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小学生の漢字、効果的な練習に向けて

2022-05-26 02:21:57 | 学習

 漢字の練習をさせることで、漢字嫌いを作ってはいないだろうか。

 

 漢字嫌いならともかく、学習嫌いを生みかねない。

 

 そうなったら、せっかく覚えたはずの漢字を使わない子になってしまう。

 

 高学年になっても、ひらがなばかりの作文を書いてきたりする。

 

 しかし、やはり、新しい知識を覚えるためには、ある程度の繰り返しは必要である。

 

 では、どうやって、学習嫌いを生み出さずに、漢字の練習を組み立てていけばよいのか。そんなことを、経験から述べてみる。

 

 結論から言えば、漢字の練習は、文字練習ではなく、その漢字を使った言葉の練習をメインにするのである。

 

 具体的には、その漢字を使った、文節や熟語を3つぐらい書けば、十分である。欲を言うと、ゆっくり、丁寧に書くようにすると、さらに良い。

 

 さらに、その「言葉」で文章を作らせる。

 

 それで、振り返りのミニテストを課してみて、できなければ、満足できるまで、再度練習をする。





 ネットで「漢字ドリル」を検索すると、そのようなダウンロードプリントがたくさんあるので、ホッとしている。

 

 また、近年「う◯こドリル」が流行っているようだが、子どもたちが喜んで取り組むのであれば、それも良いのかも知れない。





 なぜ、「言葉の練習」かというと、漢字は、文字自体に意味をもった「表意文字」だからである。やみくもに「書く」だけの練習をさせてしまうと、その文字の意味を欠落させたままの単なる作業となってしまう。そうなると、せっかく書くことはできても、使うことができなくなってしまうのだ。その上、漢字嫌い、学習嫌いになりかねない。



 本来、新しいことを覚えたり身につけたりすることは、子どもにとって、嬉しいことであるし、その過程は楽しいものであってほしい。それが、「学習みたいに見える」苦役のトレーニングになってはいけない。

 

 そう、トレーニングや練習は、実行する本人が、「身につけたい」「覚えたい」という目的や意思をもって取り組まなければ、苦役にしかならない。多くの大人が、子どもの頃に苦しめられたであろうことは、尼崎線の脱線事故の際、ペナルティの日勤教育に漢字の書き取りがあったことが話題になったことからもうかがえる。

 

 高学年になると、漢字の画数も増え、覚える漢字(学年配当漢字)も増えるし、漢字練習帳のマス目も増える。そうなると、1行ずつ同じ漢字を書いて練習するというのは、なにか懲罰に近いものさえ感じられる。

 

 もしかすると、そうやって、一つの漢字を1行書く練習を、時間をかけて一生懸命やっている様子を見て「勉強している」と、安心して見ている保護者もいるのかもしれない。

確かに、「勉強」の本来の意味は、「本人が気がすすまないことを仕方なく行う」ということだから、合っているのかもしれない。しかし、「学び」になっているかは怪しい。



 1年生は、ひらがなを初めて習う。私自身も、小学校に上がり、ひらがなで自分の名前を書いたときには、嬉しくて、色んなところに、書いた。鏡文字になって大人に笑われたときも、悔しくて、、嘲笑を練習のモチベーションアップにもつなげていた。

 

 学校でも、同じひらがなを一行ずつ練習することも、友達と同様に熱心に取り組んだ。でも、漢字は違う。漢字を一行ずつ練習することと、ひらがなを一行ずつ練習することは、同じように見えて、全く違う要素を含んでいる。ひらがなは、その文字に意味を持たず、音だけを表す「表音文字」だからだ。

 

 ひらがなは、漢字を速く書く草書体から生まれたそうだ。昔の人も、画数の多い「漢字」に苦労していたのであろう。「安、以、宇」が「あ、い、う」となった。画数が少なく、速く書くことができる。だから、日本には文学が早くから生まれたとも言える。

 

 だからと言って、ひらがなだけで書かれた文章はとてもじゃないが読みにくいし、意味がつかみにくい。話し言葉の中にも、漢字の熟語由来の言葉がたくさん出てくる。だから、漢字の読み書きは大切である。現代は情報社会の真っ只中である。特に「読む」ことはとても重要だ。「林檎」「薔薇」「寿司」など、習っていなくても読める大人は多い。それを、書けと言われたら、私だって、戸惑ってしまう。

