アメコカ マイケル  "Twinkle Twinkle Little Star"

マイケルの日常や庭の草花等色々織り交ぜながら、お届けしま~す。

古代ローマの街並み-ポンペイ

2010-08-04 | trip
温暖な気候と自然に恵まれたポンペイらしいランチをいただき、いよいよ2000年前の都市ポンペイにタイムスリップします。古代ローマの人々の生活に思いをはせながら、街の中を歩いてみました。


まずは、問題です。これは、何でしょう?

 ほぼ実物大です。

正解:これは、当時の人の落書きです。 まさか2000年後のとんでもない地の果ての国・日本の私達が見て、ブログに載せるなんて全く思いもよらず、こっそり壁にいたずら書きしたのでしょう。頭にオリーブの冠をつけた神官でしょうか?それとも、裁判官?偉そうなえばった感じ??横顔ですが、すごくよく特徴とらえていると思いませんか?シニカルでユーモラスな落書き(似顔絵?風刺画?)ですよね!!


        

西暦79年の暑い夏(8月24日)、ヴェスヴィオ火山の大噴火は、3日3晩続き、街は火山灰に埋もれ、発生した毒ガスにより街の人々の生命も駆け付けた援軍の命をも奪ってしまいました。


当時の様子を、「Poompeii The Last Day(ポンペイ最後の日)」と題し、BBCが2003年に製作。下記に最後の6を載せました(字幕付き)。1から、見ると更によくわかります。お時間ありましたら是非動画下の他の関連映像(特に1~5)も、見てみてくださいね。

ポンペイ最後の日(POMPEII - The Last Day) (6 of 6)[日本語字幕]



その後、当時の姿を残したまま、街ごと瞬間冷凍されたように、火山灰の下で、約1700年(1500年?)もの長い眠りにつきました。そして、人々に恐れられ再建されないまま、忘れ去られていきました。しかし、1748年2月、農夫が、畑で青銅製の器具を見つけた事から、少しずつ、発掘がすすみ(盗まれたりしながら)、ローマ帝国最盛期のローマ人の生活が、眠りから覚め、約2000年たった今の私達の前に、姿を現したのです。


ポンぺイは、ローマとと同じくらい古い起源をもち、紀元前8世紀頃、イタリア先住民によりポンペイと名付けられました。ここは、ちょうどイタリア半島を南~北へ向かう中継点であり、海から内陸へ向う出発点でもあり、繁栄したのですが、同時にギリシャ等、近隣諸国の争奪の的にもなりました。 また、政治変遷とともに、様々な習慣、文化、芸術も伝えられ、様々な方面で発展を遂げていきました。



紀元前89年、完全にローマの植民地になってからは、ここは、大都市ローマの貴族達の憧れの避寒地でした。 現代の人間同様、約2000年前の彼らも大都会ローマの喧騒をのがれ、心の安らぎをこの地に求めたようです。そして、数多くの美しい中庭のある見事な別荘が建てられました。

      


まず、玄関の床のタイルには、 猛犬注意と書かれたの強そうな犬の絵。今にも吠えかかってきそうでした。
       
約2000年前に、もう、古代ローマの人々は、ペットとして、あるいは、番犬として、犬を飼っていたとは、驚きですよね。日本は、その頃、どうだったのかなあ??


家の壁面には、ギリシャ?神話の物語が、全面に美しく鮮やかな色彩でダイナミックに描かれています。2000年前の壁画とは、思えない彩でした。(ただ、現在の発掘場所の保存状態で、この鮮やかさを、いつまで保てるものか?ちょっと不安になりました。)

      

   床も幾何学模様が美しいタイルのモザイクでした。


  どんな狭い道でも歩道と車道に分かれていて、今も馬車の轍の跡がはっきり残っています。そして、アッピア街道と同じく、真っ直ぐで、平坦。5番の目のように道が整備されています。人の事も馬車の事も考えた道、2000年後の私達の周りの道は、どうでしょう???

      飛び石は、雨の時に
、利用。馬車の車輪は、飛び石の間をすり抜けられるようになっています。


港から、ここまでは、荷馬車の通れますが、ここから、住宅地へは、入れないように、石が、たっています(多分??)。

         
            
    

    
これは、道の脇にず~っと、敷かれた鉛の水道管だそうです。でも、今は、誰かが、持ち去ってしまって所々しかありません(ひどいですね!!)


