『教理対話』第14章 煉獄(れんごく)
カトリックの司祭と求道中の青年との間にかわされる対話の形で要理の
説明が進行します。
ノル⼤司教/ファロン師共著
(1956年[昭和31 年]中央出版社刊)
14 章 煉獄(れんごく)
ー教会の教えの内で⼀番わかりよいものー
⻘年
神⽗さん、煉獄につき教会がどう説いているのか私は全然知りませんが、
ノル⼤司教/ファロン師共著
(1956年[昭和31 年]中央出版社刊)
14 章 煉獄(れんごく)
ー教会の教えの内で⼀番わかりよいものー
⻘年
神⽗さん、煉獄につき教会がどう説いているのか私は全然知りませんが、
煉獄という観念は、⼈々から、ひどい⾮難をうけていますね。
神⽗
それは私達の教えが正しく理解されていないからです。煉獄は、⾮常に
神⽗
それは私達の教えが正しく理解されていないからです。煉獄は、⾮常に
理屈にも合い、慰め多い教えです。そして、これは神の正義によって
要求されています。天国には最善の⼈だけが死後直ぐに⾏くことができ、
また最悪の⼈は地獄におちる、という点は、すでにあなたもお認めでしよう。
⻘年
認めます。
神⽗
それでは、最善の⼈の部類にも最悪の⼈の部類にも⼊らない⼤多数の⼈は
⻘年
認めます。
神⽗
それでは、最善の⼈の部類にも最悪の⼈の部類にも⼊らない⼤多数の⼈は
どうなります︖ この⼈達の霊魂は死後どこに⾏くのでしょう︖
⻘年
そんなことは今までに考えたこともありません。どこかに⾏くことは
⻘年
そんなことは今までに考えたこともありません。どこかに⾏くことは
たしかです。
神⽗
そうですよ、煉獄へ⾏くのです。
⻘年
そんなら、私にも、わかります。⼤多数の⼈は天国に直接⾏ける程、
神⽗
そうですよ、煉獄へ⾏くのです。
⻘年
そんなら、私にも、わかります。⼤多数の⼈は天国に直接⾏ける程、
罪がないとは云えませんし、⼜、地獄で永久に罰せられるほど悪くは
ないのですから。
神⽗
あなたの考え通りです。これは⼈間の審判と神の審判のやり⽅を
神⽗
あなたの考え通りです。これは⼈間の審判と神の審判のやり⽅を
⽐較しますと、もっとよくわかります。⼈間の審判は神の審判を
模範にしなければ、その名を以て呼ばれる価値さえありません。
⼈間の正義は⼤罪⼈、⼩罪⼈の区別を認め、それに従って罰を加えます。
⼈間の審判には、⼀⽇、⼗⽇、⼀カ⽉という⾵に犯⼈に罰を加える
刑務所と、無期刑を⼊れる刑務所があります。この町で⼆⼈の⼈が、
⼀⼈は殺⼈、もう⼀⼈は規定以上の速⼒で⾃動⾞を⾛らせたという
ことで逮捕され、⼆⼈とも取調べを受け、無期で刑務所に⾏く宣告を
受けたらどうですか︖
⻘年
それはそういう不公平をしたら誰も⾮難するに決まっています。
神⽗
煉獄を否定してご覧なさい。そうすれば、神が不従順な⼈間を、
⻘年
それはそういう不公平をしたら誰も⾮難するに決まっています。
神⽗
煉獄を否定してご覧なさい。そうすれば、神が不従順な⼈間を、
今述べた例のように不公平に処理をしたからとて神を⾮難する
ことはできませんよ。
⻘年
では、煉獄は⼩罪を償わずに死んだ⼈達が、⼀時的に罰を受ける
⻘年
では、煉獄は⼩罪を償わずに死んだ⼈達が、⼀時的に罰を受ける
ところですか︖
神⽗
そうです。ですが、煉獄に⾏く⼈も恩恵の状態で死ぬ者である、
神⽗
そうです。ですが、煉獄に⾏く⼈も恩恵の状態で死ぬ者である、
ということに注意して下さい。この⼈達は神の友ですが、死ぬ前に、
⼩罪(容易に赦される罪)を犯したままになっているか、でなければ、
罪は赦されたものの、まだその罪の償いを⼗分に果してなかったのです。
⻘年
少しでも理性のある⼈なら、こういう場所の存在する必然性はわかる
⻘年
少しでも理性のある⼈なら、こういう場所の存在する必然性はわかる
はずです。
神⽗
