大文字屋の憲ちゃん (当面は 石巻 地震) 

RIP 親父 けんちゃん 石巻 地震

石巻往還記 前編    to 石巻 地震がありましたが、大文字系は無事です。(88)

2011-04-16 06:32:12 | 日記
これは、2011年3月31日から4月3日までの、石巻帰省の記である。

3月31日

 午後から石巻に向かうための荷物を準備。キャリーバッグ(水と食糧…主に自分用)、大型のリュックサック(防寒防水作業着と食糧とウェットティッシュなどの日用品、防災グッズ)、小物を入れる小さなショルダーバッグ。

服装は、下は膝下まである作業用長靴とスキー用靴下、スェットパンツ、上はセーターの上にヨットパーカー、その上にエアテックの薄手の防寒着、その上にゴアテックス素材の防寒防水服。ニットキャップ。

 実家に一応連絡しようと兄忠典の携帯に電話する。出ないので、恵美ちゃんの携帯に。恵美ちゃんが出る。「明日、そっちに行っから。」と言うと、「あっ、明日来んの?」と言う。すると、急に忠典が出て、「何、明日来んの?」と言うので、「ああ、明日昼ごろになると思うけど。」と言うと、「来ねくていいがら。来られても迷惑だがら!」と言うので、「ああ、わがった、わがった。」と言って電話を切った。

ブログにも一応告知する。何とも「探さないでください」的な告知であったが。


19:30
 自宅を出て小田急線生田駅より各駅停車新宿行に乗車。

20:15
新宿駅に到着。

20:45
夜行バスの集合場所である西新宿の新宿住友ビル1Fに到着。集合時刻は21:00~なので少し早めの到着。バス会社はWiller Express。「ウィラー・エクプレス」と読むのだろう。少し読みにくい会社名だ。サイトで予約していて、コンビニ決済してあった。サイトでは受付時に「支払受付番号」を提示するよう指示があったが、実際には行先と出発時間と氏名を言えばすぐに座席券が渡されチェック・イン完了だった。(領収証を見せなくていいんか? と思ったが、成りすまして乗車しようとしてもすぐバレるだろうから、なるほど手数を省略するのは正解と思った。)

受付とゲートの部屋は分かれていて、ゲートが待合室を兼ねている。

帰省写真の1枚目は受付内にあった用途のよく分からないPCデスクである。

待合室には長椅子が数列並んでいて40名程度が座れるが、全員が座れるスペースはない。ビルのトイレが使えるので、その点は便利だ。

私が予約したのは東京→仙台の便だったが、ここからは全国に複数のルートでバスが四六時中出ているようで、電光掲示の時刻表を見ると、同じルートに10分おきぐらいに便が出ていた。

私が向かう宮城には3月31日の時点で仙台行と古川行があったようだが、とにかく新幹線が動いていないだけに一度に4~5便のペースで、満席のバスが発車していたようだった。

ゲートは室内だが、バスに乗るには、ゲートから建物外に出て、ビル敷地内の通路をたどって路上に出てバスに乗車する。どれだけの荷物を持ち込めるかはサイトにも載っていたのでトラブルなく乗車、発車することになった。(バスの下部コンテナ内には3辺の合計が240cm以内の荷物を積める。他の手荷物は小さいものなら車内に持ち込める。)

新宿西口界隈は淀橋カメラから都庁付近まで遠距離バスが多数発着しているのはこれまで見たことがあった。

今回そういうバスを調べてみて、仙台方面には概ね6社ぐらいあると分かった。私が乗ったWiller Express の他に、オリオンバス、さくら観光、JRバス、京王バス(これは宮城交通と提携している)あたりが主だったところである。

私がWiller Express を選んだのは、とりあえず3月31日の夜行便に確実に空きがあることが確認できたからで、快適性やスピードは度外視した。

ただ、22:00発で6:00着というスケジュールが比較的余裕を見た設定だったので、比較的安心感はあった。それと、災害復興救援車(被災者および被災家族優先…実際にはそれに関するチェックは全くなかったが)という名目を冠していたこともあった。

オリオンバスの24:00発5:00着の便はスピードがあっていいとも思ったが、災害時で道路事情に不安もあったので、これは少し避けたところはある。

他の会社の事情は知らないが、室内の待ち合い室がありトイレがあるというのはありがたいと思った。

22:00
 そういうわけでバスに乗車。ほぼ定刻に発車。

23:30
 佐野PA(パーキングエリア)で最初の休憩。1時間半走って休憩とはずいぶん早いなと思った。このペースで休憩をとると、3~4回休憩があるのかな。とりあえずトイレに出て撮影も。休憩時間は25分程度。