     
公共の水飲み場もあります。



この街の魅力は、海に近く、温暖で、住みやすく、食べ物がおいしいと言う点だけではなく、様々なエンターテイメントの充実した街でもあったようです。やはり円形闘技場もありました。ローマの植民地となった年(紀元前89年)、建設が始まったようです。収容人数は当時のポンペイの総人口と同じ2万人。また、大劇場に小劇場(写真参照)、居酒屋や娼婦の館、そして、男女に別れた公衆浴場等も、ありました。


   小劇場です。


 
フォロの浴場。街の外部の人々のための小さな浴場。市民から、提供されたお金で作ったそうです。浴室は、男性用と、女性用に区別され、脱衣室、冷水浴場、ぬるま湯浴場、温水浴場が、完備。 しかも、浴場内はどこも床下に温風を流す装置で適温にあたためられていたそうです。(ちょっと暗くて、ピンボケ多く、写真少なくてすみません。)

  これは、マッサージ台??こんな台でも、側面に美しい模様が描かれ、脚には彫刻が!! 古代の人間の方が、人の心の癒しでありビタミン剤的芸術の価値をよく理解していて、日常に取り入れるセンスが、磨かれていたのでしょうか??芸術を美術館等で鑑賞して、満足するのではなく、何気ない日常のインテリアとして美しいもの使う。私達も見習いたいですね。


ここは、街の中心、公共広場(フォロ)-宗教、政治、経済の中心。馬車は進入禁止。ポンペイ全住民が集まれる大きさでした。 広場は、雨でも、ぬかるまないように、また、雑草がはえないように 石灰華で舗床されています


  広場右側には、立派なお店が並び、お洒落な屋内市場もあったそうです。その建物の中庭の真ん中には、クーポラ(ドームが)があって、その下に置かれた水槽は魚のいけすとして使われていたり、彫像のある素敵な休憩室もありました。背後に、大噴火など嘘のように ヴェスヴィオス火山が 気がつかないほど静かに写っています。


 後方には、ローマの影響を受ける前のポンペイで1番ふるい公共施設-バシリカが見えます。紀元前120年頃の建物で法廷があったそうです。

  広場へと入る所で、車両止め(写真下部の石)が、あります。



広場を少し離れて歩いて行くと、パン屋さんがありました。

   にも、釜戸から香ばしいパンの匂いが、してきそうでした。2000年前の
手作りパンは、一体どんな味だったのでしょうね?


   ここは、ワイナリー。すでに2000年前に、ワイン製造の設備があり、ワインを売っていたとは、驚きでした。



       
ポンペイ遺跡にいたワンコ達です。野良犬でしょうか??          


   



2000年前の人々の快適な暮らしへの思いを、至る所に感じると同時に、今の私達以上に、その感覚の鋭敏さに感心しました。喧騒の大都会ローマを逃れ、人間本来の心の安らぎと人生の楽しみを得る目的でこの地を選び集まった富裕な人々ですから、尚更なのかもしれません。

        


*ここには、古代ローマ人のリゾート地(避寒地)、今で言えば、コートダジュールのニース・カンヌ・モナコと言った娯楽施設の完備し、かつ精神的にリラックス、リフレッシュするための場所でもあったのでしょうか?
そのせいか、エフェソス(現トルコ)で、驚かされた立派な図書館や、コモ島(ギリシャ・医学の父ヒポクラテスの故郷)やベルガマ(現トルコ)で、現代の医学について考えさせられたすばらしい古代医療施設(アスクレピオン)といったものは、ないようでした。




暑さの中を歩いた後にオアシス発見!!
ちょうど遺跡を出た所に 南イタリアらしいジュース屋さんがありました(現地のガイドさんのお薦め)。そのお話は次回に。

               


                  糸杉と笠松が、目印?  


                                                             では、また               
    

ポンペイ-まずは、腹ごしらえ!!

2010-08-03 | trip
ナポリ近郊の古代都市ポンペイに、ついに到着。 

でも、ここは、「食べて(マンジャーレ)、唄って(カンターレ)、愛して(アモーレ)」と人生謳歌するイタリア。日本風に言うと「腹が減っては、戦はできぬ?」ので、まずは、腹ごしらえ。 遺跡近くのレストランで早めのランチをとりました。


温暖で、海に近いポンペイ。新鮮な魚介類に恵まれ、火山帯上なので、肥沃な土地は、農耕にも最適な場所で、果物も野菜も豊富。
なので、ランチは、期待通りの南イタリアらしい新鮮な素材を活かしたシンプルながら美味しく健康的なメニューでした。

          オリーブオイルで合えてあるだけの魚介類のサラダ。レモン汁をたっぷり搾りかけて、いただきます。 

    海の近くの肥沃な土地でお日様をたっぷりあびた甘味の濃いトマトと、それに、ティレニア海でとれたムール貝やあさり。それらの味が、うまくスパゲッティにからまって、とっても美味しかったです。
 

