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神父の放言: キリスト者のバランス 

2022-09-11 01:47:11 | 日記
キリスト者のバランス   2012/12/22


女性が水がめを頭に載せて歩いている。キリスト者の姿がそんなイメージと重なる。語弊があるかもしれないが、重たいものをもって歩いている。

 私たちは社会人として、日本人として生きてゆくために社会上のルールがある。礼儀や暗黙の常識があって、よき市民、よき社会人として周りとうまく生きてゆくだけでもひと苦労だ。

それに加え、信仰を持つ人は、時にはあたかもそれらの常識と180度違っているように見えるキリスト教の価値観を担って生きている。

 「悲しむ人は幸い、貧しい人は幸い、娼婦や徴税人のほうが先に天の国に入る、敵を愛せよ・・・」。

バランスを取るのが時には難しい。そして良心が鋭敏になってより苦しむかもしれない。

ある時には信仰や良心の消えかかった環境で一生懸命信仰に生きようとするあまり、意固地になってしまう。周りと距離をとってしまう。

 信仰と生活を両立させることが難しかったり、信仰と職場は両立しないものだとあきらめたり・・・。

 不自然になったり、かえって不親切な人間になったり・・・。

あるいはあきらめてしまい、俗人の価値観が福音の価値観を覆ってしまい、あたかもキリスト者でないかのごとく生きる場合もある。

ある司祭が「統合」という言葉を教えてくれた。キリスト者として自己を統合していかなければならない。社会のさまざまな価値観の中で生きていく私、職業人・家庭人・学生などそれぞれの身分を担って生きていく自分、日本人としての私、そしてキリスト者として生きていく自分、それらがうまく統合されなければならないとその司祭は言っていた。

これはひとつの課題だと思う。

 社会自体の価値観が多様化している。また心が病んでも不思議ではない難しい世の中だ。それに加え、同じカトリック信仰を共有していても温度差がかなり違う。そんな中で私を美しく統合させていかなければならない。難しい課題だと思う。

 重たい水がめを頭に乗せて歩く女性のように、バランスをうまくとって歩かなくては。時に不自然な信者がいても責めることなどできない。その人なりに一生懸命がんばっている。教会の指導や教導も十分ではないから、いろいろな疑問の中で信者は模索している。

 信仰とは本来、私たちが持っている人間性を美しく成長させ、完成させるものだと思う。

 聖トマス・アクィナスの神学の中で有名なこんな言葉がある。「恩恵は自然を破壊せず、かえってこれを完成する」。

スコラ神学の中で「自然」というと広く人間性も入ってくる。この言葉を今のコンテキストの中で分かりやすく説明すると、神からの恩恵は人間性を破壊することなく完成する、そして信仰も人間性を破壊するのではなく、むしろ完成する。人間性を無視するのではない。

 信仰を得ることによって人は余分なものを身に着けたのではなく、あるいは不自然な人間になるのでもなく、むしろ信仰によって人間本来の美しさや善さが成長し完成するということ。だから本当は、重たい水がめを持っている不安定なイメージではない。太陽である神が花を成長させ、咲かせているイメージの方がよいかもしれない。

しかし実際は、私たちは不器用に水瓶を持ち上げている場合が少なくない。これは挑戦だ。

もしよき市民、よき社会人、そしてよき日本人として人の信用を得、その上でよきキリスト者であることができるならば、その人は光のように世を照らすことができるに違いない。その人を通して多くの人がキリストに導かれるだろう。キリストの教えは確かに世を照らすものだ。

 不器用にしか担ぐことができない人がいても、その人が周りを照らしていることだってままある。

 現代、キリスト者として自己を統合していくことは私たちの課題だ。そしてこの課題はけっこう難しい。できていない人がいても責めることはできない。しかし、統合されて生きていけるなら、世を照らす者となれるだろう。

                (サイト:「神父の放言」より転載)

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