4月1日

1:30
 安達太良PAで二度目の休憩。まだもう1回休憩があるかと思ったが、一応トイレに出る。このあたりから仙台到着まであまり記憶がない。寝ていたかどうかも定かでない。

5:10
 気が付いたら仙台に着いていた。夜は明けていて、仙台駅東口にバスは停車。降車した。石巻行バスは7:00始発だったので、それまで仙台駅前を撮影。カロリーメイトとアクエリアスレモンで朝食。駅前に24時間の吉野家やコンビニの開いているところは見当たらなかった。

仙台駅を見て、そう言えば損傷が激しくて使用不能だったなと思い出した。周囲のペデストリアンデッキもあちこち傷んでいるのがわかった。

6:00
 西口の百貨店さくら野前にバス乗場があり、そこで石巻行のバスを待った。この時点ですでに40名程度並んでいた。石巻以外にも登米など各方面に向かうバスを待つ人たちがいた。並んでいる人同士で被害の情報交換をしていた。

6:30
 列の先頭あたりで「7人乗れるよ、7人!!」という大きな声が聞こえる。女川あたりまで行くバスに空席でも出たのかな? と思いつつ様子を見ていると、先頭の列の人たちの動きは鈍い。私の近くにいた数人の人たちがそちらに向かった。すぐに一杯になるだろうと思い諦めていたが、「まだ3人乗れるよ~!」と言っている。ダメモトで行ってみると、よくわからないオジサンが(私も十分オジサンだが)、軽のバンの荷台を開けてこっちだよ~と言っている。あれ? バスじゃないの? と思いつつ、来てしまったから乗るしかないかと思い、荷台に荷物を置いて乗り込んだ。車は発車した。

オジサンはボランティアの人であった。石巻から今朝ボランティアの人を仙台まで乗せてきて、その帰りなのであった。「みんなボラれると思ってなかなか乗んないだよね」と言いながら、いろいろ話してくれた。

オジサン自身は塩釜に職場があり、そこが津波でやられたので、今はボランティアをしているという。何かの組織には属していないが、災害時緊急車両のステッカーの交付を受けている。仙台から主に牡鹿半島端部の地域に救援物資を運搬しているのだという。携帯電話で地元の人たちと連絡をとり、必要な物を把握し、毎日車を仙台-牡鹿半島間で走らせているのだという。

「ボラれる」と言ったのは、みんな「白タク(無認可タクシー)」と勘違いするからだと分かった。まあ、たしかに「無料」とは言ってなかったから、勘違いされても仕方がないのだが、オジサンは自分がボランティアだとか無料だとかは言いたくなかったのだろう。

オジサンの住まいは湊で、「同じ石巻でも、蛇田と湊・渡波では、天国と地獄だな」と言った。石巻の被害状況を関東で集めている中でも、湊や渡波の情報の少なさは逆に被害の大きさを物語っていると感じていた。要は情報の発着そのものが行われていないということだからだ。

同乗したのは「伊原津のオジジ」と「矢本の女性」、「赤井の母子(たぶん)」である。

伊原津のオジジは津波で家の中にダンプ2台がブチこまれたまま住むことができず、避難所生活をしていたが、川崎の息子さんの家に一時身を寄せ、残してきた肉親を訪ねに帰石するところだった。川崎の息子さんの家に衣類をかなり持って行ったが、津波で泥だらけになっていた。惜しいものもあるので、クリーニング屋さんにもちこんで相談すると、数万円かかると言われた。泥落としや特別な洗い方が必要だからだそうだ。ところが、今回の津波で被災したと話すと、すべて無料にしてくれたという。感激しながら話していた。そして、「家のローンを払い終わったり、リフォームしたばっかりで、この津波にあって、たいへんな思いをしている人はかなりいるど思うよ」と言った。

道々オジサンは、岩手で数千戸の仮設住宅建設が始まっているのに比べ、宮城、とりわけ石巻の動きの鈍いことに怒っていた。そして「やっぱり金がねえどな。クリーンな政治っつったってこういう時に金がなくて何もできねんではなあ」と嘆いてもいた。安住くんや亀山市長は何もできていないとも言っていた。被災された方の正直な気持ちだろう。