            これは、魚介類のフライ。 サラダもスパゲッティも、こんな風に大皿から手早く、豪快、かつ、ボリュームたっぷり盛り付けてくれます。



皆、シンプルな味付けなのに、とても美味。ボリュームある盛り付けでしたが、暑さも忘れて、全て完食しました。


次回は、古代都市ポンペイで、古代人の生活を垣間見ます。  
                                    



*南イタリーを旅する楽しみの一つは、新鮮な魚介類と果物、野菜の美味しい事。 そして、温暖な気候と、海岸線の景色の美しい事が魅力ですね。もし、いつか、イタリアに行くとしたら、南イタリアプランかな? ナポリより、海岸線沿いに南下していくコース。有名になりすぎたナポリより、南下していくと食事も美味しく素敵な所がたくさんあると、イタリアに住んでいた方のお薦めです。アマルフィで、青の洞窟同様の洞窟を見たり、更にイタリア半島の踵のアルベロベッロ(かわいいトゥルッリ-とんがり屋根-の立ち並ぶ)をまわって、アドリア海側へ。そこをしばらく北上して、●●●(忘れました。)からフェリーで、クロアチアへ。

時間的にゆとりなければ、南イタリアは、パスして、ダイレクトにクロアチアに行くプラン優先です。ここは、叔母夫婦と、イタリア帰りの飛行機で横のシートだった方(スイスの友人宅からの帰り)、どちらもヨーロッパをよく旅する方々のお薦めです。アドリア海の真珠と呼ばれるドゥブロヴニクのかわいい赤い屋根の家並みや、海に沈む美しい夕日、そう、ここにも「青の洞窟」同様の洞窟もあるそうです。
 
 








美しい南イタリアの港町-ナポリ

2010-08-02 | trip
  ローマから南イタリア最大の町、ナポリへ。 途中フリーウエイには、夏のバケーションで、南イタリーへ向かうローマっ子達の車が多く走っていました。

     車窓より広陵とした麦畑?が続きます。収穫後の干し草がロールになっていました。

 途中、ローマより南へと延びる街道(アッピア街道)が、見えました。カサ松の木陰の道が涼しげな並木道。「全ての道は、ローマへと続く。」と言いますが、この街道は、紀元前312年-古代ローマの初のインフラ事業とも言える敷設です(街道の写真撮らなかったので、拙い絵を参考に添えました。

ローマより南へ、イタリアのターラント(伊半島の突端-長靴の踵の部分)まで続く全行程約750KMの街道。 日本では 江戸時代、やっと東海道等の五畿七道が整備されました。といっても、人や馬の歩く道。 その約2000年前に、アッピア街道は、軍事、政治支配のために当時の車である馬車が往来するための道として、作られました。つまり、できるだけ直線で、橋をかけ、トンネルを掘り、水はけまでも完備された平坦な石畳の舗装道路です。

日本は、馬車が交通手段として根付き、それ用の道を整備したのは明治時代に入ってからです。古代ローマに遅れること約2300年です。道、一つとっても、古代ローマ文明恐るべし!!と言うかギリシャや、エジプト、中国等の古代文明も島国日本は、圧倒されるばかりですね。

         これが、 カサ松です。古代ローマ時代より、植えられていた松です。日本では、珍しい格好ですが、自然にこうなるのでなく、下枝は、剪定しているようです。ローマで、またナポリへ行く途中でもよく見かけました。 
「ローマの松」(第4楽章アッピア街道の松)伊の作曲家レスピーギの交響詩の題名にもあります.





ナポリへの途中休憩で、カプチーノ(200円位)を飲みました。 
*車の休憩場所で、何気なく撮った写真でしたが、帰国後改めてみると、なんかテーブルも椅子もイタリア的な気がしてきます。 


      




ローマより 車で約2時間ほどで、南イタリア最大の町、ナポリへ到着です。

ナポリの起源は、何と紀元前7世紀までさかのぼります。 古代ギリシャが、イタリア半島に侵入し植民地(ネアポリス・Neapolis-新しい町)を建設。これが訛ってナポリとなったらしいです。 
 *ちなみに「日暮里」も、ナポリと同じ語源(Neapolis)に由来するとか? しないとか?

 現在のナポリ市内です。1861年、ナポリ王国は、イタリアに統合されました。そして、今、北部との経済格差や失業の高さ、犯罪組織の存在など問題が山積みらしいですが、東西交通の海洋都市として栄えたナポリは、今でも南イタリアの中心として、人を元気にさせるパワーを持っているようです。

 

       
  ナポリの海です。海と空の青さが、とても美しかったです。 温暖で、新鮮な魚介類も果物も豊富、さらに港町でもあるナポリは、古代ローマのお金持ちの避寒地として、人気があったようです。とくに、ポンペイは、古代ローマの貴族の別荘のあった所です。私の後方にベスヴィオ火山が、見えるはずなのですが、この時点では、ややかすんでいて見えませんでした。


  

  これは、海の上に建つ要塞、卵城。由来は、ローマ時代の魔術師が、この城内に卵を隠し、「その卵が、われたら災いが起こる。」と云い伝えたためらしい。 


ナポリの美しさを語った民謡でも有名な「サンタ・ルチア」港です。 今は、個人所有のヨットを停泊する小さな入り江。夜は、街灯の灯りがともり、入り江のレストランには、キャンドルが輝き、とてもロマンティックらしいです。恋人、新婚さんに、お薦めスポット!!

