あれは東のとても貧しい国が富国を目指した時だった。
国は貧しいのに一流の蒸気機関車が欲しかった。
妥協はしなかった。
貧しい国なのに外国へ行く使節団には、馬鹿にされないように、
ホテルのスイートルームを与えた。
大きな丸太を運んでいる弁慶号です。
周りは随分と伐採されています。
大胆なまくら木(レールの下に横に敷いてある木)の配置の仕方です。
錬鉄製のレール
日本に生まれた君には少しばかり厳しい掟に身をゆだねなくてはならない。
でも大丈夫、あなたを支える大和撫子の温かい愛情があるから・・・・
それでは大宮鉄道博物館に待機しています弁慶号の窓からスケッチして
みますね。
1869年(明治2年)明治政府は北海道資源開発のため北海道開拓使を設置した。
明治政府から招へいされたアメリカ人技師ホーレス・ケプロンが資源調査を行い、
幌内川(三笠幌内川)上流の後の幌内炭鉱が埋蔵量が多いと判明した。
そこで、アメリカ人技師ベンジャミン・スミス・ライマンが炭田の開発計画立案
をした。
北海道幌内鉄道開業に当たっては、アメリカのHKポーター社から蒸気機関車2両、
ハーラン・アンド・ホリングスワース社から2軸ボギー客車8両が輸入された。
蒸気機関車(鉄道院7100形)は、1、2と付番されたほか「義経」、「弁慶」と
命名された。
蒸気機関車弁慶号試運転の模様です。
1880年(明治13年)1月、小樽市内の若竹第3隊道から敷設工事は着工。
着工11か月を待たずして、10月24日には、蒸気機関車弁慶号の試運転が
手宮桟橋 - 熊碓第4隧道間で行われた。
おそらくこの写真はその時の光景と思われます。
それから1か月後の11月28日には手宮ー札幌間が開通。
開拓使長官黒田清隆の考慮方針により、本州の鉄道と同じ1,067 mm軌間が採用された。
これが後の青函連絡船での車両航送、青函トンネルを利用する本州と北海道間直通運転
をスムーズに実現するのに役だった。
かなりの斜面を削っています。
上の光のスポットは館内のいたづらです。
1878年(明治11年)3月、開拓使は、最初は幌内から幌向太間に鉄道を敷設して石狩川
から川船で小樽港へ、そこから本船に積み替えるライマンの案を承認した。
しかし、1878年(明治12年)幌内 - 幌向太間の測量を開始したアメリカ人鉄道技師ジョセフ・
ユーリー・クロフォードが幌向太付近は湿地帯で石狩川は冬季結氷により年150日しか
舟運を利用できないことにより、幌内太から小樽に鉄道を延長し、小樽港から石炭を積み
出す案を出し開拓使長官黒田清隆がこの変更を承認した。
これにより、凍結港の事など気にせずに、年間を通じて鉄道による安定輸送が可能となり、
桟橋の上に線路を敷設すれば、貨車から船への直接船積みができ、川舟への積替えの手間
やその際の石炭の減耗も防げた。
この木組みの足元にハシゴを発見!
左側に立っている人たちは頬かぶりをしているので、見物人でしょうか?
斜面にも人がいます。
弁慶号の中からは人が出ています。
怖くないのかな。
家の前には住民達が見物をしています。
大きなボーという汽笛に力強い原始的な何かを感じたでしょう。
木組みした高い鉄橋の下には石をびっしりと敷き詰めた家の屋根が見えますが、
北海道なのに屋根に角度がありません。
冬の寒い時期は住んでいたのでしょうか?
右側にある家は何かしら動物の小屋か?納屋か?
納屋には、沢山の食料と冬のための薪を用意しなくてはならないでしょう。
薄い入口の引き戸のように見えるがあるいは白壁なのか分りませんが、
中は石炭の暖炉や練炭、囲炉裏があると想像できますが
それにしましても・・・・・・
辛抱と忍耐で胆は持つ。
幌内鉄道の開業
すでに小樽湾は海上交通で昔から発達をしていたが、今では観光地として名高い
あの川沿いにある赤レンガ倉庫に降りかかる美しい夕焼けは、明治の記念に鳴る
晩鐘の名残りだ。
ボーボーッボー
聴こえたかい?
テキサスに日本の新幹線が走るかも知れない。
西部劇が飛んでいく。