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小学生の漢字、効果的な練習に向けて

2022-05-26 02:21:57 | 学習

 漢字の練習をさせることで、漢字嫌いを作ってはいないだろうか。

 

 漢字嫌いならともかく、学習嫌いを生みかねない。

 

 そうなったら、せっかく覚えたはずの漢字を使わない子になってしまう。

 

 高学年になっても、ひらがなばかりの作文を書いてきたりする。

 

 しかし、やはり、新しい知識を覚えるためには、ある程度の繰り返しは必要である。

 

 では、どうやって、学習嫌いを生み出さずに、漢字の練習を組み立てていけばよいのか。そんなことを、経験から述べてみる。

 

 結論から言えば、漢字の練習は、文字練習ではなく、その漢字を使った言葉の練習をメインにするのである。

 

 具体的には、その漢字を使った、文節や熟語を3つぐらい書けば、十分である。欲を言うと、ゆっくり、丁寧に書くようにすると、さらに良い。

 

 さらに、その「言葉」で文章を作らせる。

 

 それで、振り返りのミニテストを課してみて、できなければ、満足できるまで、再度練習をする。





 ネットで「漢字ドリル」を検索すると、そのようなダウンロードプリントがたくさんあるので、ホッとしている。

 

 また、近年「う◯こドリル」が流行っているようだが、子どもたちが喜んで取り組むのであれば、それも良いのかも知れない。





 なぜ、「言葉の練習」かというと、漢字は、文字自体に意味をもった「表意文字」だからである。やみくもに「書く」だけの練習をさせてしまうと、その文字の意味を欠落させたままの単なる作業となってしまう。そうなると、せっかく書くことはできても、使うことができなくなってしまうのだ。その上、漢字嫌い、学習嫌いになりかねない。



 本来、新しいことを覚えたり身につけたりすることは、子どもにとって、嬉しいことであるし、その過程は楽しいものであってほしい。それが、「学習みたいに見える」苦役のトレーニングになってはいけない。

 

 そう、トレーニングや練習は、実行する本人が、「身につけたい」「覚えたい」という目的や意思をもって取り組まなければ、苦役にしかならない。多くの大人が、子どもの頃に苦しめられたであろうことは、尼崎線の脱線事故の際、ペナルティの日勤教育に漢字の書き取りがあったことが話題になったことからもうかがえる。

 

 高学年になると、漢字の画数も増え、覚える漢字(学年配当漢字)も増えるし、漢字練習帳のマス目も増える。そうなると、1行ずつ同じ漢字を書いて練習するというのは、なにか懲罰に近いものさえ感じられる。

 

 もしかすると、そうやって、一つの漢字を1行書く練習を、時間をかけて一生懸命やっている様子を見て「勉強している」と、安心して見ている保護者もいるのかもしれない。

確かに、「勉強」の本来の意味は、「本人が気がすすまないことを仕方なく行う」ということだから、合っているのかもしれない。しかし、「学び」になっているかは怪しい。



 1年生は、ひらがなを初めて習う。私自身も、小学校に上がり、ひらがなで自分の名前を書いたときには、嬉しくて、色んなところに、書いた。鏡文字になって大人に笑われたときも、悔しくて、、嘲笑を練習のモチベーションアップにもつなげていた。

 

 学校でも、同じひらがなを一行ずつ練習することも、友達と同様に熱心に取り組んだ。でも、漢字は違う。漢字を一行ずつ練習することと、ひらがなを一行ずつ練習することは、同じように見えて、全く違う要素を含んでいる。ひらがなは、その文字に意味を持たず、音だけを表す「表音文字」だからだ。

 

 ひらがなは、漢字を速く書く草書体から生まれたそうだ。昔の人も、画数の多い「漢字」に苦労していたのであろう。「安、以、宇」が「あ、い、う」となった。画数が少なく、速く書くことができる。だから、日本には文学が早くから生まれたとも言える。

 

 だからと言って、ひらがなだけで書かれた文章はとてもじゃないが読みにくいし、意味がつかみにくい。話し言葉の中にも、漢字の熟語由来の言葉がたくさん出てくる。だから、漢字の読み書きは大切である。現代は情報社会の真っ只中である。特に「読む」ことはとても重要だ。「林檎」「薔薇」「寿司」など、習っていなくても読める大人は多い。それを、書けと言われたら、私だって、戸惑ってしまう。