また、それは⼼の⽬から偏⾒の霧を取り去りさえすればわかります。
神⽗
また、それは⼼の⽬から偏⾒の霧を取り去りさえすればわかります。
キリスト信者はどれほど猛烈に煉獄を⼝で攻撃しましても、⼼の中では
煉獄の存在を信じています。このことは、災いにあった友⼈や親族の
ために、ほとんど無意識のうちにお祈りをあげることから⾒ても
明らかです。祈りのないキリスト信者の葬式はほとんどありません。
これは⾏いが⾔葉以上にものをいう⼀つの実例です----- もし煉獄が
ないなら、お祈りしたところで何の役にたちますか︖ 故⼈の霊魂が
天国にいるのでしたら、祈りは全然いりません。もし地獄に
おとされているのでしたら、祈りもこれを救うことはできません。
⻘年
では、煉獄のことは聖書にのっているのですか︖
神⽗
そういう場所のことは述べていますが、「煉獄」という名では呼んで
⻘年
では、煉獄のことは聖書にのっているのですか︖
神⽗
そういう場所のことは述べていますが、「煉獄」という名では呼んで
いません。「煉獄」という名が聖書に出ていないからとて反対するのは、
反対論の中では⼀番薄弱です。霊感の書の中に「聖書」という名が
⾒当らないから、聖書という本はないというのと同じ筆法です。
そういう筆法なら、三位⼀体、御託⾝(受肉)などは、聖書の中に
そういう⾔葉が⾒当らないからという理由で否定されましょう。
名前は場所を作りません。まず場所が存在しなければなりません。
それからこれに名が与えられます。⼀時的な罰を加えるこの
場所はどんな名前で呼んでもかまいません。カトリックはこれを
場所はどんな名前で呼んでもかまいません。カトリックはこれを
煉獄と呼んでいます。これは浄める場所という意味です。神の聖なる
御前に⾏く妨げになっている罪の⼩さな汚れを、霊魂はそこで
浄められるからです。
⻘年
その場所のことが聖書に出ているとおっしゃいましたが、どこに
⻘年
その場所のことが聖書に出ているとおっしゃいましたが、どこに
出ていますか︖
神⽗
聖マタイは五章⼆六節で来世の監獄のことを述べ
神⽗
聖マタイは五章⼆六節で来世の監獄のことを述べ
「最後の⼀円をかえすまで」霊魂はそこから逃れられないと
云っています。ところで、最後の⼀円は、天国では返す必要は
ありません。⼜地獄から絶対に逃れられないのです。ですから、
話は当然第三の場所に持って⾏かなければなりません。同じ
福⾳史家聖マタイは第⼗⼆章の第三⼆節の中で、聖霊に対する罪
について、この罪は「この世、後の世、共に赦されない」
といっています。
これは⾔外(げんがい)に「後の世で赦される罪もある」という
これは⾔外(げんがい)に「後の世で赦される罪もある」という
意味を含んでいます。ですが、これは絶対に放免のない地獄のこと
でもありません。また、天国でもありません。天国は「清くない者
ははこれに⼊れない」(黙⽰録⼆⼀ノ⼆七)ですから。⼀時的に
死後の罰を受ける場所のことは、神は⼈の働きに従って報い、
あるいは罰し給うということを述べている多くの聖句の中に、
はっきりいっています。
かりに、煉獄はないとしてみましょう。その時、私やあなたは
かりに、煉獄はないとしてみましょう。その時、私やあなたは
どうなりますか︖ 聖書は⼀⽅では、汚れた者は天国に⼊ること
ができない、また⼀⽅では、無益なる⾔葉(⼩さな罪)も霊魂を
汚すといっています(マタイ⼀⼆ノ三六)。⼀時的に罰を加える
場所がないと、⼩罪を犯した⼈まで地獄に送られることとなり、
誰が⼀体救われますか︖
⻘年
そうなってしまいますね。ですが、神⽗様、死者のために世間では
⻘年
そうなってしまいますね。ですが、神⽗様、死者のために世間では
祈るならわしがあると先程お話しになりましたが、祈祷によつて
煉獄の霊魂を助けることができる、というのですか︖
神⽗