 

 書けなくったって、「林檎と薔薇を買って寿司屋に行った」なら、おそらく多くの大人は読めるだろう(と、思う)。それを、「りんごとばらをかってすしやにいった」では、意味をつかむのに時間がかかるし、一体何歳の子が書いたのかとかんぐってしまう。

 

 漢字の練習を通して、日本語の良さや、言葉の面白さに興味を持たせたいものだ。漢字の練習を苦行のトレーニングにしてはいけない。


使わないものは、使えるようにならない

2022-05-07 23:19:07 | 学習

 中学高校大学と10年以上英語を勉強しているはずなのに、ちっとも英語を喋れない。

 いくら長い期間学んだとしても、使わないものは使えるようにならないのだ。

 思い出すのは、若いときに旅行したオーストラリア。観光や買い物、ホテルで、なんとか英語で対応することができた(ような気がする)。英語での対応と言っても、「◯◯ぷりーず」「さんきゅう」「あいべっぐゆあぱぁどぅん」「すぴーくそろーりぃ」ぐらいの言葉しか喋っていない。

 その中でも、「さんきゅう」を一番たくさん声に出していた。ホテルのフロントで受付を済ませて「さんきゅう」。荷物を持ってきてもらって「さんきゅう」。レストランでオーダーをして「さんきゅう」。料理を持ってきてもらって「さんきゅう」。タクシーに乗って「さんきゅう」。降りて「さんきゅう」。

 コミュニケーションというと恥ずかしいくらいの発話だ。しかも、ようやく日本に戻ってきて、ファミレスに入ったら、水をもってきてくれたウェイトレスに、思わず「さんきゅう」と言ってしまうというおまけまで。

 

 還暦を過ぎた今は、英語のヒアリングどころか、スピーキングさえおぼつかない。LとRの区別もわからないし、thの発音も意識できない。十数年前に学校教育に入ってきた外国語実習助手のイギリス人や、米国人にたいしても、日本語で挨拶を交わす始末。

 「使わないものは使えるようにならない」のである。当たり前だが、英語圏では、生活上、使っているからこそ、子どもでも英語を話す。津軽地方では、全国放送で標準語に日常触れていても、子どもは津軽なまりになる。

 しかし、地方の子どもたちだって、東京に出て生活しだすと、標準語になってくる。社会生活上、標準語でのコミュニケーションを使い慣れていくからだ。使えば使えるようになるのだ。

 

 通常、初めは序数としてしか数を認識できていない子でも、具体物や絵図などとともに、抽象的な基数認識に変わり、通常の算数の授業に参加できるようになる。ところが、小学校高学年になっても、序数認識から抜け出せない子が現実にいるのだ。そういう子にとって、算数の時間は、マジックのように映るのかもしれない。17足す23の答えを瞬時に40と答える友達の頭の中や、その計算のルールを魔法のように見ている。

 一概には言えないが、12引く7の答えを、2から7は引けないから7から2を引く(大きい数から小さい数を引く)という、自分ができる方法を簡単に選んでしまうようなことも起きる。

 そういう子は、「私は、数を序数としてしか認識できていません。」と大人に伝える術を持たない。大人の方でも、「その子がどんな数認識をしているのか」という観点で見ることは殆どない。意識して見つけてあげなければならないのだ。

 

 「使わなければ使えるようにならない」は、「使うことによって使えるようになる」ことでもある。前回言及したが、フランスの九九だ。(五の段までしか行わないので、「九九」という言い方も語弊がある。「掛け算」だと広すぎるし・・・)

 5の段までしか暗記しないのに、どうやって6×8などを計算するのか。それは、指計算機だという。例えば、6×8なら、左手で6を表すために、小指の1本を立てる。右手で8を表すために、小指、薬指、中指の3本を立てる。立てている指は10の位で足して40。折っている指を掛け算して4×2で8。それを足すと48となる。

 なんだか複雑に思えるかもしれないが、それを日常使っていれば、車のギアチェンジをレバーを見ないで行えることと同様、当たり前に計算できる。日々使うことによって、それが当たり前になるのである。

 それで、フランス人が算数や数学が不得意というわけではないようだ。グーグルで検索すると、数学のノーベル賞とも言われているフィールズ賞受賞者の数は、米国についで世界第2位と分かる。(ちなみに日本は第5位)