 

 書けなくったって、「林檎と薔薇を買って寿司屋に行った」なら、おそらく多くの大人は読めるだろう(と、思う)。それを、「りんごとばらをかってすしやにいった」では、意味をつかむのに時間がかかるし、一体何歳の子が書いたのかとかんぐってしまう。

 

 漢字の練習を通して、日本語の良さや、言葉の面白さに興味を持たせたいものだ。漢字の練習を苦行のトレーニングにしてはいけない。


5月下旬の日差し

2022-05-24 23:42:10 | 日記

 5月も下旬になると、昼間は日差しが真夏を思わせるほど暑い。しかし、日陰に入ると、乾いた風で、スーッと汗が引く。そういえば、秋の運動会を、春に移す提案をして、職員から一斉に反対されたことを思い出す。

 

 秋の運動会は9月下旬。どうしても、夏休みが終わってすぐの残暑の中で練習させることになってしまう。日陰に入っても蒸し暑く、士気も上がりにくい。それが、5月になれば、学級づくりにも役立てられるし、何と言っても、日陰は涼しい。熱中症予防のためにも、5月開催は最適であると話しても、承知してもらえなかった。

 

 「熱中症を考えるのなら、10月の中旬に開催しましょう」ということになった。他校から、児童の日除け用のテントも複数借り、万全を期していた。ところが、当日、来賓にホッカイロを配布するような肌寒さになってしまった。

 

 実は、私自身も、かつて、春の運動会開催に難色を示していたことがあった。しかし、校舎の改装工事という市の予定によって、どうしても、春の開催にせざるを得ない状況に陥ってしまった。では、春に運動会を行うにはどうすればよいのか、ということを真剣に考えることになった。

 

 せっかく春に行うのだから、秋の運動会のミニ版ではなく、春の運動会ならではのものにしなければならない。新学年に上がったばかりなのだから、学級づくりや学年づくりに役立てるものにしたい。子どもたちが、進んで練習に取り組み、自分たちで作り上げるような形にもっていきたい。同僚スタッフと、そんな知恵を絞りながら、春の運動会を作り上げた。

 

 「今までやってきたから」ということに我々はとらわれがちだ。「今まで通りにできないのなら、どうすれば良いのか」「どうやったらできるのか」と考えなければならない。

 

 さて、我が家の小さな庭に敷いた薄い人工芝が劣化してきたが、その分、だいぶ芝生で覆われてきた。また、エノコログサ、カタバミも元気よく若葉を伸ばしてきている。

 

 エノコログサは、種をたくさんつけ、次の年もそこら中がネコジャラシとなりかねない。スーッと伸びた単子葉植物特有のひょろ長い小さな葉っぱの根本から、茎を引っ張り、根ごと取り去る。うまく取れれば根がついてくるが、途中で切れてしまうものもある。

 

 もっと厄介なのが、カタバミ。ハート型のかわいいクローバーのような植物だが、可憐な姿と裏腹に、マッチ棒ぐらいの太い芋のような根を張り、ランナーまで伸ばし、芝の上を覆い尽くしてしまう。さらに、根ごと引き抜いても、プチッと切れて、少しでも根が残れば、元気に再生してくる。グリホ系の除草剤をスプレーすれば駆除ができるが、グリホサートの霧が芝の葉についてしまうと芝まで枯れてしまう。

 

 昨年そんな失敗をしてきたので、今年は、除草剤をスプレーではなく、刷毛でカタバミの葉に塗ってみた。インターロッキングの隙間から出てきている苗には、動画サイトで見た熱湯除草を試してみた。

 

 刷毛で除草剤を塗ったものは、数日後枯れてきたが、周りの芝にも液が触れたのか茶色になってきてしまった。熱湯の方は、なんと、根まで枯れたようでその後も生えてきてはいない。

 

 エノコログサの方は、芝に混ざって生えてきて除草剤も熱湯もかけられない。だから、少しずつ、初夏の日差しを受けながら、一つ一つ抜いているわけだ。

 

 夢中になって抜いていると、汗が額から目に入ってくる。日陰に入り涼んで、運動会のことを思い出していたら、腕に蚊がとまっているのを見つけた。ああ、蚊の季節になったのだ。

 

 植物も、蚊のような小さな生き物も、いよいよ活動の季節に入ってきたのだ。


交通安全

2022-05-10 00:53:46 | 日記

 運転免許の更新に行ってきた。

 

 市内の警察署で優良講習。3回目のゴールドだ。

 

 しかも、今回は、「眼鏡等」の削除。

 レイシックを行ったわけではないのに、近視が治っていたことが分かったのは2年前の眼鏡店。遠近両用メガネの新調の際、店員からの衝撃の一言。

 「前のレンズも近視の方は度が入っていませんね」

 

 え?えぇ~!? 