 

 後方に見えるのが、ヴェスヴィオ火山です(撮った時は、停泊中の船に見とれていて、後方にあの火山が写っているとは、気付きませんでした。)。 最近、また、火山活動が活発になりそうだとか??
 


     



                  

       いよいよ、ポンペイに到着!!

この続きは、次回に。   



*私達は、残念ながら、今回行けませんでしたが、ナポリより、フェリーで1時間20分ほどの所にカプリ島があります。イタリア有数の高級リゾート地で、ティレニア海の宝石とも呼ばれ、ヨーロッパのVIPも訪れる憧れの島らしいです。昔、ローマ皇帝ティべリウスは、ここの石灰岩でできた白い岩肌の美しい絶景や温暖な気候と豊かな自然、美しい花々に魅せられて、ここに別荘を建て、この島を出ることなく帝国を治めたとか。

このカプリ島の日本でも人気のスポット「青の洞窟(Grotta Azzurra)」は、5人乗りのボートでしか、入れないので かなり混んでいますが、雨が降らなければ、2時間待ち程度だそうです。特に午前中の光がベストらしいです。洞窟に入る時は、船に(下のマイケルのように)仰向けに寝そべった状態でないと、顔面を低い岩肌にこする事になるそうです。でも、闇の中に、突然現れる青い幻想的な世界は、素晴らしいとの事。いつか、南イタリア方面を中心に旅する時間がとれたら(宝くじにでも当たったら??)、是非みてみたいと思っています。
と、言う訳で、「青の洞窟」に行った方の動画で、感じを味わってみてくださいね。

Blue Grotto (Grotta Azzurra) in Capri island


このブログの主人公なのに、最近登場しないマイケルですが、元気で、いつものように私のそばでゴロンゴロンしています。今は、どうかと言うと、ブログを書いている私の直ぐ右横で、器用??に 机に仰向けによりかかり、いびきをかいて寝ています。この格好なら怪我をしないで「青の洞窟」に入れると思います。
 

     






ローマのゴージャスなマック!!!

2010-07-31 | trip
 イタリア共和国の首都、そしてラツィオ州の州都、ローマ。 テヴェレ川上流約30KMに位置していて、前回のバチカン市国は、その川の西側、今回のローマは、東側。2000年以上前の古代遺跡や中世ルネッサンスの宮殿、バロックの教会等、歴史的遺産が集中していて、ローマ観光1日だけの私達には、さわりだけしか見れませんでした。



テヴェレ川、時間があったら、遊覧船からのゆっくり景色を楽しんでみたかったのですが。パリのセーヌ川、ロンドンのテムズ川等、ヨーロッパは都心を流れる川の景観が、とても美しく、また、気持がいいですよね。
     

       


                 


 ランチに、チーズたっぷりのピザを食べました。手頃で、量もあり、美味しいピザ。ミラノ、フィレンチェ、ローマと旅行中、知らず知らずのうちに ピザをよく食べました。 日本では、数か月に1回食べるか、食べないかですが。
数年前のペストセラー小説かつ、J.ロバーツ主演で映画化された"eat pray love"のイタリアでのようにやはり、イタリアはピザの国ですね!!


まずは、中心地にそびえ立つ白亜の殿堂、1870年イタリア統一の立役者、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の偉業を称え、市民からデザインを募り、1885年施工開始。1911年(もうすぐ100年)に完成した巨大な記念堂。騎馬像の下には、第一次世界大戦で命を落とした無名の戦士らが祀られている。 大理石でできた階段を、頂上部までのぼると、コロッセオや、パラティ-ノの丘など、ローマの街を、一望できるそうです。                                        
                                   
                 



いよいよ、 古代ローマの中心地、フォロ・ロマーノ(ローマの広場)へ。 

ここは、紀元前509年頃から、ローマ共和国の成立と共に政治の主役であった市民が、集った場所。紀元前1世紀には、ギリシャ(アテネ)やエジプト(アレキサンドリア)に比べ、不細工なレンガ造りだったローマを改造する計画をしていたユリウス・カエサルが暗殺され中断。その義理の息子、アウグストゥスが、初代皇帝となり、美しい大理石の都へと、大改造工事をしました。その後歴代の皇帝が、壮大な建物(成功の証として、死後も人々の記憶に残り続けるもの)を建設し、偉大なローマ帝国として、約1000年にわたり栄え続けた場所が、フォロ・ロマーノです。 

まずは、西暦320年頃のこの辺を、Googleの3D映像で、ご覧ください。

Discover Ancient Rome in Google Earth
 

   入口には、西暦203年、セヴェルス帝の功績を称えて建てられた高さ21mの凱旋門があります。

                     