 これは、私見に過ぎないが、暗記のみで九九を覚えることに比べ、フランスの指計算機は、6以上の掛け算九九で足し算や位取りという概念を使うため、小学校低学年から、基数としての数認識に自然に慣れていくのではないかと思う。

 30の段まで掛け算を覚えるインドは、同じく数学のノーベル賞と言われるアーベル賞の7位に食い込んでいる。インドの初歩の数学は、また、ちょっと違った意味で数に触れる楽しさを味わわせる工夫もあるようだ。残念ながら、日本のアーベル賞受賞者は、まだいない。

 

 連休中に再放送のあった「カムカムイングリッシュ」。ラジオ英会話の講師が「みんな英語の赤ちゃん」というような言葉を使っていた。今は、日常的にスマホで英語学習のアプリも使える。私も、ハイハイの状態の英語から、少しずつ英語が話せるようにしていきたい。

 毎日、少しずつ。使わないものは使えるようにならない、と、改めて肝に銘じて・・・。って、それが難しいのだ。


cognition 認識

2022-05-06 23:09:28 | 学習

 認識とは、「物事をはっきりと見分け、判断すること。そういうふうにして物事を知る、心の働き。また、その知った事柄。」(Oxford Languagesより)

 英語ではcognitionという。

 次のような文字をある研修で知った。「みなさん、読めますか?」と問いかけられたものの、トト・・・?と、他の研修生同様、読めなかった。

 

 答えは、

「トトロ」

 黒い線を読むのではなく、白いところを読む。そのように説明しても読めない人も何人もいる。周りも白いから、どうしても、黒を読んでしまうようだ。

 その研修では、「教室で、絵や、文字を提示しても、このように、違った認識をしている子がいると考えるべき」と教えられた。

 指導する側が「当たり前」に、自分と同じように物事を認識していると、子どもたちが思っていては、大きな落とし穴に陥ってしまう、ということだ。

 認識の違いは、学習経験や生活経験が大きく関わってくるのではないだろうか。

 

 例えば、次のように、子どもたちの生活経験と、指導者の生活経験が一致するだろうか。

 

 子どもたちのお小遣い。金融庁の調査(2015年)では、小学生の約73%がお小遣いを貰っているようだ。

 そのうち、半数以上の57%ほどが、「ときどきもらう」となっている。これは、必要に応じて貰っているということが多いのではないかと思われる。

これは、逆に考えると、約6割近くの子が、定期的にお小遣いをもらう習慣がないということになる。

 しかも、「ときどきもらう」子のうち、もらう金額は低・中学年の金額の最頻値は100円。高学年になると1000円とアップする。定期的にお小遣いをもらう子たちの最頻値は低中高学年とも500円である。

 子どもの貧困という問題もあり、一概には言えないが、100円から1000円にアップするような状況は次のようには考えられないだろうか。つまり、定期的に小遣いをもらっていない子は、往々にして「好きなときにねだればもらえている」。貧困とは間逆な子どもたちがたくさんいるとも言える。

 不定期で、100円単位で親からお金をもらっていた子が、高学年になると、友達と見合うだけの買い物をする必要があり、一気にその10倍の金額さえ与えられるようになるのだ。

 

 今は、駄菓子屋も少なくなり、子どもたちが駄菓子を自分で買うならコンビニ。それも、私が住んでいる田舎のようなところでは、親同伴で、買ってもらうということが自然のようだ。不審者への対応から、子どもだけで外出することがあまり歓迎されない世の中になってきていることもあるのだろう。

 このことから、子どもたちが大切にされるのはとても良いことだ。しかし、子どもたちが、自分の財布の中身と相談して、買えるもの買えないもの、足りない金額など、考えながら購入する経験が少なくなってきているとも想像できる。

 さらに、キャッシュレスである。スマホやプリペイドカードをどれだけの子どもたちが使っているかは分からない。それでも、1円、5円、10円といった硬貨を数える経験が殆どない子がいることは想像できる。

 それは、「1円が10個集まって10円」「5円硬貨1枚と1円硬貨4枚で9円」という生活経験が希薄になってしまうことを意味する。言い換えれば、生活の中で、「数を数える」「数を基数として認識する」ことが少なくなっているということだ。

 そういう子達の中には、おはじきを4つ見せても、「イチ、ニィ、サン、シィ」と指を指しながら数えないと「4」といえない子がいる。その子にとって、「数」は順番なのだ。私たちが「アルファベットでFは何番目」と聞かれて、指を折って順番を確かめるのと一緒だ。