「遠慮しないでドンドン言ってねェ」というオジサンのお言葉に甘え、みなさん自宅に近いところまで車を回してもらって降りた。私も、伊原津のオジジが石巻大橋から牧山トンネルを抜けるところを、住吉方面に回ってもらった。

8:30
 住吉公園近く、中央3丁目付近で降車。オジサンにお名前と携帯番号をうかがい、もし何かあればお電話するかもしれませんと伝え、お礼を言って別れた。この人は平塚さんという。今も仙台-牡鹿半島間で車を走らせているだろうか。平塚さんありがとう。

仙台を出るあたり、蛇田あたりでだいぶ渋滞していたので、もしバスに乗っていれば、到着は数時間遅れていただろう。バスに乗れるかどうか定かでなかったので、私自身当初から昼ごろの到着を予定していた。もっともこの4月1日からバスの本数が一日22本と倍増していたので、乗れることは乗れただろうが。

謎のボランティア平塚号を見送って、中央3丁目の元テアトル東宝があったあたりを南進する。

車道は通れるが、瓦礫と汚泥が脇に寄せられていて狭く、歩道は通れなくなっている。

とにかく目立つのは車が押しつぶされたようになってあちこち転がっていること。それと建物が残っていても、1階部分が使い物にならない状態にあるところがほとんどであること。映像である程度は目にしていたが、どこもかしこもそうなっているのを見ると、なにかそれが当たり前のように見えてくるのが不思議だ。

傾いている、つまり、もう住めないところも多い。

中央3丁目から2丁目にかけて見ていく。亀山肉屋さんの前で写真を撮っていると、軽のバンの運転手から声をかけられる。何を言われたか覚えていないが、少し話していると、見覚えのある顔であることに気づき、「あれ、貞吾さん?」向こうはキョトンしているので、「大文字屋の次男のよしひろですぅ。」「オーッ」ということで、大文字屋が全員無事であることや、恵美ちゃんが仙台の市場の帰りに喜久ちゃんのなるべく近くに行こうと大街道から総合体育館を通って石小裏まで来たが、車がぷかぷか水に浮いているのを見て、また、通りがかった人たちから、「これは津波だ。山の上に逃げろ!」と言われて、泉町の方に引き返し、その後旧市役所前に車を停めて、水が引くまで二晩車中に泊まったという話を聞いた。なぜ貞吾さんがそれを知っていたかは分からないが、そういうことを聞いた。貞吾さんは、以前に大文字屋の隣に住んでいて、憲ちゃんの通夜にも来てくれた。今は泉町に住んでいて、ご家族は無事だったそうだ。また連絡とりあいましょうと言って貞吾さんと別れた。

星薬局の前を通り過ぎる。観慶丸と昔果物屋があった敷地との間の通りに自衛隊の給水車が陣取っていた。ここは昼間は常時給水所になっているようだ。

大文字屋が見えた。

店の正面のシャッターはおりていたが、ひしゃげて隙間ができており用をなしていなかった。店の前の歩道には汚泥を詰めたらしい土嚢が山積みになり、歩道から車道にかけて汚泥と瓦礫が積みあげられていた。これはこの並びの店はどこも同じような状況であった。秀丸屋さんの脇の通りに入り、楼蘭さんの前あたりにくると、ちょうど兄の忠典が車庫から出てきたところだった。

「おー、来たのか。」「おー、来たよ。」そうすると、みんなでどこかへ出かけるところだったのか、恵美ちゃんもキクちゃんも出てきた。「おー、よかったね!!」と言って、恵美ちゃん、キクちゃんとハグする。涙と感動の再会である。(涙はうそである。)

とりあえず荷物を大文字屋の2階に置き、2階や1階の店、台所、倉庫などの状況をカメラに収める。

2階の居室は廊下の天井の照明が多少壊れたぐらいで後は無傷のようだった。

1階は店の中に津波が入って、ショーケ-スがダメになっていた。帳面など店のものが散乱していたが、数日前にボランティアの方々が来てくださって汚泥はなくなっていたので、後は散乱しているものを整理するだけのようだ。