6万人のローマ市民が、熱狂した古代闘技場-コロッセオ。西暦80年、ティトウス帝が、エルサレムより連れ帰った4万人の奴隷を使いわずか8年で完成。 当時の皇帝は、「パンとサーカス」と揶揄されるように市民の人気取りと政治への関心を削ぐために無料で小麦を配給し、連日連夜、闘技や演劇を企画。完成時は、100日間連日闘技会を催し、市民を熱狂の渦に巻き込んだそうです。
 
今のイタリア人のサッカー狂みたいに競技に熱狂したのでしょうか? ”トトカルチョ”(サッカーくじ)、ほとんど忘れたイタリア語ですが、今でも覚えている言葉-つまり昔よく耳にした言葉です。

        

かつて、この中央には、円形の穴のあいたキャンパス聖の巨大な天蓋があり 観客は、暑い日差しや雨を避けて、競技を見ることができたそうです。
ちなみに、競技場の舞台は、アリーナ(ラテン語の砂)。舞台には、砂がひかれていて、闘技で血に染まる度に新しい砂が撒かれたところから、そう呼ばれたそうです。


コロセウムの建て方と、古代のここでの闘技がどんなものか?興味のある方は、ご覧下さい。
 
 
Building Rome's Colosseum
昔の建築家は偉大です。機械もなく、コンクリート等の材料もなく、よくこれだけのものを、造りましたよね!!


Colosseum, Rome's Arena of Death
 


    2000年後の今、皇帝の成功の証である壮大な建物を見ながら、歴代皇帝や当時のローマ市民の歩いた石畳を 私も思いをはせながら、ちょっと散策してみました。

 至る所、2000年前の巨大な建築物の遺跡で、これは、何だったか忘れてしまいました



次は、やはりローマの観光スポットの定番、トレヴィの泉。 
トレヴィは、三叉路という意味でこの前から、3本の道が延びています。古代ローマ時代の水道のあった場所。1400年代に教皇の命で噴水が作られ、更に18世紀、若き建築家ニコラ・サルビにより 中央の海の神ポセイドンやトリトン等躍動感あふれる大理石の彫刻が、デザインされました。彼によって、トレヴィの泉は、コバルトグリーンの輝く泉の色と光、流れ落ちる水の躍動と音が彫刻と美しく調和し、人々の心を永遠に魅了する泉となりました。

                    


 真ん中に陣取り、コイン投げの正式ポーズ(後ろを向いて、右手で左肩へ)。この人ごみで、完全おのぼりさん状態です。以前にも、1回投げて、再来を果たしたので、今回も、1回投げたから、また、行けるかなあ?? 



次は、「ローマの休日」で、有名なスペイン広場へ。 今は、高級ブランドショップの立ち並場所ですが、1800年代は文化人の社交の場だったとか?英国詩人キーツの住居も記念館として残っていて、今回、寄る時間ありませんでしたが、老舗カフェ・グレコには、18世紀当時のこのカフェに通った写真やサインが見られるそうです。


         また、また、お上りさん撮影です 


    
              





ローマでお上りさんしている間に、もう20時過ぎ。日も少し暮れて来たので、この夜は、ホテルから、そんなに遠くないマックで夕食をとることにしました。
  
 
 共和国広場が目の前に広がる、美しい白亜の大理石のマック!! 19世紀の宮殿を改装したようです。その右隣は


       極上ホテルのボスコロ・エクセドラ。やはり宮殿を改装して2002年オープン。 豪華な調度品でまとめられた客室は、セレブ気分が味わえるとか??


まずは、マクドナルド(様)宅の入り口です。


        大理石高い天井。立派な看板。ここで、軽装でハンバーガーをいただくのは、恐れ多いような気持で、気楽に入っていく人々にまじって、ちょっとドキドキしながら中に入っていきました。


         入り際で振り向くと、大きなランプが見えるように、カッティングされた看板の意図がわかりました。そこから、ランプの明かりと共に、ローマ(共和国広場)の黄昏時が、美しくみえました。 それにしても、これだけの場所にアメリカ資本のマックができる事、ローマっ子は反対しなかったのか、ちょっと気になりました。


     大理石の柱に貼られたメニューの一覧表。日本より品数豊富かも?



 この光景は、お馴染ですね。でも、天井の高さと、壁や床が、大理石と言うのは、ちと違いました。


   ただ、横手にエスプレッソ専用のカウンターがあるのは、さすがイタリアと思いました。でも、私のバーガーと一緒に注文したエスプレッソは、悲しい事に・・・。


            なんと、これだけ!!! 一気飲みサイズ??
 これで、80円位だったか? アメリカ資本のマックなのに、エスプレッソは、イタリア式?折角、このコーヒー1杯で、1日中、歩きまわった疲れを癒したかったのに~!!

これって、オーダーミス??それとも、これがノーマル??でしょうか?どなたか、わかる方、教えて下さい。でも、この時は、有難い事に主人の注文したミルクが、ノーマルサイズだったので、そのミルクを、入れて、カフェオレにして飲みました。「ブオ~ノ!!」

                


以下、注文したバーガーです。

  これ、お腹が空いてたせいでしょうか? とっても美味しかったです。 値段は、忘れてしまったのですが、250円位だったかな?   