 

 「年齢が上がると、近視がなくなるのはよくあることなんですよ」

 

 言われてみれば、度の入っていないサングラスをしていても、外を歩くときには不便を感じたことがあまりない。本を読んだり、スマホの画面を見るときにはやはり、遠近メガネが必要だった。

 ずっと、遠両用だと思っていたのが、言ってみれば、下半分だけの老眼鏡。

 

 ならばと、運転免許の更新の際に、「眼鏡等」を外してもらおうというわけだ。

 

 そうすれば、眩しい日差しの中、ハングオンのサングラスでなくとも、普通のサングラスで運転できる。

 

 裸眼での視力検査もクリア。

 

 優良講習の20分のビデオ視聴。

 交通事故で小学生の男の子をなくした女性のエピソードに目頭が熱くなった。

 ただ、気になることが一点。信号のない横断歩道でわたろうとする歩行者がいる場合。「歩行者優先を守りましょう。」「法律でも定められています。」のナレーション。ビデオのあとの10分ほどの講習でも、「歩行者優先でお願いします」と講師の方の言葉。

 ようやく、信号のない横断歩道で、歩行者のために停止する車が徐々に増えていっているのに、まるで、「マナーを守りましょう。」と行っているかのように聞こえる。

 信号のない横断歩道で、歩行者がいるのに、停止または、徐行の義務を守らなかった場合の違反点数と反則金は、信号無視のときと同じ。反則金9000円、違反点数2点。これは、信号無視をしたときと同じなのだ。

 つまり、「マナー」なんてものじゃない。法律で定められた厳格な「ルール」なのだ。

 

 ナレーションで「法律でも定められています」と言っても、きいている方にしてみれば「努力義務」なのか「責任義務」なのか。「きっと、マナーに近いもの、努力義務」と、取りかねない。

 

以下道路交通法

(横断歩道等における歩行者等の優先)

第三十八条 車両等は、横断歩道又は自転車横断帯(以下この条において「横断歩道等」という。)に接近する場合には、当該横断歩道等を通過する際に当該横断歩道等によりその進路の前方を横断しようとする歩行者又は自転車(以下この条において「歩行者等」という。)がないことが明らかな場合を除き、当該横断歩道等の直前(道路標識等による停止線が設けられているときは、その停止線の直前。以下この項において同じ。)で停止することができるような速度で進行しなければならない。この場合において、横断歩道等によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。

 車両等は、横断歩道等(当該車両等が通過する際に信号機の表示する信号又は警察官等の手信号等により当該横断歩道等による歩行者等の横断が禁止されているものを除く。次項において同じ。)又はその手前の直前で停止している車両等がある場合において、当該停止している車両等の側方を通過してその前方に出ようとするときは、その前方に出る前に一時停止しなければならない。

 車両等は、横断歩道等及びその手前の側端から前に三十メートル以内の道路の部分においては、第三十条第三号の規定に該当する場合のほか、その前方を進行している他の車両等(軽車両を除く。)の側方を通過してその前方に出てはならない。

(罰則 第百十九条第一項第二号、同条第二項)

(横断歩道のない交差点における歩行者の優先)

第三十八条の二 車両等は、交差点又はその直近で横断歩道の設けられていない場所において歩行者が道路を横断しているときは、その歩行者の通行を妨げてはならない。

(罰則 第百十九条第一項第二号の二)

 

 信号のない横断歩道。道路にペイントがしてある。道路標識も立っている。手前にひし形のペイントで注意も促している。コストがかかっているのである。それを渡ろうとする歩行者がいても、何事もなかったかのように通り過ぎるドライバーがたくさんいる。これでは、横断歩道の意味がない。



