【キリスト教徒とは】
キリスト教徒とはどんな人か。
ときどき、何かについて偏狭な人たちと勘違いされている。
キリスト教徒とはどんな人か。
質問を変えると、キリスト教徒が一番大切にしていることは何か。
もっと質問をしぼめると、一番大切な「掟」は何か。
私もすぐにこれに答えられない時期があった。しかし忘れては
ならないことだし、すぐに答えがでるようでなければならない気がする。
それは愛だ。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である
主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。」
神への愛、そして人への愛が最重要の教え、それがキリスト教だ。
キリスト教徒であるとは、愛の人であることを意味するように
ならなければならないということだろう。すばらしいことだ。
いろいろな反省がある。熱心であるがゆえに、愛に反するような
言動もあった。これは私だけではないだろう。熱心であるとは、
何よりも教えを主張することに関してよりも、愛に関してであろう。
教えゆえに意固地な言動をしたり、不自然な人間になったり、
愛徳に反する言動をする人もいる。他者を裁くことにもなりかねない。
これではファリサイ派に逆戻りだ。ファリサイ派だって熱心さに
関しては引けを取らなかったのではないか。しかし熱心さの方向が違った。
キリストは忌み嫌われた。
私たちのいろいろなことばや行いが、この2つの掟にかなっているのか、
その方向に進んでいるのかを、絶えず検証することが私たちを正して
くれると思う。
正しいことを言っている人が必ずしも正しい人ではない。
これならファリサイ派でも良い。キリストによれば、
愛する人が正しい人だ。へりくだる人、子供のような心を
持つ人が正しい人だ。兄弟に対し、心の中で怒ってさえいけないと
厳しいことをおっしゃる。
「律法学者やファリサイ派の人々の正しさ(義)にまさって
いなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」
(マタイ5章)
正しいことを主張したいなら、人一倍、
愛の人にならなければならないと自戒する。
(「神父の放言」より掲載」)
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