        ちょっと、中を開くとこんな感じで、とっても具だくさん!!


             夏なので、テラスで食べる人々も結構いましたが、涼しい地下で、頂きました。 確か、ブタペストのマックも、かなりゴージャスでした。 天井が高くシャンデリアが美しくきらめいていて、食べる所はローマよりお洒落だったかも??
この日は、テルミニ駅近くの遺跡地区にある斬新なイタリア的感覚のラディソンSASに 泊りました。


次回はナポリ、ポンペイの遺跡の見学のお話をする予定です。 ではまた
     

                                       

ローマ-バチカン市国(サン・ピエトロ大聖堂)

2010-07-29 | trip
 昨日に引き続き、ローマ教皇が統辞する世界の最小の独立国家-ヴァチカン市国です。バチカン美術館の隣、カトリックの総本山であるサン・ピエトロ大聖堂に行きました。 

この教会は、そもそも西暦64年、暴君で知られるネロ帝の迫害を受けて殉教したイエスの1番弟子であり初代ローマ教皇である聖ペテロのお墓がここにあったそうです。その後326年、コンスタンティヌス帝が、彼のお墓の上に教会を建立しました。1506年、建築家ブラマンテの設計により大改築がスタート。120年もの年月をかけて完成したそうです。その間、ルネッサンスを代表する芸術家-ラファエロ、ベルッツィ、サンガッロ、ミケランジェロ、ベルニーニ、etc-が、関わり、完成を見ないで、没していきました。 彼ら製作者達が、思い浮かべる事しかできなかった巨大な芸術作品を、数世紀先の世界中の人々が、堪能しているというのも不思議な気がしますね。

どこを見ても、すべてが芸術であり、数百年経た今も、そして、今後もその偉大さ、素晴らしさは、色あせず、カトリック信者の方々は勿論、私達のような観光で訪れた人々にも、すべての人に感銘を与える事でしょう(イタリア観光案内みたい??)


  この広場(サン・ピエトロ広場)が、ローマのアヴェレ川の西側にあるヴァチカン市国の玄関口。 建築家ベルニーニが、設計を担当し、1667年(日本は、江戸時代初めか?)完成。中央に見えるオベリスク(25.5m)は、西暦40年、エジプトから運ばれたものだそうです。 


 この広場、大規模な集会の時は、30万人の人々が、収容できるほど広いようです。

 
 これらの円柱は、ドリス式。284本あり、楕円形の回廊を支えている。回廊の上を見ると、140体ものカトリックの聖人像が、広場にいる私達を、見守っていました。 昔(若い頃)訪れた時は、冬で、とても寒かったのですが、クリスマスの心温まる楽しいページェントの飾り付けを見ることができたました。

    
          いよいよ、カトリックの総本山の中へ、入ります。



        




     大聖堂内、中央の身廊の幅だけで、58m!! 更に、この左右に側廊がある。また、奥(ちょうどドーム-クーポラ-下)に、教皇の祭壇を覆う大天蓋が見えます。


      入口より右の方を見ると、ミケランジェロ、23歳の時の作品-ピエタ像。このような題材に挑み、見事に彫りあげたミケランジェロ、23歳の青年の作品とは、信じがたい完成度です。マリア様の慈悲に満ちた表情には、心の美しさまで映し出しているようで、このすばらしいピエタ、以前みた時は、防弾ガラスケースに入れられていませんでした。が、その後、異常者による破壊事件(足?)のため、このようなケースに入れられてしまったようです。


 この像は、教皇の祭壇に至る少し手前にあります。イエス様の1番弟子の聖ペテロ像(初代教皇)、13世紀のブロンズ像です。「私は、あなたの天の国の鍵を授ける」(マタイ16:19)というイエス様の御言葉により、ペテロは、鍵(複数形)を持った人物像として、描写されています。
パレスチナのガリラヤ地方の漁師だった彼は、イエスの1番弟子として、使命を果しました。 西暦64年(~67年)、暴君ネロ支配下のローマで殉教したと伝えられています。また、イエス様と同じ十字架刑は恐れ多いと、もっとつらい逆十字架刑にされて、前述のように、その遺体は、この地に葬られたそうです。



      クーポラ(ドーム)の真下、教皇の祭壇を覆うブロンズ像の巨大な天蓋。



           1633年に製作されたもの。クーポラによる、天井の高さとつたのからまる捻じれた4本の柱や装飾が、荘厳さと、厳粛さな雰囲気を演出しています。

それは、更に聖堂の最奥(最も神聖な場所)の聖ペテロの司教座へと続きます。 内部に聖人が使ったとされる古い司教座があるそうです。  

          ちょこっと、ママ登場。


バチカン美術館へ、入るために、市国外の道沿いに並んだ行列です。日陰もなく とにかく暑くて、日本の番傘?が日よけに、売っていて、さしている人達みかけました。左下の写真のちょっと小さくて派手なオレンジ色の傘がそうです。

