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心に留めておきたいことを文字に残したいと思い立ち…

もう一度食べたい味

2019-11-23 23:28:00 | グルメ
 人生で最後に食べたいものは何か?と言う問いには、あったかい味噌汁と納豆卵かけご飯と答えているが、先日、子どもの頃に食べたもう一度食べたい美味しいものと問われてたくさん浮かんできて困った。

 例えば、祖母の作ってくれた骨付きもも肉のフライドチキン、カリカリの梅干し、カリカリ梅干しの砂糖まぶし、大根の味噌汁、ウリの粕漬け、さば寿司、あまじょっぱい卵焼き…これらは、父方の。

 母方の祖母は豆を煮るのが上手で、大豆を甘辛く煮たり、軽く炒ってから醤油で煮たり、うずら豆や花豆もふっくらと美味しかった。ほっこり煮た小豆に白砂糖を振ったのやすいとんに仕立たのは、ねだって作ってもらったほど。おかゆも上手だった。甘い炒り卵や菜っ葉の刻んだのを湯がいて塩で揉んだや油で炒めたのが添えられていた。豆やあれはキビかな粟かな、いや、もろこしか、黄色い粒の入ったご飯も美味しかった。ぬか漬けも美味しかったが、大根の醤油漬けや米粒の残る麹で漬けたのも美味しかったな。

 今思うと、一汁三菜の質素な食卓ながら、買ってきたものが並ぶなどということはなかった。毎日毎日家族にために、祖母達は夜も明けぬうちに起き、かまどに火を入れ、飯を炊き、汁を作り、自分は皆が出かけてから、昼前に起きてくる2番目の叔父と一緒に、ささっと湯漬けを食べ、梅の季節には梅を漬け、野菜や果物の出盛りには干したり、漬けたり、砂糖漬けや果実酒を作り、魚も塩をして保存できるように始末して、盆や正月、法事など人が寄る時に合わせて準備をしながら、日々の賄いを算段していた。家族が多いので、誕生日や行事も多い。その度に赤飯を炊いたり、好きなメニューを作ったり、心尽くしの料理が並んだ。祖母達のおかげで、私はもちろん、母も父も叔父や叔母達も、食べ物の心配をしたことがなかったし、東京に帰る時は、いつもチッキで荷物を送るほど食材をもらって帰っていたし、東京でも私たちのお腹を満たしたのは、母の味を支える祖母の味だった。

 父の実家は、兄弟も多く大家族だった。私は良く夏休みになると実家に預けられたのだが、私が小学生の頃、父の実家には、長兄の叔父家族6人と2番目の叔父、父のすぐ下の叔父の家族4人と又従兄弟と家事見習いの親戚のお姉さん1人が住んでいた。1番下のおじさんは近くのアパートに住んでいたが、食事は母屋でしていた。朝ご飯は順番制、私が起きる頃には、叔父達の食事は終わっていて、女子供が食べる頃には、叔父達は出かけていた。

 もっとも1番上の叔父は、月に1、2度出かける以外は、日がな一日自室で過ごしていて、叔母が世話を焼いていた。この叔父は、口数が少なく、従兄弟を怒鳴って叱る大声しか聞いたことがないが、何故か私は気に入られていて、部屋の前に行くと黙って手招きして金平糖や甘い煎餅をくれた。叔父の本棚には、祖父の本棚と違って、百科事典があり、私はそれを見るのが好きで、よく叔父の横にちょこんと座って、事典を広げて写真を見ていた。後にも先にもこの叔父だけが、私の器量を褒め、美人は馬鹿じゃダメだ、しっかり勉強しろと、字を教えてくれた。時々小遣いももらったが、どれも古い硬貨で「使っちゃダメだぞ、とっておけ」と言われたので、今だに手元にある。