 順番としての数を「序数」という。序数認識で、算数の学習に参加していても、1年生のうちは指を折りながらなんとかしのいでいるかもしれない。それに、「2,8,10」「3,7、10」「4,6,10」といった、「合わせて10になる」補数の学習で、ややホッとする。暗記だからだ。教師によっては、きちんと10玉そろばんを使って、視覚的に提示しながら丁寧に指導することも多い。それでも、提示された基数としてのそろばんの玉と、口にしている序数の関連が希薄な子もいるだろう。

 

 このように、指導する側が、当たり前に「基数」として指導していても、子どもの方で「序数」としか認識していなかった場合、ボタンの掛け違いよろしく、いつまで経っても、子どもの計算力はついていかない。



 「序数」認識で指を折っていって足し算や引き算をすることには限界が来る。指が足りなくなったり、数が多すぎたりして、いくつまで数えたかわからなくなったりするからだ。そのため、「算数が苦手な子」として、「おはじきを使って計算してもいいよ」とアドバイスを貰えることもある。おはじきを使って、基数の認識に変容できればしめたものだが、高学年になっても、順番としての数認識から出られない子もいる。そういう子は、算数の(特に計算の)時間は「じっと我慢の時間」となってしまうのだろう。

 

 我慢の時間といえば、鉄棒を思い出す。

 「逆上がり」は小学生の鉄棒で避けて通れない技の1つだ。どんなに頑張ってもできない子もいる。できないからと言って、おとなになって生活に困ることもない。しかし、できたときの達成感を味わわせたくて、指導する側も、応援する友達も一生懸命になる。達成感や成就感は、その後の学習や生活全体のモチベーションにつながり、学力そのものをも支える。だから、教師は、補助版を使ったり、補助ベルトを使ったりと工夫をする。

 高学年になっても「逆上がり」ができない子の中には、「前回り下り」という基本の動きさえ怖がってできない子がいる。「逆さ」姿勢そのものが怖いのである。

 その子にとって、体育の「鉄棒」は、じっと我慢の時間となっていたのだろう。低学年からずっと、鉄棒のときには、なんとか技に挑戦しようとしてみたものの、恐怖心の方が彼を抱え込んで離さなかったに違いない。

 順番としての数、序数認識の子は、そうやって算数の時間が我慢の時間になる。

 

 ところが、2年生になると、九九が出てくる。九九だけなら、暗記で済むことなのである。「補数」の練習の時のように、ホッとする子がでてくる。保護者のみならず、指導する側も「暗記」することに力を入れる。ラジオ体操カードのように、その段がクリアできれば(間違えずに暗唱できれば)シールをあげるといったことも行われる。(英国では12の段まであるから、それにも挑戦しよう、なんて教室もあるかもしれない。ちなみに、インドでは30の段まであるらしい。)

 「なんだ、1年生の後半から算数が不得意だと思っていたのに、九九ができれば大したものじゃないか」と序数認識の子が見過ごされてしまうのだ。

 

 もちろん、学校の教員は、九九を暗唱できるようにするだけでなく、絵やアレイ図を使って基数としての数の認識と、「いくつ分」という考えを定着させようと工夫する。具体的には、「◯個の列が、△列分あるから、◯×△=▢」というように。

 その具体的な絵やアレイ図が抽象的な「数」の基として対応できる子は、すんなりと理解できるが、そうでない子もいるのだ。2も3も6も7もあくまで2番め、3番目、6番目、7番目という具体でしかない。アレイ図は、すぐには数え切れないし、きっと、「なんだか、わからない」のだ。

 教える側も、「絵や図を使って、こんなに丁寧に指導しているから、分かるはずだ」と信じて疑わないところがある。「何がわからないか、わからない」のである。まさに、認識の違いである。


4×100mリレー

2022-04-20 12:47:51 | 学習

東京五輪の男子4×100mリレー決勝は、日本のお家芸とも言えるバトンパスがつながらないという結果に終わりました。

 

この「4×100m」は、ニュースのアナウンサーも「よんかけるひゃくめーとる」と言っています。でも、「4かける100」って、「4が100(個分)」であると、日本語では読み取れるのではないでしょうか。

