漢字の練習をさせることで、漢字嫌いを作ってはいないだろうか。
漢字嫌いならともかく、学習嫌いを生みかねない。
そうなったら、せっかく覚えたはずの漢字を使わない子になってしまう。
高学年になっても、ひらがなばかりの作文を書いてきたりする。
しかし、やはり、新しい知識を覚えるためには、ある程度の繰り返しは必要である。
では、どうやって、学習嫌いを生み出さずに、漢字の練習を組み立てていけばよいのか。そんなことを、経験から述べてみる。
結論から言えば、漢字の練習は、文字練習ではなく、その漢字を使った言葉の練習をメインにするのである。
具体的には、その漢字を使った、文節や熟語を3つぐらい書けば、十分である。欲を言うと、ゆっくり、丁寧に書くようにすると、さらに良い。
さらに、その「言葉」で文章を作らせる。
それで、振り返りのミニテストを課してみて、できなければ、満足できるまで、再度練習をする。
ネットで「漢字ドリル」を検索すると、そのようなダウンロードプリントがたくさんあるので、ホッとしている。
また、近年「う◯こドリル」が流行っているようだが、子どもたちが喜んで取り組むのであれば、それも良いのかも知れない。
なぜ、「言葉の練習」かというと、漢字は、文字自体に意味をもった「表意文字」だからである。やみくもに「書く」だけの練習をさせてしまうと、その文字の意味を欠落させたままの単なる作業となってしまう。そうなると、せっかく書くことはできても、使うことができなくなってしまうのだ。その上、漢字嫌い、学習嫌いになりかねない。
本来、新しいことを覚えたり身につけたりすることは、子どもにとって、嬉しいことであるし、その過程は楽しいものであってほしい。それが、「学習みたいに見える」苦役のトレーニングになってはいけない。
そう、トレーニングや練習は、実行する本人が、「身につけたい」「覚えたい」という目的や意思をもって取り組まなければ、苦役にしかならない。多くの大人が、子どもの頃に苦しめられたであろうことは、尼崎線の脱線事故の際、ペナルティの日勤教育に漢字の書き取りがあったことが話題になったことからもうかがえる。
高学年になると、漢字の画数も増え、覚える漢字(学年配当漢字)も増えるし、漢字練習帳のマス目も増える。そうなると、1行ずつ同じ漢字を書いて練習するというのは、なにか懲罰に近いものさえ感じられる。
もしかすると、そうやって、一つの漢字を1行書く練習を、時間をかけて一生懸命やっている様子を見て「勉強している」と、安心して見ている保護者もいるのかもしれない。
確かに、「勉強」の本来の意味は、「本人が気がすすまないことを仕方なく行う」ということだから、合っているのかもしれない。しかし、「学び」になっているかは怪しい。
1年生は、ひらがなを初めて習う。私自身も、小学校に上がり、ひらがなで自分の名前を書いたときには、嬉しくて、色んなところに、書いた。鏡文字になって大人に笑われたときも、悔しくて、、嘲笑を練習のモチベーションアップにもつなげていた。
学校でも、同じひらがなを一行ずつ練習することも、友達と同様に熱心に取り組んだ。でも、漢字は違う。漢字を一行ずつ練習することと、ひらがなを一行ずつ練習することは、同じように見えて、全く違う要素を含んでいる。ひらがなは、その文字に意味を持たず、音だけを表す「表音文字」だからだ。
ひらがなは、漢字を速く書く草書体から生まれたそうだ。昔の人も、画数の多い「漢字」に苦労していたのであろう。「安、以、宇」が「あ、い、う」となった。画数が少なく、速く書くことができる。だから、日本には文学が早くから生まれたとも言える。
だからと言って、ひらがなだけで書かれた文章はとてもじゃないが読みにくいし、意味がつかみにくい。話し言葉の中にも、漢字の熟語由来の言葉がたくさん出てくる。だから、漢字の読み書きは大切である。現代は情報社会の真っ只中である。特に「読む」ことはとても重要だ。「林檎」「薔薇」「寿司」など、習っていなくても読める大人は多い。それを、書けと言われたら、私だって、戸惑ってしまう。
書けなくったって、「林檎と薔薇を買って寿司屋に行った」なら、おそらく多くの大人は読めるだろう(と、思う)。それを、「りんごとばらをかってすしやにいった」では、意味をつかむのに時間がかかるし、一体何歳の子が書いたのかとかんぐってしまう。
漢字の練習を通して、日本語の良さや、言葉の面白さに興味を持たせたいものだ。漢字の練習を苦行のトレーニングにしてはいけない。
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