 話を戻して、大家族の父の実家には、台所の脇に朝ごはんを食べる小部屋があって、そこには、ちゃぶ台の横にドテラを着たおヒツと鍋があり、ご飯と味噌汁が入っていた。ちゃぶ台には、佃煮や煮物や漬物などが乗っていて、いつでも誰でも食べたい時に食べられるようになっていた。火鉢にはいつも湯がしゅんしゅん湧いていて、冷えたご飯や味噌汁に湯を足して食べたりした。昼ご飯の記憶はないが、夕飯は、それぞれの部屋でお膳で食べた。昼と夜には、来客でもない限り、かまどに火が入ることはなく、かまどに脇に2つ口のコンロがあり、それぞれの母親がおかずを1、2品作った。昼は、よく祖母のお使いで角のパン屋に食パンを買いに行った。その時、お駄賃にもらう牛乳パンを買ってお昼に食べた。余程の美味しかったのだろう。祖母に何度もパンのお使いはないかと聞き、他の人が行ったと聞くと泣いたそうだ。あの牛乳パンももう一度食べたい。

2番目の叔父は、西洋画家で、家にいる時は、パンとコーヒー以外一切食べない。昼前に起きてきて、祖母が火鉢で焼いたトーストを食べ、自分でコーヒーを入れて飲む。昼過ぎに、スケッチブックをヒョイっと持って出かけて行く。夜は、いつも決まった店でステーキを食べて帰って、そこから明け方まで、絵を描くのだと聞いていた。夜中に腹が空くと、自室でコーヒーを入れて、パンをかじるのだ。私の寝ていた部屋は、その叔父の部屋の隣だったので、夜中にカリカリと豆を挽く音を聞いたような記憶が朧げにある。東京に来る時は、我が家に泊まっていたので、我が家にも叔父が泊まる時のためにコーヒー挽きがあったから、我が家で聞いたのかもしれないが。

 叔父は上野について、アメ横でコーヒー豆と台湾バナナを買って我が家に来た。バナナは父の大好物だったのだ。バナナもコーヒー豆も今のようにどこでも売っている物でもなく、少し高価で贅沢な物だったのだ。バナナは神棚に置かれ、黒い斑点が出て食べ頃になると父が美味しそうに食べていた。私と弟はお裾分けに1本の半分ずつもらって食べた。甘い香りがして幸せになる味だった。これももう一度食べてみたい味だ。

 母は今で言う更年期障害だと思うが、体調がすぐれない日が多く、よく父が私たちのおやつや夕飯を作ってくれた。父のおやつは“粉もん”で、1番多く登場したのは、ニラ焼きとネギ焼きだった。小麦粉かそば粉を水で溶いて、ニラかネギの小口切りをたっぷり入れて焼くだけのチヂミのような薄焼きだが、父が作った少し甘味のある醤油か味噌のタレが美味しくて、弟も私も大好きだった。
 ニラやネギを入れない甘い薄焼きも作ってくれた、今で言うクレープのように焼き、甘夏の皮の甘煮を挟んで食べた。そば粉で作ってくれた薄焼きはとても美味しかった。蕎麦がきと麦こがしも作ってくれた食感が面白く、ほんのり甘くて美味しかった。真似して作ってみたが、練りが足らないのか、父の味にはならなかった。
 具は母が作った方が美味しかったが、おやきも大好きだった。本来は囲炉裏端の灰の中に入れて焼くのだが、父は無水鍋で作ってくれた。ナス味噌が絶品だった。
 母も、当時の母親は皆そうだと思うが、新聞や雑誌で、栄養や調理法を工夫した料理を探しては、作ってくれた。もしベスト3を選ぶとすれば、コロッケと肉じゃがとけんちん汁。コロッケは残った小麦粉と卵液を混ぜて砂糖を入れてあげるドーナツもどきが大好きで、手伝う時にわざと小麦粉をたくさん出して、よく笑われた。肉じゃがは、先に炒めずに、生姜を効かせて、作るさっぱりとした味で、いくらでも食べられた。ポトフとロールキャベツも美味しかった。もやし炒めは毎日のように食卓に上がったが、毎回違う味付けで、飽きないように工夫してくれた。豚肉も、生姜焼き、ピカタ、ケチャップ煮と目先を変えて登場したが、玉ねぎたっぷりのケチャップ煮はまた食べたい。

書いているうちに、いろいろ思い出してくる物で、父の作ってくれたアイスクリーム、レモネード、心太や母のおはぎ、ホットケーキ、かき餅、きな粉餅、りんごのコンポート、かりんとう…でもこれらは、忘れていたけど、忘れたくない、愛を感じる味だ。私は幸せな子どもだった。



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