 歩行者にしても、横断歩道が近くにあっても、車がいなくなったのを見計らって、そのまま横断歩道でないところを横断する歩行者。こちらは、「歩行者免許」の講習を受けたわけではないので、咎められる筋合いはないだろう。

 

 朝の登校時、交通指導員が、信号のない横断歩道で、車を止めて子どもたちを渡してくれるという学校に勤務していた。その子達が大人になって、車を運転するようになったら、きっと、信号のない横断歩道で、渡ろうとする歩行者がいれば停止するドライバーになるだろう。

 逆に、近隣とのトラブルを避けるために(交通指導員は地域の方が多いようだ)、車がいなくなるまで、子どもたちを待たせて、安全に渡そうとする交通指導員がいたら、子どもたちは、将来どうなるだろう。

 

 無事、免許証の「眼鏡等」は外された。今後は、ハングオンでないサングラスで車が運転できる。


使わないものは、使えるようにならない

2022-05-07 23:19:07 | 学習

 中学高校大学と10年以上英語を勉強しているはずなのに、ちっとも英語を喋れない。

 いくら長い期間学んだとしても、使わないものは使えるようにならないのだ。

 思い出すのは、若いときに旅行したオーストラリア。観光や買い物、ホテルで、なんとか英語で対応することができた(ような気がする)。英語での対応と言っても、「◯◯ぷりーず」「さんきゅう」「あいべっぐゆあぱぁどぅん」「すぴーくそろーりぃ」ぐらいの言葉しか喋っていない。

 その中でも、「さんきゅう」を一番たくさん声に出していた。ホテルのフロントで受付を済ませて「さんきゅう」。荷物を持ってきてもらって「さんきゅう」。レストランでオーダーをして「さんきゅう」。料理を持ってきてもらって「さんきゅう」。タクシーに乗って「さんきゅう」。降りて「さんきゅう」。

 コミュニケーションというと恥ずかしいくらいの発話だ。しかも、ようやく日本に戻ってきて、ファミレスに入ったら、水をもってきてくれたウェイトレスに、思わず「さんきゅう」と言ってしまうというおまけまで。

 

 還暦を過ぎた今は、英語のヒアリングどころか、スピーキングさえおぼつかない。LとRの区別もわからないし、thの発音も意識できない。十数年前に学校教育に入ってきた外国語実習助手のイギリス人や、米国人にたいしても、日本語で挨拶を交わす始末。

 「使わないものは使えるようにならない」のである。当たり前だが、英語圏では、生活上、使っているからこそ、子どもでも英語を話す。津軽地方では、全国放送で標準語に日常触れていても、子どもは津軽なまりになる。

 しかし、地方の子どもたちだって、東京に出て生活しだすと、標準語になってくる。社会生活上、標準語でのコミュニケーションを使い慣れていくからだ。使えば使えるようになるのだ。

 

 通常、初めは序数としてしか数を認識できていない子でも、具体物や絵図などとともに、抽象的な基数認識に変わり、通常の算数の授業に参加できるようになる。ところが、小学校高学年になっても、序数認識から抜け出せない子が現実にいるのだ。そういう子にとって、算数の時間は、マジックのように映るのかもしれない。17足す23の答えを瞬時に40と答える友達の頭の中や、その計算のルールを魔法のように見ている。

 一概には言えないが、12引く7の答えを、2から7は引けないから7から2を引く(大きい数から小さい数を引く)という、自分ができる方法を簡単に選んでしまうようなことも起きる。

 そういう子は、「私は、数を序数としてしか認識できていません。」と大人に伝える術を持たない。大人の方でも、「その子がどんな数認識をしているのか」という観点で見ることは殆どない。意識して見つけてあげなければならないのだ。

 

 「使わなければ使えるようにならない」は、「使うことによって使えるようになる」ことでもある。前回言及したが、フランスの九九だ。(五の段までしか行わないので、「九九」という言い方も語弊がある。「掛け算」だと広すぎるし・・・)

 5の段までしか暗記しないのに、どうやって6×8などを計算するのか。それは、指計算機だという。例えば、6×8なら、左手で6を表すために、小指の1本を立てる。右手で8を表すために、小指、薬指、中指の3本を立てる。立てている指は10の位で足して40。折っている指を掛け算して4×2で8。それを足すと48となる。

 なんだか複雑に思えるかもしれないが、それを日常使っていれば、車のギアチェンジをレバーを見ないで行えることと同様、当たり前に計算できる。日々使うことによって、それが当たり前になるのである。