そうです。祈祷、善業、贖宥によって、殊に、神のお定めになった、
神⽗
そうです。祈祷、善業、贖宥によって、殊に、神のお定めになった、
御ミサとよばれる教会の犠牲によりまして、助けることができます。
免償と御ミサのことは後でお話します。
⻘年
たしかに慰めになる教えですね----- 私達が死者を助けることができるとは。
神⽗
そう、その通りです。この教えを聞いただけで多くの⼈がカトリックの
⻘年
たしかに慰めになる教えですね----- 私達が死者を助けることができるとは。
神⽗
そう、その通りです。この教えを聞いただけで多くの⼈がカトリックの
信仰に回⼼しました。丁度、私があなたに代って⼋百屋や⾁屋のあなた
の借りを⽀払うことができますように、私は、煉獄の霊魂が神に負うて
いる償いの最後の⼀円までお返しする為に、私の善業をこれに捧げる
ことができます。キリストは、おん⾃ら、主を信ずる者の中のいと
⼩さきものになすことは、これ主のためになすことである、と
⾔われましたが、ある意味では、煉獄の霊魂はキリストを信ずる者の
中のいと⼩さきものであります。それは、煉獄の霊魂は祈りを以て
他の者を助けることはできても、⾃分を救うことができないからです。
御存じのように、死ぬと同時に、痛悔(つうかい:犯した罪をくやむこと)
をなす時期も御慈悲を受ける時期も終ります。死後は、神は正義だけを
⾏使されます。こういうわけで、最後の⼀円まで⽀払わなければ
なりません。
⻘年
祈りは死者を助けるということは、聖書にのっていますか︖
神⽗
のっています。旧約聖書マカべ後書の第⼀⼆章第四六節に、煉獄が
⻘年
祈りは死者を助けるということは、聖書にのっていますか︖
神⽗
のっています。旧約聖書マカべ後書の第⼀⼆章第四六節に、煉獄が
存在することの聖書的証明と、ユダヤ⼈が戦場で死んだ同信者のために、
いけにえを捧げたということの証拠があります。------ これは、
「その罪のゆるされんとて、死者のために祈るは、
聖にして益ある思念なり」であるからです。天国や地獄にいる
死者のためなら祈って何の役に⽴ちますか︖ 彼等が祈ったと
いうことは、まだ死者の救われる場所(私達はこれを煉獄とよんでいます)
があるというととと、⽣ける者の祈りが彼等を救うことができるという
ことを信じていた、ということを現わしています。この聖句は、明かに
カトリック側の⾏いの利益になりますので、これを含んでいる篇を全部、
プロテスタント側の聖書から取り除かれました。しかし、そうしても
彼等の⽴場は有利にはなりません。この本は、たとえ神感によるもの
でないとしても、神の選⺠の中に、どんな習慣があったかを語っています。
今⽇でもユダヤ⼈は死者の為に祈ります。
⻘年
しかし、どういうわけでカトリックでない⼈達は、こういう慰めに満ちた
⻘年
しかし、どういうわけでカトリックでない⼈達は、こういう慰めに満ちた
教えを排斥しようとするのですか︖
神⽗
そうですね。その⼈達は、主を信ずる罪⼈にキリストの御功徳が
神⽗
そうですね。その⼈達は、主を信ずる罪⼈にキリストの御功徳が
あてがわれるとその⼈の罪は全部除かれる、だから、信ずる者は
すぐ天国に⾏く、ということを信じたいのです。⽣命に⼊る為には、
⼈は掟を守り、教会に聴き、神なる御⽗のみ旨(みむね:お考え)
を⾏わねばならないと、キリストはいっておられますから、
これは反聖書的です。
⻘年
煉獄に⾏く⼈は、どれ位い⻑い間そこにおらなければなりませんか︖
神⽗
私達にはわかりません。その霊魂の状態によって⼀切はきまります。
⻘年
煉獄に⾏く⼈は、どれ位い⻑い間そこにおらなければなりませんか︖
神⽗
私達にはわかりません。その霊魂の状態によって⼀切はきまります。
多分あなたは、カトリック外の⼈が、「司祭は知っているふりをして、