なぜなら、算数で掛け算九九をならうときに、日本語で教わっているからです。そのときに

掛け算の前の数は「かけられる数(被乗数)」、後ろの数は「かける数(乗数)」と習うからです。

 

では、英語ではどうでしょう。以前、イギリスの小学校の低学年の教室を訪れたときに、日本の九九にあたる「times table」を練習している場面に遭遇しました。英語では、乗数は前で、被乗数は後ろなのです。

なるほど、その教室で子どもたちは、「2times table」を

one times two is two (1×2)

two times two is four(2×2)

three times two is six(3×2)

・・・と、唱えていました。

 

「2×3」は、

日本語では「2の3つ分」。

英語的には「3の2つ分」を表すことになります。

 

つまり、「4×100mリレー」は「four times one hundred relay」。英語的表記なのだと考えられます。

 

よく、「2年生の掛け算の文章問題で、乗数と被乗数を逆にした式を書いたら間違いとされた」という話題がネットに乗ります。

「掛け算は交換法則が成り立つのだから、どっちでもいい」という意見も一理あるとは思います。ただ、日本の小学校にて日本語で掛け算を習っていることが前提ですが、その後、掛け算での「いくつ分」という考えが、割り算に引き継がれていき、「包含除」や「等分除」を理解していきます。そのときに、算数を日本語で論理的に活用して理解するためには、日本式の掛け算の式の順序は小学校段階ではとても大切だと思います。

 

中学校に進学して、数学を学習するようになると、乗数×被乗数の順になるのはご存知のとおりです。以前は英語を学ぶのも中学校からでした。ですから、数学は英語式に学ぶと考えるのも一考かもしれません。


ルールは変わらない

2022-04-18 16:48:13 | 学習

「くもわ」や「はじき」が公式第一主義で、答えに至るまでの考え方を軽視しているという主張には納得ができます。「割合」や「速さ」の意味が分からなくても、答えに導いてしまいかねません。

 

「1時間で30km進む自動車は時速何kmか」という単純な問いかけに対して、「え~っと、『は・じ・き』で時速をきいているのだから、速さは、距離÷時間でぇ・・」となりかねません。1時間に進む距離が時速であることがわかっていないということです。

実際に、この質問を6年生の児童にしてみたところ、即座に答えられたのは数人でした。

 

「もとにする量」はともかくとして、「比べられる量」という言葉が出てくる学習に、「単位量あたりの大きさ」があります。この「単位量あたり」という言葉にも、躓く児童が出てきます。「単位?」「当たり?」・・・。

「単位って何メートルとかの長さかな?」「何グラム?」と、自席でひっそり考えているうちに、「20cmを1と考えると・・・。」なんて文章にぶつかる。「な、何だ、何だ?どうして20cmが1になるんだ?」

 

分かる子には、どうってことのないことですが、理解のゆっくりな子にとっては、迷路に入る入り口はたくさんありそうです。

 

「○○を1と考える」を「1つ分が○○だとすると」とか「1箱分が○○だと」などのように言い換えてあげるのはどうでしょう。いきなり「1の割合」という抽象的な思考の暗闇に迷い込ませるより、ある程度具体的にイメージできそうな「まとまり」として考えさせるのです。

 

そうすると、「1つ分が20cmなら、5cmはいくつ分かな」と、1つ分に満たないことがわかります。

「40cmなら、2つ分なのに・・・。」と、その子が考えられたらしめたもの。そうでなければ、指導する側が「40cmなら、いくつ分になるかな?」と、考えさせる。

 

「40cmが20cmのいくつ分か」というのは、3年生までで学習した「何倍」の考えそのものです。割り算で求めることができます。

 

算数や数学には「形式不易の原理」というものがあります。「いくつ分」あるいは「何倍か」を求めるときに使った式ややり方は、変わらないというものです。うんと簡単に(乱暴に)言い換えれば「ルールは変わらない」とも言えるでしょう。

 

ここでは、3年生で学習している「もとにする量のいくつ分」としての倍を求める割り算が、そのまま活用できるということです。さらに、割り算の式そのものだけでなく、「割合」は「何倍か」と同じ考え方であるともいえます。

 

2倍は2の割合で200%、1.5倍は1.5の割合で150%。80%は0.8の割合で0.8倍。となるのです。

 

同じような指導法がウェブページにありました。こっちのほうがわかりやすいかもしれません。みなさん、苦労しているんですね。