【喜びが消えた後半生 ― マザーテレサ(「神父の放言」2012/04/12より)】
2年ほど前だったか、マザーテレサ生誕100周年の行事をやっていたが、
そのときにマザー・テレサの心の闇についてかなり知られることになった。
彼女が何か悪いことをしたということじゃない。彼女の心から光が消えて
しまった、という辛い体験をしたということだ。
これを知って多くの人が驚いた。いつも微笑みを絶やさないマザーなのに、
そして多くの人を救ってきたマザーなのに・・・。
彼女の若い頃は、喜びに満ちていた。キリストへの愛に囚われていた。
だからこそ、修道女となり、宣教師となり、「これら最も小さな者の
ひとりにしたことは、私にしたことなのである」(マタイ25章)という
み言葉を無視できず、路上で死を待つ人の中にキリストを見た。
そこから彼女の活動が始まる。
しかし事業が進む中で、彼女は突如、今まで彼女の心を暖め、導いていた
キリストへの愛の火が消える。これは試練だ。めずらしいことではなく、
おそらく彼女の責任でもない。神のみ摂理だったのだろう。彼女は神から
見捨てられたように感じる。今までの内的な親しさが取り去られた。
信仰宣言も唱えられなくなるほど、疑いに苦しめられる。これは有名な
リジューの聖テレジアのような大聖人も経験したものだ。
信仰することさえ、神の恵みなのだろう。
しかしマザー・テレサは霊的指導者であるイエズス会の司祭の助言に従い、
この暗闇を愛するようにする。暗闇から出ることではなく、暗闇を愛する…。
「父よ、なぜ私を見捨てられたのですか。」という十字架上のキリスト
のみことばを思い出す。キリストも信仰を失ったわけではない。
従容と死を迎える立派な態度ではなく、絶望さえも体験なさる。
これによって絶望する人々に光が与えられるような気がする。
もちろんキリストは絶望なさったのではないが、近いものを
味わわれたと思う。
マザーはこのキリストの苦しみにあずかることになった。
彼女は仮に自分が聖人になるとすれば「闇の聖人」になるだろう、
といった。しかし世の中の暗闇に光を点じて回る「闇の聖人」だ。
深い世界だ。
そして彼女は、この見捨てられた体験を通し、その状態を抱くことに
よって、より十字架上のキリストと一致することになった。この一致は
決して崩されることはないほどに強い、と彼女は語った。彼女は闇を
愛し始めた。
カトリックでは霊性神学というものがある。ロザリオでもそうだが、
「喜び」「苦しみ」「栄光」へと通常続く。祈りの生活の中で、
「荒み」とか「霊的暗夜」と呼ばれる状態はいずれ誰にでも訪れる。
その中で大切な霊的進歩が行われる。そして暗夜から出たとき、
キリストとの一致が壊れないものとなる。
彼女が微笑みの人であったことも、自然にそうではなかったようだ。
むしろ厳しい表情の方が多かったらしい。
日本でマザー・テレサの通訳を務めたノートルダム修道会のシスター
渡辺和子さんは、マザーテレサはカメラがお好きなのだろうかと
考えていたときに、マザーから話しかけられた。「わたしはイエス様と
契約を結びました。私がカメラに向かってニコッとしたときに、
煉獄で苦しむ霊魂をひとり救ってください、と」。カメラに向かって
微笑むことは彼女にとって自然なことではなかったようだ。
喜びが感じられないときにも、
感情を乗り越えて善を行ってゆくこと、
無味乾燥の中にあってもみ心を求めてゆくこと、
これをマザーから学びたい。
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