学校をお休みしてもOKって言われた
でも行った子は1人くらいしかいなかったような気がするなぁ
あの映画を見ると
懐かしいのはもちろんなんだけど
父とか母とかと暮らした
いろんなことが思い出されて
あったかいキモチになるんだよね
しぇーー!!!!!
東京オリンピック。。。懐かしいなぁ~~~♪
れんまるさんのほうがお姉さん?
子役の子がみんな大きくなっちゃって
まるで親戚の子を見るおばちゃんの気持ちでした(笑)
お客さんの平均年齢もかなり高かったけど
あちこちでくすくす笑う声や、鼻をすする音が聞こえてきて
こんな映画はやっぱりいいよね~と思ってしまいます♪
ネギを入れられるのがいやだったことまで、
思い出しました(笑)
売りに来る玄米パンは、残念ながら知らないけど
母がよく作ってくれた(今も時々作ってます)
サツマイモなんかを入れた蒸しパンは覚えてます♪
帰ってくる父をみんなで迎えに行ったり
kieさんのいうように心は豊かな時代だったのかもしれませんね
フリフリのワンピースとか着てたのをうらやましく思っていた自分がいます♪
そのこのおうちで、タケダだったかビタミンCのタブレットをもらって
それがとってもおいしくて感激したのを覚えてます
この写真を探してたら、昔の家や若い父母の姿が出てきて
もう少し親に優しくしてあげなくっちゃなぁという気持ちになりました
東京オリンピックの時代は、九州にいたので
TVでしか見なかったせいか
あの盛りあがった記憶がないのです・・・(涙)
大阪万博も、三波春夫の歌しか知らないし・・・
あの頃は、東京ははるか遠くのあこがれの花の都でした・・・
若くないですよぉ~~~(^^;
今年26才と21才に7才に成る孫が居まぁ~~~す(;^ω^)
還暦も去年済みましたァ~~~(-_-;)ハァ~
MIHOさんは、わたしよりちょっとお姉さんだったんですね♪
目標にさせてください