 

 次回は、テレビでもよく見かけるローマの観光名所を少しと、ローマのマック等を、載せるつもりです。 では

                                


ローマ-バチカン市国-

2010-07-28 | trip
ローマでは、まず、以前にも訪れた事のあるバチカン市国のバチカン美術館、そして、サン・ピエトロ大聖堂へ。 さすが、キリスト教(カトリック)の総本山であり、かつルネッサンス時代の芸術家たちの芸術の結晶。 世界中から訪れて来た人々の熱気に満ちていました。

   
       バチカン美術館の回廊入り口、手荷物(中にお土産のガラスが入っていた)は、ここで預けて中へ。


               高い天井の荘厳な回廊。 


  この天井装飾は、彫刻と思ったら、だまし絵ときいてびっくり。


*ここで1番見たかったのは、前回修復中で見られなかったシスティーナ礼拝堂の絵画史上の最高傑作と言われているミケランジェロ作の「最後の審判」と、「創世記」を描いた天井画。 フィレンチェのアカデミア美術館でみたミケランジェロのダビデ像にも、圧巻されましたが、この天井画と祭壇画の迫力と緻密さにも驚かされました。ただ、撮影禁止の場所、特にフラッシュ撮影は保存上問題のあるはずなのに、あちこちでパチパチ。 もっと人が少なく、話し声や写真のフラッシュの光等がない厳かかつ神聖な礼拝堂で、聖書の世界を再現した2作品を鑑賞できたなら、更に印象深いものと、なったと思い、ちょっと残念な気がしました。 でも、世界中の人が見に来るのですから、仕方がないのかなあ?その点、ミラノのダビンチの「最後の晩餐」は、予約制、かつ、その壁画のある部屋には、25人以内と人数制限もあり、写真も完全禁止、入った瞬間から絵に集中できました。そのせいか、「最後の晩餐」が、この旅で、最も深く感銘を受け、1番心に残っています。(今回の旅で鑑賞した作品は、どれも 余りに、素晴らしすぎて、甲乙は、つけられませんが。)



 バチカン美術館の中庭からは、サンピエトロ大聖堂のミケランジェロの設計した巨大なドーム(クーポラ)が、後方に見えます。


         サン・ピエトロ大聖堂以降は、また次回に

   

マイケル、come back!!

2010-07-27 | trip
ママ、パパは、無事旅行から戻り、ぼくも、ばあちゃん家からお家に戻って来ました。 これから、また、よろしくおねがいしま~す。


         ちょっと、ふっくらクマゴロウに戻った?マイケルです。 

ばあちゃんの家に預けられて約2週間、ばあちゃん、じいちゃんに、大好物のかぼちゃも、もらって、沢山遊んでもらったよ(マイケルお泊まりのために、両親、ジムを、ず~っとお休み、ジムの友達が心配して、電話をくれたそうです。)。とっても、楽しかった!! で、体重は、また、13KGに戻ちゃったみたいだけど・・・・・。
 
                     旅行に行く寸前(約2週間前)の写真と比較すると、約1kgの差は歴然、やっと、痩せて精悍な顔立ちになった?と喜んでいたのに・・・。



それに、ぼく、おりこうにしていたんだよ。ばあちゃんのふとんの上に寝ていて(母は、漬物石が脚にのってる悪夢をみたようです。)、1度だけ オネショしちゃったけどね。あとは、お家に居る時と同じに、ちゃ~んと、トイレ用トレイで、したよ。

 じいちゃんが食事の時、こっそり落としてくれるの、おいしかったなあ!! ママには、内緒だけど。でも、やっぱり、お家はいいなあ!! (帰還後、笑顔で寝ているマイケル見ての私達の勝手な解釈です。)



*先週、すりにすられる事もなく、13時間のフライトでエコノミー症候群になることもなく、”マンジャーレ(食べて)、カンターレ(歌って)、アモーレ(恋をして)”のイタリアで、休暇を過ごして、無事、2人とも我が家に戻りました。即、その夜にマイケルを迎えに行ったのですが、その後バタバタしていて、パソコンを開ける暇なく、ブログ更新も、楽しみなみなさんのブログを拝見することもできませんでした。 また、コメントも頂きながら、返信が大変遅れて申し訳ありませんでした。 今週から、ぼちぼちで、ブログを、再会していきたいと思っています。みなさんのブログも拝見させて頂きます。また、マイケル共々、よろしくお願いします。



*旅行中、ブログは、主人が、携帯より写メールで、車中や、美術館の行列に並んでいる時等を利用して、更新していました。 途中、宿泊先でパソコン使用できたら良かったのですが、かなわず、慣れない携帯からの更新、見ずらかった事と思います。 少しの間、この旅の続きをネタに使わせて頂こうと思っています。 もうしばらく、お付き合いいただけたら、幸いです。