台所は冷蔵庫と電子レンジが横転したままで、ほとんど片づけられていなかった。

車庫から建物内に入るドアの下部のガラスがなくなっていた。

車庫には秀丸屋さんの車が非常階段にお尻をたてかけたような状態のまま置かれていた。ボランティアの方が来た時、降ろそうかどうか検討したらしいが、重くて危ない、専門家に任せた方がいということで、そのままにしてある。

倉庫の中は、三つある大型冷蔵庫のうち手前の一つが傾いたままになっている。(後で見たら、一番奥の一つも傾いていた。)

その向こうにいろんなものが散乱している。元々あった店の商品や家財道具などに、汚泥と流れ着いた訳の分からないものが入り乱れていた。

しばらくすると鹿島台の正志さん一家が、片付けの手伝いに来てくれた。私が気づかないうちに、倉庫の汚泥・瓦礫の片づけ作業が始まっていたので、慌てて参加した。

(一応私は、防寒防水の作業ズボンと釘をつかんでも通さない作業用軍手を用意していた。)

正志さんはキクちゃんの兄である。おばちゃんとよしひこさんも来てくれた。長靴や厚手の軍手はもちろん、スコップや土嚢袋まで用意の上でである。

倉庫の中は、入ってすぐ左のカマド(最近は使っていないがクルミ豆腐をつくるためのもの)のあたりに燃料のための木端がたくさん置いてあったので、それを運び出すところから始まった。ウチのものだかなんだか分からない木箱や椅子やら、ウチの売れ残りの瓶詰やらレトルトやら野菜やら、兄の治療道具の残骸やら古い伝票やら、あまりに種類が多くて覚えていないけれども、いろんなものを運び出しては台車に積んで、店の前の通りに運んで山積みにするのだ。そうすると、自衛隊の人であろうか重機でさらっていってくれるらしい(あくまで予定)。

それと並行して汚泥をスコップでさらい、土嚢に詰め、これも台車に載せて店の前に積み上げる。この汚泥をスコップでさらう作業がなかなか腰にくる作業だが、正志おんちゃんはこれをガンガンやっている。鼻先から汗を滴らせながら。おばちゃんやよしひこさんももちろんである。

10時前ぐらいから、あーだこーだ言いながら作業して、12時近くになったのでお昼をとることに。鹿島台から、ほうれん草のおひたしと焼きおにぎりとポテトマカロニサラダ等々の差し入れがあった。美味である。実は私も「野菜が不足している」という情報があったので、ほうれん草のおひたしを一パック持参していた。もちろん自家製。福島原発問題で野菜の売れ行きが悪いと聞いて、積極的にあっちの方の葉物野菜を買っていたので、ほうれん草のおひたしを作るのに最近慣れてしまっていた。私は茹でただけで味をつけないのが野菜の味が味わえて好きなのだが、今回は移動時間もあるので、保存のことも考えて出汁と醤油で少し味付けした。味は大したことはないが、おばちゃんに味見してもらって少しお褒めいただいた(汗)。

いっぱい食べて、1時過ぎから再び作業にとりかかる。

2時前であった。「仙台の光ちゃんが来たよ」とのこと。こうすけさんと一緒にお手伝いに来てくださった。なんかエライことになってきた。よってたかって大文字屋に援軍が…。

「うーん。光が入りにくいから、これをこっちに移動させよう。」人海戦術と相変わらず冷静沈着な光ちゃんの的確な指示で、作業は大加速。午前中の段階で手前の冷蔵庫の向こうぐらいまで片付いていたが、3時ぐらいまでに倉庫の中ほど、お風呂(もう使っていない)の前ぐらいまで撤去が進んでいった。

途中で一服ということで、光ちゃんが煙草を喫う。よしひこさんも喫うらしく、光ちゃんに一本もらっていた。私は知らなかったが煙草は品薄らしく、宮城県内ではなかなか手に入らないとのこと。ちなみに私はこの帰省では煙草を喫う気が起きなかったので全く喫わなかった。ふだんから月に1.5箱ぐらいしか喫わない(自宅では喫わず、外出時に喫煙できる飲食店に入った時だけ喫う。そんならやめたら? とよく言われます。

倉庫の暗い中で、光ちゃんの持ってきてくれたヘッドランプはたいへん役に立った。キクちゃんが、「何でそんなの持ってんのしゃや?」と言っていたが、「水質関係が専門だったはずだから、土木の現場みたいなところに行くこともあって、けっこう使うんじゃないの。」と私。

