すみません、気難しいおじさま、ショーペンハウワー氏の訓話ペシミストかも知れません。
ブッダと仏教の違いがぼんやりかも知れません。
でも[気を引きしめよ]との訓話は今も昔も同じ泉から湧き出でているのかも?
苦痛と苦悩とは現実性を持ち、それが実在している。
錯覚でも予兆に現れるものでもない。
🔵もっと良いものが良いものの敵である
フランス格言
(これには解説が必要なの。豊田佐吉さんではないのよ。)
[災厄を逃れようとする者は、自分の欲するところを自覚した人間だが、
現在持っているよりもましな物を望む人はまったくの物の見えない人だ。]
(なにか支配者の論理みたいだけど、その
昔の一つの論理なのよね。)
せっかく良いものがあっても、もっと良いものがあれば、ぶち壊しになって
しまう。
良いものを望めばきりがない❗
欲しいものを望めばきりがない❗
(品質改善策ではないのよ。聞かなきゃ
分からないの。)
⭐キュニコス学派というのが、享楽にはともかく苦痛が結び付いていると思い
享楽を得るよりも苦痛を避けることが大切だと考えた。
苦痛には能動的な物があり、災厄を避けることに全力を尽くし、
苦痛にさらす罠のような享楽は意識的に全面的に退ける事が必要だという無欲論
で絶壁の上のキュニコス学派なのね。
🔵私もアルカディアに生まれた❗
(牧歌的な羊のいる平和な風景のこと。
アルカディアは半島の山地に位置して
おり、羊飼いと羊が住む和やかな場所)
私達は皆あの牧歌的なアルカディアの地に生まれた。
私達がこの世に生まれたときは、幸福と享楽を十分に要求し、この要求を
貫こうとしている。
けれども大抵は運命が近付いてきて、私達を荒々しく引っつかみ、私達の
ものは何一つ無く、すべては運命のものであること、すべての利益や財産も
妻子も命もすべての物を要求する争う余地なき権利が運命に握られている。
(古いなんて笑わないでね。この時代は植民地支配の時代で奴隷のいた時。)
時が過ぎれば、経験というものが出来てきて、遠くに幸福と享楽が見えていても、
近づくと消える蜃気楼みたいなものだとバッサリ切るおじさまでした。
苦痛と苦悩との近づく道を出来るだけ塞ぐように心がけ、幸福と享楽を追求する
事を出来るだけ遠ざける。
この世から与えられる最善の賜物は、苦痛がなくて静かな、耐え得る程度の生活だ
ということを知って、私達の要求をこうした生活だけに限定し、ますます確実に
実行しようとすることだ。
(ある人の老後の人生みたいだけれど、大病や虐待を受けた人なら風のように耳に響くわ)
不幸にならないようにするには、格別な幸福を望まないのが一番確実な道である。
(もう、限定シナイデヨウ。でも真理かな。)
身の丈にあった生活をしなさい→
地に足をつけて歩きなさい❗
心の平静と安らぎ❗
もう老後のお話ではないの。
そして、現代社会は運命は自分で切り開くもの。とってもいい条件のある環境
が整っている。
この薔薇の花って花弁がホンの少しできただけですけど、あっさり美人でしょ。
要求を限定すると少ない花弁が大きく美しく花開いているでしょ。
やっぱりショーペンハウエルおじさまのお言葉は素敵です。
オー、バラバラ❗
ショーペンハウワー
幸福について
橋本文夫訳
A 一般的な見解と忠告
ここまで読んでいただき誠にありがとう
ございました。