 それで、フランス人が算数や数学が不得意というわけではないようだ。グーグルで検索すると、数学のノーベル賞とも言われているフィールズ賞受賞者の数は、米国についで世界第2位と分かる。(ちなみに日本は第5位)

 これは、私見に過ぎないが、暗記のみで九九を覚えることに比べ、フランスの指計算機は、6以上の掛け算九九で足し算や位取りという概念を使うため、小学校低学年から、基数としての数認識に自然に慣れていくのではないかと思う。

 30の段まで掛け算を覚えるインドは、同じく数学のノーベル賞と言われるアーベル賞の7位に食い込んでいる。インドの初歩の数学は、また、ちょっと違った意味で数に触れる楽しさを味わわせる工夫もあるようだ。残念ながら、日本のアーベル賞受賞者は、まだいない。

 

 連休中に再放送のあった「カムカムイングリッシュ」。ラジオ英会話の講師が「みんな英語の赤ちゃん」というような言葉を使っていた。今は、日常的にスマホで英語学習のアプリも使える。私も、ハイハイの状態の英語から、少しずつ英語が話せるようにしていきたい。

 毎日、少しずつ。使わないものは使えるようにならない、と、改めて肝に銘じて・・・。って、それが難しいのだ。


cognition 認識

2022-05-06 23:09:28 | 学習

 認識とは、「物事をはっきりと見分け、判断すること。そういうふうにして物事を知る、心の働き。また、その知った事柄。」(Oxford Languagesより)

 英語ではcognitionという。

 次のような文字をある研修で知った。「みなさん、読めますか?」と問いかけられたものの、トト・・・?と、他の研修生同様、読めなかった。

 

 答えは、

「トトロ」

 黒い線を読むのではなく、白いところを読む。そのように説明しても読めない人も何人もいる。周りも白いから、どうしても、黒を読んでしまうようだ。

 その研修では、「教室で、絵や、文字を提示しても、このように、違った認識をしている子がいると考えるべき」と教えられた。

 指導する側が「当たり前」に、自分と同じように物事を認識していると、子どもたちが思っていては、大きな落とし穴に陥ってしまう、ということだ。

 認識の違いは、学習経験や生活経験が大きく関わってくるのではないだろうか。

 

 例えば、次のように、子どもたちの生活経験と、指導者の生活経験が一致するだろうか。

 

 子どもたちのお小遣い。金融庁の調査(2015年)では、小学生の約73%がお小遣いを貰っているようだ。

 そのうち、半数以上の57%ほどが、「ときどきもらう」となっている。これは、必要に応じて貰っているということが多いのではないかと思われる。

これは、逆に考えると、約6割近くの子が、定期的にお小遣いをもらう習慣がないということになる。

 しかも、「ときどきもらう」子のうち、もらう金額は低・中学年の金額の最頻値は100円。高学年になると1000円とアップする。定期的にお小遣いをもらう子たちの最頻値は低中高学年とも500円である。

 子どもの貧困という問題もあり、一概には言えないが、100円から1000円にアップするような状況は次のようには考えられないだろうか。つまり、定期的に小遣いをもらっていない子は、往々にして「好きなときにねだればもらえている」。貧困とは間逆な子どもたちがたくさんいるとも言える。

 不定期で、100円単位で親からお金をもらっていた子が、高学年になると、友達と見合うだけの買い物をする必要があり、一気にその10倍の金額さえ与えられるようになるのだ。

 

 今は、駄菓子屋も少なくなり、子どもたちが駄菓子を自分で買うならコンビニ。それも、私が住んでいる田舎のようなところでは、親同伴で、買ってもらうということが自然のようだ。不審者への対応から、子どもだけで外出することがあまり歓迎されない世の中になってきていることもあるのだろう。

 このことから、子どもたちが大切にされるのはとても良いことだ。しかし、子どもたちが、自分の財布の中身と相談して、買えるもの買えないもの、足りない金額など、考えながら購入する経験が少なくなってきているとも想像できる。

 さらに、キャッシュレスである。スマホやプリペイドカードをどれだけの子どもたちが使っているかは分からない。それでも、1円、5円、10円といった硬貨を数える経験が殆どない子がいることは想像できる。

