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cognition 認識

2022-05-06 23:09:28 | 学習

 認識とは、「物事をはっきりと見分け、判断すること。そういうふうにして物事を知る、心の働き。また、その知った事柄。」(Oxford Languagesより)

 英語ではcognitionという。

 次のような文字をある研修で知った。「みなさん、読めますか?」と問いかけられたものの、トト・・・?と、他の研修生同様、読めなかった。

 

 答えは、

「トトロ」

 黒い線を読むのではなく、白いところを読む。そのように説明しても読めない人も何人もいる。周りも白いから、どうしても、黒を読んでしまうようだ。

 その研修では、「教室で、絵や、文字を提示しても、このように、違った認識をしている子がいると考えるべき」と教えられた。

 指導する側が「当たり前」に、自分と同じように物事を認識していると、子どもたちが思っていては、大きな落とし穴に陥ってしまう、ということだ。

 認識の違いは、学習経験や生活経験が大きく関わってくるのではないだろうか。

 

 例えば、次のように、子どもたちの生活経験と、指導者の生活経験が一致するだろうか。

 

 子どもたちのお小遣い。金融庁の調査(2015年)では、小学生の約73%がお小遣いを貰っているようだ。

 そのうち、半数以上の57%ほどが、「ときどきもらう」となっている。これは、必要に応じて貰っているということが多いのではないかと思われる。

これは、逆に考えると、約6割近くの子が、定期的にお小遣いをもらう習慣がないということになる。

 しかも、「ときどきもらう」子のうち、もらう金額は低・中学年の金額の最頻値は100円。高学年になると1000円とアップする。定期的にお小遣いをもらう子たちの最頻値は低中高学年とも500円である。

 子どもの貧困という問題もあり、一概には言えないが、100円から1000円にアップするような状況は次のようには考えられないだろうか。つまり、定期的に小遣いをもらっていない子は、往々にして「好きなときにねだればもらえている」。貧困とは間逆な子どもたちがたくさんいるとも言える。

 不定期で、100円単位で親からお金をもらっていた子が、高学年になると、友達と見合うだけの買い物をする必要があり、一気にその10倍の金額さえ与えられるようになるのだ。

 

 今は、駄菓子屋も少なくなり、子どもたちが駄菓子を自分で買うならコンビニ。それも、私が住んでいる田舎のようなところでは、親同伴で、買ってもらうということが自然のようだ。不審者への対応から、子どもだけで外出することがあまり歓迎されない世の中になってきていることもあるのだろう。

 このことから、子どもたちが大切にされるのはとても良いことだ。しかし、子どもたちが、自分の財布の中身と相談して、買えるもの買えないもの、足りない金額など、考えながら購入する経験が少なくなってきているとも想像できる。

 さらに、キャッシュレスである。スマホやプリペイドカードをどれだけの子どもたちが使っているかは分からない。それでも、1円、5円、10円といった硬貨を数える経験が殆どない子がいることは想像できる。

 それは、「1円が10個集まって10円」「5円硬貨1枚と1円硬貨4枚で9円」という生活経験が希薄になってしまうことを意味する。言い換えれば、生活の中で、「数を数える」「数を基数として認識する」ことが少なくなっているということだ。

 そういう子達の中には、おはじきを4つ見せても、「イチ、ニィ、サン、シィ」と指を指しながら数えないと「4」といえない子がいる。その子にとって、「数」は順番なのだ。私たちが「アルファベットでFは何番目」と聞かれて、指を折って順番を確かめるのと一緒だ。

 順番としての数を「序数」という。序数認識で、算数の学習に参加していても、1年生のうちは指を折りながらなんとかしのいでいるかもしれない。それに、「2,8,10」「3,7、10」「4,6,10」といった、「合わせて10になる」補数の学習で、ややホッとする。暗記だからだ。教師によっては、きちんと10玉そろばんを使って、視覚的に提示しながら丁寧に指導することも多い。それでも、提示された基数としてのそろばんの玉と、口にしている序数の関連が希薄な子もいるだろう。

 

 このように、指導する側が、当たり前に「基数」として指導していても、子どもの方で「序数」としか認識していなかった場合、ボタンの掛け違いよろしく、いつまで経っても、子どもの計算力はついていかない。



 「序数」認識で指を折っていって足し算や引き算をすることには限界が来る。指が足りなくなったり、数が多すぎたりして、いくつまで数えたかわからなくなったりするからだ。そのため、「算数が苦手な子」として、「おはじきを使って計算してもいいよ」とアドバイスを貰えることもある。おはじきを使って、基数の認識に変容できればしめたものだが、高学年になっても、順番としての数認識から出られない子もいる。そういう子は、算数の(特に計算の)時間は「じっと我慢の時間」となってしまうのだろう。

 

 我慢の時間といえば、鉄棒を思い出す。

 「逆上がり」は小学生の鉄棒で避けて通れない技の1つだ。どんなに頑張ってもできない子もいる。できないからと言って、おとなになって生活に困ることもない。しかし、できたときの達成感を味わわせたくて、指導する側も、応援する友達も一生懸命になる。達成感や成就感は、その後の学習や生活全体のモチベーションにつながり、学力そのものをも支える。だから、教師は、補助版を使ったり、補助ベルトを使ったりと工夫をする。

 高学年になっても「逆上がり」ができない子の中には、「前回り下り」という基本の動きさえ怖がってできない子がいる。「逆さ」姿勢そのものが怖いのである。

 その子にとって、体育の「鉄棒」は、じっと我慢の時間となっていたのだろう。低学年からずっと、鉄棒のときには、なんとか技に挑戦しようとしてみたものの、恐怖心の方が彼を抱え込んで離さなかったに違いない。

 順番としての数、序数認識の子は、そうやって算数の時間が我慢の時間になる。

 

 ところが、2年生になると、九九が出てくる。九九だけなら、暗記で済むことなのである。「補数」の練習の時のように、ホッとする子がでてくる。保護者のみならず、指導する側も「暗記」することに力を入れる。ラジオ体操カードのように、その段がクリアできれば(間違えずに暗唱できれば)シールをあげるといったことも行われる。(英国では12の段まであるから、それにも挑戦しよう、なんて教室もあるかもしれない。ちなみに、インドでは30の段まであるらしい。)

 「なんだ、1年生の後半から算数が不得意だと思っていたのに、九九ができれば大したものじゃないか」と序数認識の子が見過ごされてしまうのだ。

 

 もちろん、学校の教員は、九九を暗唱できるようにするだけでなく、絵やアレイ図を使って基数としての数の認識と、「いくつ分」という考えを定着させようと工夫する。具体的には、「◯個の列が、△列分あるから、◯×△=▢」というように。

 その具体的な絵やアレイ図が抽象的な「数」の基として対応できる子は、すんなりと理解できるが、そうでない子もいるのだ。2も3も6も7もあくまで2番め、3番目、6番目、7番目という具体でしかない。アレイ図は、すぐには数え切れないし、きっと、「なんだか、わからない」のだ。

 教える側も、「絵や図を使って、こんなに丁寧に指導しているから、分かるはずだ」と信じて疑わないところがある。「何がわからないか、わからない」のである。まさに、認識の違いである。