なにがしの⾦を受取れば霊魂を煉獄から救い出すために祈って
あげようと云っている」と、しゃべっているのをお聞きになった
ことがあるでしょう︖
⻘年
ええ、聞いたことがあります。
神⽗
煉獄には誰がいるのかいないのか、⼜どれ位い⻑い間そこにいるのか、
⻘年
ええ、聞いたことがあります。
神⽗
煉獄には誰がいるのかいないのか、⼜どれ位い⻑い間そこにいるのか、
司祭にはわかりません。限りなく正義にまします神は、各⼈の霊魂に
相当した罰を宣告されなければなりません。罰のきぴしさと⻑さは
どんなものかということは、神だけが知っておられます。ですが、
私達は祈りによって煉獄の霊魂を助けて、早く天国に⼊らせる
ことができる、ということを固く信じています。
(以上)
(以上)
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【死者の月の動画】➡https://www.youtube.com/watch?v=RlvbFUXsVC4&feature=share
長崎大司教区の家庭委員会では、毎月さまざまなコンテンツの動画をアップしています。今月は「死者の月」がイラストを使ってとても分かりやすく説明されています。
長崎大司教区の家庭委員会では、毎月さまざまなコンテンツの動画をアップしています。今月は「死者の月」がイラストを使ってとても分かりやすく説明されています。
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カトリックの修道会のなかには、煉獄にいて清めを受けながら苦しんでいる霊魂のために
特別に創立された修道会があります。それは煉獄援助修道会と呼ばれています。
その創立者(エウジェニ・スメット)の解説と、援助修道会で働いているシスターの
寄稿文がありますのでご紹介いたします。
特別に創立された修道会があります。それは煉獄援助修道会と呼ばれています。
その創立者(エウジェニ・スメット)の解説と、援助修道会で働いているシスターの
寄稿文がありますのでご紹介いたします。
福者エウジェニ・スメット(み摂理のマリア)修道女(1825年-1871年)
エウジェニは、フランス、リールの信仰深い家庭に生まれた。あるとき祈っていると「清めの教会の魂の救いのために神の道具になるように」との神からの促しを受けた。それ以来エウジェニは修道生活への望みを持ち、祈りと犠牲をもって時がくるのを待った。
〈福者エウジェニ・スメット(み摂理のマリア)修道女〉
そして「練獄の霊魂の会」という信心会を作り、1856年に「練獄援助修道会」(現在の「援助修道会」)を創立した。そして数名の同志とともに聖イグナチオの会則に従い「神の栄光と練獄の霊魂のために祈り、苦しみ、働く」ことを目的とし、パリの貧しい一室から活動をスタートした。病人の看護、キリスト教要理教育、施設などの事業へと会は発展していった。
同会は1935年に来日し、東京、広島、北九州などで、幼稚園、老人ホーム、寮、黙想の家を経営し、司牧、看護、教師、ケースワーカーなど、社会のただ中にあってその使命を果たしている。
〈福者エウジェニ・スメット(み摂理のマリア)修道女〉
そして「練獄の霊魂の会」という信心会を作り、1856年に「練獄援助修道会」(現在の「援助修道会」)を創立した。そして数名の同志とともに聖イグナチオの会則に従い「神の栄光と練獄の霊魂のために祈り、苦しみ、働く」ことを目的とし、パリの貧しい一室から活動をスタートした。病人の看護、キリスト教要理教育、施設などの事業へと会は発展していった。
同会は1935年に来日し、東京、広島、北九州などで、幼稚園、老人ホーム、寮、黙想の家を経営し、司牧、看護、教師、ケースワーカーなど、社会のただ中にあってその使命を果たしている。