ローマへ

2010-07-18 | trip
フィレンツェを後に、鉄道を利用してローマへ移動しました。上の写真は、フィレンツェの中央駅です。


あっという間に、ローマテルミニ駅へ到着です。テルミニ駅は、首都の中央駅らしく、いろいろな都市へ行き来する人達でいっぱいでした。。

写真は、「ユーロスター」、ヨーロッパの新幹線にあたるそうです。途中、一面黄色いヒマワリ畑や麦畑が車窓から見えました。
               





フィレンツェからローマまで1時間半くらい、あっという間に着きました。


    テルミニ駅に、ワンコがいました。鉄道利用のためか、駅では、小さめなワンコが多いのかも。

フィレンツェに着きました。

2010-07-16 | trip
フィレンツェに到着です。7時過ぎてすが、まだまだ明るいです。
中央駅近くでは、写真のワンコに会いました。夜とはいえ猛暑の夏はワンコも大変です。
駅付近にある、サバティーニというステーキハウスで夕食。Tボーンステーキはこうばしくとても美味しいです。
フィレンツェの老舗、東京にもお店があるようです。
Tボーンステーキ。
帰り途中、空の色がグリーンがかったコバルトブルーでした。うまく色合いがでないかも知れません。

マイケルのTシャツを着て、シニョリア広場の石像を背景に一枚撮りました。マイケル、一緒に来れないからね~。
ベッキオ橋です。橋の両側に貴金属店が並んでいます。
川の対岸の建物が、水面に映っています。毎日、ものすごい暑さです。
ドゥオモの近くでワンコが散歩してました。


フィレンツェでは、ドゥオモに登ってみました。入口で相当待たされ、暑かったこともあって、長く続く急な階段はかなりきつかったのですが、眺望は素晴らしいものでした。
下から見上げるドゥオモの天井画も、直ぐそばに迫っています。足がゾクゾクしてしまいました。
ドゥオモ隣の高い鐘楼が、下に見えます。
それに、街を歩く人が小さいです。
あまりの暑さに、ジェラードと写真のラッシー(コーヒーシャーベットの上に生クリームをのせたもの)を、いただきました。生き返りました~。


この日は、マイケルのTシャツをペアで着てみました(知ってる人もいないし)。セールで寄ったかわいい置物のお店では、店員さん達にも受けました。
馬車で街中を観光してくれるようです。広場に二、三台止まっていました。

ミケランジェロのダビデ像のあるアカデミア美術館では、夏休みもあってものすごい観光客の行列でした。入場するのに1時間半は並んだでしょうか。35℃はあったので、大変でしたが、ついに観ることができたダビデ像は、雄壮な巨人であたかも生きているようでした。
美術館へ行く途中に、ワンコのお医者さんを見付けました。午前中と夕方診療を受付ているようです。古い町並みを損ねない程度の、小さくて目立たない表示です。
ピザ屋さんでピザを切ってもらいテイクアウトしました。この日の食事は、メッツァ?ひと切れが4分の1でその半分、トマトのピザと、キノコのピザとハムのピザの3種類。オーブンで温めてもらいました。二人ともお腹いっぱいになり、とても美味しくいただいて、5百円くらいでした。


ベネツィアにて。

2010-07-15 | trip
サンマルコ広場へは、サンタルチア、ローマ広場あたりから船で渡りました。
こちらは、1週間以上晴れが続いているようで、猛暑です。多分、35℃以上。日向にいるとこげてしまいそう。
サンマルコ広場の鐘楼、16世紀に建てられ百年前に建て替えられたもの。沢山の人で登るのを、断念しました。
夕食の、ラザニアと、
ヒラメのムニエルです。サンタルチア駅近くの魚料理店でいただきました。
食後に、少し散歩しました。写真は10時過ぎだというのに、まだ人通りも多く、絵画のような色調の黄昏のベネツィアです。

サンマルコ広場へ行く途中、橋の上で2ワンコがいました。
ゴールデンもいました。バカンスでワンコを連れて来ている人達がいるようです。まだまだ、暑い時間です。
サンマルコ広場では、世界一古い?カフェに入りました。内装も美術館のようでした。
昔ながらのフィルターコーヒーを頼みましたが、小さなエクスプレッソのカップに、僅か1センチ溜まるのにかなりの時間がかかってしまいました。数百年前の人達と時間の流れ、早さの違いを感じた一時でした。


ベネツィアといえば、ゴンドラ!30分ほど、乗ってみました。
むかし使われていた宮殿と牢獄をつなぐため息橋(牢獄へ渡る囚人がため息をついたと言われる)は、工事中でした。工事は、2011年秋頃までらしいです。
いまは、カンツォーネは歌っていないようです。ゴンドラは左側に櫓があるので、右側が円くはりだしていて、調子がとれていました。
結構混みあってます。