大文字屋の憲ちゃん (当面は 石巻 地震) 

RIP 親父 けんちゃん 石巻 地震

憲ちゃんが食べる1

2010-02-20 17:34:53 | 父のいる風景
父が食事をしている光景として最初に思い浮かぶのは、昔の大文字屋の台所での朝食のシーンである。

大きな円卓をかこんで父と私ら兄弟と住み込みで働いている従業員さんらとが食事をしているのだ。(母は忙しく立ち働いていた。)

円卓の真ん中には大きな瀬戸物の鉢に大量のネギ納豆がつくってあって、よそわれたご飯の上にめいめいがその泡を吹いたネギ納豆を載っけるのだ。ご飯茶碗と味噌汁のお椀と朝鮮漬けやら沢庵やらキュウリの浅漬けやらの鉢がひしめいていた。その中でみんなもくもくとメシを食っていた。

昔の大文字屋の家は、市役所通りに面して店があり、そこから奥に向かって台所、茶の間、座敷、縁側、庭、小さな神社!があって、さらに土蔵、豆腐工場(こうば)、便所、さらに板倉(いたぐら)と並んでいた。

店の上の二階には住み込みの従業員さん用の部屋が二部屋(各六畳)あり、台所の上の二階部分には倉庫用の4畳ほどの部屋が二つあった。台所の土間の上の部分は吹き抜けのようになっていて、明かり採りから外光が差し込んでくるので昼でも大分明るかった。

台所は半分は土間で、そこに二階への階段や、地下室(冷蔵室代わりの)への入り口、石造りの流し、石油コンロ、手動式脱水ローラー付き洗濯機、などなどがあった。上がり框は板目で、床が取り外しができてその下にいくつも収納スペースがあったように思う。

今思えば吹きっ晒しなので冬はかなり寒かったはずだが、私の記憶では茶の間で朝食をとるようになったのは小学校中学年ぐらいからで、かなり遅かったように思う。



朝食を父と一緒にとった記憶というのは、おそらく私が小学校や幼稚園に行く前の話であろう。父は平日ならば毎日市場に出ていたはずだから、あまり早い時間に私ら子供と朝食をとるこできなかったはずである。

市場から帰ってきてからと言えば、これは私が小学校高学年から高校ぐらいにかけてであるが、よく平日午前11時ごろに父が市場から帰ってきては、茶の間で「キッコー、キッコー、メシ食わせろォ」と声を出していたものだ。「キッコー」とは母(喜久子)のことであるが、母は母で店が忙しいので、「あ~ん、ちょっと待ってらい」とか「……(無視)」などとつれない対応をするのだ。待ちきれなくなった父は、店からサバの水煮の缶詰を持ってきて開け自分でご飯をよそってかっこんでいたりする。サバの水煮の缶詰でなければ豆腐で冷奴である。サバの水煮の缶詰はおそらく安くてなおかつ売れないのだろうとその時の私は思ったが、もう少し待ってればいいのにとも思った。

いずれにしてもこのあたりは父の威厳がガタ落ちである。

もう一つ序でに言えば、父はメシ(米飯)を食べる時に、口の中にメシをためて、「噛む」というより口腔内全体で「もむ」ような仕方で咀嚼するのだ。何か「ミッチャミッチャ」と音がしそうな感じの食べ方である。これはちょっときれいじゃないなーと思いつつ見ていたが、物の食べ方は人それぞれだし、と、それについて父に意見するに及んだことはない。

しかしこれで益々権威失墜である。

(父のこの「食べ方」については恵美子さんも同様に感じていたそうだ。ただこれは「米の飯」の食べ方の場合で、それ以外のものを食べる時にはそんなことはなかった。)

父が食べることについて、彼が何を好きなのか、これについては私はよく知らない。ただ、嫌いというか食べられないものなら知っている。我々子供たちがとろろご飯を食べている横で、父だけが拍子木か短冊に切った長芋を肴に、酒を飲んでいるのをしばしば見ている。何でも昔はとろろが好きで、ところがある時、とろろで「当たって」しまい、それ以来「すった」状態の「とろろ」を食べられなくなったというのだ。好物ゆえに食べ過ぎて、のたうち回るような苦しみを味わったのか。あるいはもしかしたら芥川龍之介の『芋粥』のような高尚な話でもあったのか。

いずれにしても憲ちゃんが人並みに「いやすこ」であったことは確かである。そしてそれが私にとっての等身大の父である。



追記

恵美子さんであるが、入院10日後に足にボルトを入れる手術、さらに10日後に抜糸・退院した。手術は成功したようである。現在は松葉杖をつきながら歩くことができるので、その状態で店の仕事をこなしているとのこと。多少のリハビリも行ったそうである。車の運転はまだである。

ついてはたくさんの方がお見舞いにいらして下さったとのことで、私もここにて御礼申し上げます。

なおその後、大文字屋の三階でかなり大々的な漏水があり、二階トイレなどが使えなくなったため、一時家族がホテル住まいを強いられ、現在は二階の東側(アイトピア通り側、以前ベルさんという喫茶店がテナントに入っていたスペース)を住居に改造しているそうである。

2月19日に連絡をとった時には、ホテル住まいから戻ったばかりの恵美子さんが熱を出したとのこと。怪我やら家の造作やらでかなり疲労があるであろうから、母・兄ともども体には気をつけてもらいたいものである。
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