そんなこんなで、鹿島台は3時頃、仙台は3時半頃、作業を終了して記念撮影、帰路に就かれた。この辺は電気が通じていないので、早めに帰るにこしたことはないのだ。それにしても、たいへんな重労働をしていただき、本当にありがとうございました。

その後、恵美ちゃんとキクちゃんが外出ということで私が留守番。キクちゃんが5時前に帰ってきたので、私は街中を撮影しに出た。

車庫を出て、寿町方面、小柳町界隈に入る。狭い奥の通りほど、瓦礫が多く、片付けも進んでいない。津波は瓦礫を巻き込んで、陸の内側の方に瓦礫を押し込んで引いていくので、海岸や川岸から遠いところほど瓦礫は多い。車も目立つ。小室眼科さんの前に、鳥文さんの車が横倒しになっていた。

小柳町から広小路に出る通りで、2匹の猫を見かける。近くにいたオジサンにきくと、野良猫で、首輪はオジサンがつけてやったという。オジサンはこのあたりで飲食店をやっていたらしく、店は流されたが、自宅は湊なので、そこからこちらに通って片づけをしているという。猫はさわってみるとかなり痩せていた。そうやって話をしていると、やはり公民館で避難生活をしている女性とか、いろんな人が集まってきて、話に花が咲いた。

そんな中にサングラスに皮ジャンにメットをかぶった人物がいて、震災翌日からお不動さんで炊き出しをやっているが、市役所の対応がなっていないから、何度も怒鳴り込んだと話しているのがいた。話の中に「山上」という名前が出てきたので、あれぇ、と思った。「あれ、山上電機の山上さん?」と問いかけると、「そうだよ。」と言う。「私、大文字屋のよしひろです。」「?……おお。」ということで、久しぶりの再会を果たしたのである。

実はガンジからもらったメールで、ガンジが石巻滞在中にヤマジ(山上くんのこと)に会ったとは聞いていた。しかし山上くんと私はそれほど付き合いはなく、最後に会った記憶は、中学1,2年のブルース・リーが流行った時に、私が当時空手を習っていたという山上くんと、どこかの空き地で軽いスパーリングもどきをした時のことだ。その時私は、山上くんの中段右回し蹴りを左脇で抱えこんで、ブルース・リーが『燃えよドラゴン』でやったように、彼の残りの立ち足を右足で大内刈りに刈って、彼を倒したのだ。ところで、というか、ところが、というか、『燃えよドラゴン』ではここで勝負ありなのだが、山上くんはこの後、後退しようとする私の足に彼の足を絡ませて、逆に私からダウンを奪い、寸止めの突きを決めたのだ。

もちろんこれは喧嘩ではないし競技の場でもない。面白がってやったことではあるが、私としては、なかなか「やられた」感の残っている一場面なのである。

その当時の山上くんは、顔はやや丸味があったが、けっこうスリムだったので、今回山上くんのやや貫録ある風貌を見て、最初は全く気づかなかった(失礼!)。山上くんと確認して、ようやく顔に少年時代の面影を認めることができた。

山上くんは、炊き出しだけでなく、夜間に警棒を持って町内の見回りをするなど、緊急時の地域の護りに力を尽くしていた。市役所では市長が部屋で椅子にふんぞり返っていたとか、市内の視察に歩いたと思ったらスーツを着ていたとか、防災服に着替えたと思ったら汚れ一つ付いていないとか、彼はだいぶ怒っていた。前述の女性も、避難所が石巻小学校から公民館に変わるに際して、名簿もろくにでてきていない状況でなぜそういうことができるのかと怒っていた。津波のあった直後は避難所で毛布一枚で寒さをしのぎ、きつかったという。それはそうだろう。いずれにしても地元の被災している人間がそういう気持ちになるのは当然のことだ。

実はこの時山上くんの携帯番号をききたかったのだが、たまたま私が携帯を持っていなくて、筆記用具もなかったので、明日お不動さんを訪ねるということで、別れた。

その後、広小路から中央2丁目、橋通り、内海橋、漁船が打ち上げられ車が転がったままの春潮楼さんの前、自衛隊がキャンプを張っていて簡易入浴施設を設営している旧丸光跡、オバタレコード屋さんから旧宮城交通前、観慶丸本店、サルコヤさん、寿町を通って大文字屋に戻った。