 それは、「1円が10個集まって10円」「5円硬貨1枚と1円硬貨4枚で9円」という生活経験が希薄になってしまうことを意味する。言い換えれば、生活の中で、「数を数える」「数を基数として認識する」ことが少なくなっているということだ。

 そういう子達の中には、おはじきを4つ見せても、「イチ、ニィ、サン、シィ」と指を指しながら数えないと「4」といえない子がいる。その子にとって、「数」は順番なのだ。私たちが「アルファベットでFは何番目」と聞かれて、指を折って順番を確かめるのと一緒だ。

 順番としての数を「序数」という。序数認識で、算数の学習に参加していても、1年生のうちは指を折りながらなんとかしのいでいるかもしれない。それに、「2,8,10」「3,7、10」「4,6,10」といった、「合わせて10になる」補数の学習で、ややホッとする。暗記だからだ。教師によっては、きちんと10玉そろばんを使って、視覚的に提示しながら丁寧に指導することも多い。それでも、提示された基数としてのそろばんの玉と、口にしている序数の関連が希薄な子もいるだろう。

 

 このように、指導する側が、当たり前に「基数」として指導していても、子どもの方で「序数」としか認識していなかった場合、ボタンの掛け違いよろしく、いつまで経っても、子どもの計算力はついていかない。



 「序数」認識で指を折っていって足し算や引き算をすることには限界が来る。指が足りなくなったり、数が多すぎたりして、いくつまで数えたかわからなくなったりするからだ。そのため、「算数が苦手な子」として、「おはじきを使って計算してもいいよ」とアドバイスを貰えることもある。おはじきを使って、基数の認識に変容できればしめたものだが、高学年になっても、順番としての数認識から出られない子もいる。そういう子は、算数の(特に計算の)時間は「じっと我慢の時間」となってしまうのだろう。

 

 我慢の時間といえば、鉄棒を思い出す。

 「逆上がり」は小学生の鉄棒で避けて通れない技の1つだ。どんなに頑張ってもできない子もいる。できないからと言って、おとなになって生活に困ることもない。しかし、できたときの達成感を味わわせたくて、指導する側も、応援する友達も一生懸命になる。達成感や成就感は、その後の学習や生活全体のモチベーションにつながり、学力そのものをも支える。だから、教師は、補助版を使ったり、補助ベルトを使ったりと工夫をする。

 高学年になっても「逆上がり」ができない子の中には、「前回り下り」という基本の動きさえ怖がってできない子がいる。「逆さ」姿勢そのものが怖いのである。

 その子にとって、体育の「鉄棒」は、じっと我慢の時間となっていたのだろう。低学年からずっと、鉄棒のときには、なんとか技に挑戦しようとしてみたものの、恐怖心の方が彼を抱え込んで離さなかったに違いない。

 順番としての数、序数認識の子は、そうやって算数の時間が我慢の時間になる。

 

 ところが、2年生になると、九九が出てくる。九九だけなら、暗記で済むことなのである。「補数」の練習の時のように、ホッとする子がでてくる。保護者のみならず、指導する側も「暗記」することに力を入れる。ラジオ体操カードのように、その段がクリアできれば(間違えずに暗唱できれば)シールをあげるといったことも行われる。(英国では12の段まであるから、それにも挑戦しよう、なんて教室もあるかもしれない。ちなみに、インドでは30の段まであるらしい。)

 「なんだ、1年生の後半から算数が不得意だと思っていたのに、九九ができれば大したものじゃないか」と序数認識の子が見過ごされてしまうのだ。

 

 もちろん、学校の教員は、九九を暗唱できるようにするだけでなく、絵やアレイ図を使って基数としての数の認識と、「いくつ分」という考えを定着させようと工夫する。具体的には、「◯個の列が、△列分あるから、◯×△=▢」というように。

 その具体的な絵やアレイ図が抽象的な「数」の基として対応できる子は、すんなりと理解できるが、そうでない子もいるのだ。2も3も6も7もあくまで2番め、3番目、6番目、7番目という具体でしかない。アレイ図は、すぐには数え切れないし、きっと、「なんだか、わからない」のだ。

 教える側も、「絵や図を使って、こんなに丁寧に指導しているから、分かるはずだ」と信じて疑わないところがある。「何がわからないか、わからない」のである。まさに、認識の違いである。