中学高校大学と10年以上英語を勉強しているはずなのに、ちっとも英語を喋れない。
いくら長い期間学んだとしても、使わないものは使えるようにならないのだ。
思い出すのは、若いときに旅行したオーストラリア。観光や買い物、ホテルで、なんとか英語で対応することができた(ような気がする)。英語での対応と言っても、「◯◯ぷりーず」「さんきゅう」「あいべっぐゆあぱぁどぅん」「すぴーくそろーりぃ」ぐらいの言葉しか喋っていない。
その中でも、「さんきゅう」を一番たくさん声に出していた。ホテルのフロントで受付を済ませて「さんきゅう」。荷物を持ってきてもらって「さんきゅう」。レストランでオーダーをして「さんきゅう」。料理を持ってきてもらって「さんきゅう」。タクシーに乗って「さんきゅう」。降りて「さんきゅう」。
コミュニケーションというと恥ずかしいくらいの発話だ。しかも、ようやく日本に戻ってきて、ファミレスに入ったら、水をもってきてくれたウェイトレスに、思わず「さんきゅう」と言ってしまうというおまけまで。
還暦を過ぎた今は、英語のヒアリングどころか、スピーキングさえおぼつかない。LとRの区別もわからないし、thの発音も意識できない。十数年前に学校教育に入ってきた外国語実習助手のイギリス人や、米国人にたいしても、日本語で挨拶を交わす始末。
「使わないものは使えるようにならない」のである。当たり前だが、英語圏では、生活上、使っているからこそ、子どもでも英語を話す。津軽地方では、全国放送で標準語に日常触れていても、子どもは津軽なまりになる。
しかし、地方の子どもたちだって、東京に出て生活しだすと、標準語になってくる。社会生活上、標準語でのコミュニケーションを使い慣れていくからだ。使えば使えるようになるのだ。
通常、初めは序数としてしか数を認識できていない子でも、具体物や絵図などとともに、抽象的な基数認識に変わり、通常の算数の授業に参加できるようになる。ところが、小学校高学年になっても、序数認識から抜け出せない子が現実にいるのだ。そういう子にとって、算数の時間は、マジックのように映るのかもしれない。17足す23の答えを瞬時に40と答える友達の頭の中や、その計算のルールを魔法のように見ている。
一概には言えないが、12引く7の答えを、2から7は引けないから7から2を引く(大きい数から小さい数を引く)という、自分ができる方法を簡単に選んでしまうようなことも起きる。
そういう子は、「私は、数を序数としてしか認識できていません。」と大人に伝える術を持たない。大人の方でも、「その子がどんな数認識をしているのか」という観点で見ることは殆どない。意識して見つけてあげなければならないのだ。
「使わなければ使えるようにならない」は、「使うことによって使えるようになる」ことでもある。前回言及したが、フランスの九九だ。(五の段までしか行わないので、「九九」という言い方も語弊がある。「掛け算」だと広すぎるし・・・)
5の段までしか暗記しないのに、どうやって6×8などを計算するのか。それは、指計算機だという。例えば、6×8なら、左手で6を表すために、小指の1本を立てる。右手で8を表すために、小指、薬指、中指の3本を立てる。立てている指は10の位で足して40。折っている指を掛け算して4×2で8。それを足すと48となる。
なんだか複雑に思えるかもしれないが、それを日常使っていれば、車のギアチェンジをレバーを見ないで行えることと同様、当たり前に計算できる。日々使うことによって、それが当たり前になるのである。
それで、フランス人が算数や数学が不得意というわけではないようだ。グーグルで検索すると、数学のノーベル賞とも言われているフィールズ賞受賞者の数は、米国についで世界第2位と分かる。(ちなみに日本は第5位)
これは、私見に過ぎないが、暗記のみで九九を覚えることに比べ、フランスの指計算機は、6以上の掛け算九九で足し算や位取りという概念を使うため、小学校低学年から、基数としての数認識に自然に慣れていくのではないかと思う。
30の段まで掛け算を覚えるインドは、同じく数学のノーベル賞と言われるアーベル賞の7位に食い込んでいる。インドの初歩の数学は、また、ちょっと違った意味で数に触れる楽しさを味わわせる工夫もあるようだ。残念ながら、日本のアーベル賞受賞者は、まだいない。
連休中に再放送のあった「カムカムイングリッシュ」。ラジオ英会話の講師が「みんな英語の赤ちゃん」というような言葉を使っていた。今は、日常的にスマホで英語学習のアプリも使える。私も、ハイハイの状態の英語から、少しずつ英語が話せるようにしていきたい。
毎日、少しずつ。使わないものは使えるようにならない、と、改めて肝に銘じて・・・。って、それが難しいのだ。
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