サルコヤさんのサルは、この津波で死んだと聞いたが、たしかに檻は空だった。

夕方。電気がまったく通じていないので、外灯も信号もなく街中は真っ暗で、車が通るときのヘッドライトだけがやけに明るく光った。暗くて人の顔が見えないという経験を久々にした。(写真ではそれなりに明るく写っているが、カメラの性能が良すぎるからで、体感的では真っ暗である。)

6時過ぎに帰宅。夕飯は恵美ちゃんが豚汁をつくってくれた。味噌が少し白味噌入りだったのだろうか、これまで食べたことのない上品な味でとても美味しかった。配給のおにぎりやパン、鹿島台の差し入れ等、おいしくいただいた。ビールがあるということで、私だけビールをいただいた。

食べながら、震災当日の話を聞いた。

兄の忠典は、地震時に仙石病院で透析中だった。揺れが収まってから、いったん建物外に出た。帰宅しようと思ったが、大津波警報が出たこともあり、病院に留まることに。これは正解だったであろう。この話はすでに聞いていたが、最初に聞いた時には、津波が来る前に病院という安全な場所に位置取るとは、なんという嗅覚と感心した。(悪運が強いだけという声もあるが…。)

恵美ちゃんは、貞吾さんの言っていた通りだが、仙台の市場からの帰り、地震に遭い、忠典のいる仙石病院の前を通ったが、こっちは何とかなるべと思ってスルー、大文字屋に向かったとのこと。石小裏で車が水にぷかぷか浮いているのを見た後、いったん大街道に戻ろうとしたが、やめたとのこと。「もし大街道に戻ってれば、私も津波に巻き込まれでだ。危ねがった。」

キクちゃんは、地震の時に大文字屋にいた。揺れが余りに激しいので、通りに出て、秀丸屋さんの奥さんと通りがかった女子学生とともに、道路の立ち木につかまり悲鳴を上げながら揺れをおさまるのを待った。何とか揺れがおさまったので、ようすを確認しようと店の中に入り、店内を見回り、倉庫の方へ抜けたところ、車庫の方から水が走るように流れ込んできたという。「これはわがんね。」と、3階に避難。揺れがおさまってから水が入ってくるまで20分ぐらいだったという。大文字屋の3階からキクちゃんは、街に流れこんでくる津波を見ていた。白い車、黒い車が流れていく。電話ボックスが水の中に没していく。「もしこの建物が流されるなら、そん時はもろともだ」と覚悟もしたという。幸い水は建物を流すことはなかった。その後結局2晩、キクちゃんは大文字屋の2階、3階で過ごすことになるが、電気もないので、テレビも見られない、電話も通じない、通信手段が何もない。水が引かないので、下に降りることもできない。やることがないので、日記を書いたりしながら時を過ごしたという。(このあたりのくわしいことは、まだあまり聞けていないのだが。)

津波はその晩、何度か押し寄せたようだが、どういう状況であったのか、私にはまだ分からない。もう少し詳しい情報を集めてみたいと思う。中央2丁目あたりでどれぐらいの高さで、あるいは、何度津波が押し寄せたのか。因みに大文字屋の1階には、水位がわかる線が建物に残っているとキクちゃんが教えてくれた。1m80cmほどであった。

そんなわけで、大文字屋の3人は、ばらばらながらに無事だったわけである。「店とコロはやられたけどな。」とは最初に兄と電話で話したときの言葉である。

夜に明かりがないので、蝋燭を点しながらの夕餉である。私も闇の多さも手伝って眠気を催し8時に就寝した。夜が早ければ寝るのも早くなるものだ。


(後編につづく)


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2 コメント

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21世紀の基本 (安田 毅)
2011-05-17 13:03:23
JR山陰本線を完全に複線電化と都市部はなるべく立体交差 高架にしてほしいです  予算の方は国 JR 県 民間などから補助金を捻出の仕方で着工へこぎつけたいと思います これにて陳情 嘆願にします 以上
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21世紀 (安田 毅)
2011-05-17 13:19:34
JR山陰本線を複線化電化を陳情 嘆願します その理由は現在のちぐはぐな 線の状態ではいけないと思います きちんと車の道路とおなじように見做し上下をきっちし走るのが基本です それから都市部はきちんと立体交差 高架化がなされるべきです 予算は国 県 JR 民間などから補てんを借りればすくなくとも測量 着工は可能です以上よろしくお願いいたします 自分の意見を強調しすぎて申し訳ないが なにとぞよろしく 以上
返信する

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