さあ内を突いたメジロアルダンか!メジロアルダンか!メジロアルダンか!サクラチヨノオー!コクサイトリプル!コクサイトリプル!メジロアルダン!サクラチヨノオー!サクラチヨノオー!!サクラチヨノオー、先頭!ゴールイン!!…サクラチヨノオーであります!サクラチヨノオー勝ちました!サクラチヨノオーであります!人と馬の壮大なドラマ、日本ダービーを制したのは、5番のサクラチヨノオー、小島太騎手であります!
サクラチヨノオー大往生「立派な最期」 - 日刊スポーツ
サクラチヨノオーは、僕に競馬のサイクル、つまりはダービーを頂点とした馬産のサイクルを教えてくれた馬。
競馬ファンになって初めて見るダービーが1988年、サクラチヨノオーが勝ったレース。
府中の最後の直線坂下では一旦メジロアルダンが先頭に立ち、外からコクサイトリプルが迫る中、小島太の渾身の鞭に応えたサクラチヨノオーが差し返して、1988年の4歳(現3歳)世代のトップとして一躍名乗りを上げた、のちに差し返した根性が語り草となったレース。
88年の4歳(旧年齢表記)世代のトップホースといえばオグリキャップの名があまりにも有名で、事実公営笠松から転厩してきてもクラシックの追加登録が認められていなかったがためにクラシック戦線を歩むことが出来ずに、徹底した裏路線を歩まざるを得なかったが、もしクラシックレースへの追加登録が認められる現在のような制度が当時から備わっていたならば、3冠とまでは言わずとも、ヤエノムテキが勝った皐月賞、そしてサクラチヨノオーが勝った日本ダービーも、果たしてどうだったか…とは、その当時から既に言われていたことである。
しかし、オグリキャップがダービーに名を連ねていなかったからこそ、サクラチヨノオーの類稀なる勝負根性が遺憾なく発揮され、今の世まで名勝負、そしてラジオたんぱ(現在のラジオNIKKEI)中根アナの渾身の名実況と共に、語り草になったのではなかったか。ちなみに僕の中でラジオたんぱ実況陣の中で、中根アナをおいてナンバーワン実況アナウンサーは他におりませんw
88年4歳世代といえばオグリキャップが大多数のファンのイメージの中にあって、「俺も忘れてもらっては困る」とばかり、強烈な主張を自らの足跡と共に叫んでいた、サクラチヨノオー。
弟のサクラホクトオーはさらに不遇だったなあ…。
1989年春のクラシック戦線は、昭和天皇の涙雨がそのまま日本列島を包んだかのごとく雨にたたられるレースが多く、水が浮いて田んぼのような状態という、近年まれに見る極悪馬場で行われた弥生賞では全くいいところがなく、前夜までの雨でこれも不良馬場だった皐月賞でも押し出された1番人気も惨敗。雨に翻弄された馬だった。
競馬ファンとなって初めて迎えたダービーに胸を躍らせた日。
あの日の興奮は、22年半が経過した今でも、決して忘れることはない。
僕に競馬を教えてくれた馬、サクラチヨノオーに、合掌。
サクラチヨノオー大往生「立派な最期」 - 日刊スポーツ
88年のダービー馬サクラチヨノオー(牡)が7日早朝、老衰のため繋養(けいよう)されていた北海道新ひだか町の新和牧場で死んでいたことが10日、分かった。27歳。
美浦の境勝太郎厩舎所属で、87年8月に函館でデビュー。同年朝日杯3歳Sを勝ち、翌年ダービーで死闘を制した。メジロアルダンに1度前に出られながら、根性で差し返したゴール前は語り草となっている。ダービー後に右前脚浅屈腱(けん)炎を発症し、1年後の安田記念で復帰も16着に大敗。続く宝塚記念も16着に敗れ、屈腱炎が再発し引退した。父マルゼンスキー、母サクラセダン。戦績は10戦すべて小島太騎手でG1・2勝のほか88年弥生賞(G2)など5勝、獲得賞金2億890万円。種牡馬としては97年愛知杯を勝ったサクラエキスパートなどを出した。種牡馬を引退した後は、去勢されて故郷の新和牧場で余生を送っていた。
少しやせてきた様子はあったが、直前までは元気だった。6日朝に立てなくなり、午後は食欲も落ちた。獣医師の治療を受け、床ずれを防ぐため牧場スタッフが1時間置きに寝返りをさせたが、そのまま静かに眠り、7日朝に呼吸が止まった。同牧場の谷岡毅代表は「大往生でした。老衰とはこういうもの、という感じの穏やかな最期。餌をくれる人以外にはきつい馬でしたが、最後は好きにしてくれ、という感じで静かにしていた。立派な最期でした」と語った。
◆主戦を務めた小島太師(64) 騎手時代に乗った馬の中では最高と言ってもいいぐらいのパートナーだった。私自身2回目のダービーを取らせてもらったことはもちろんだが、朝日杯はうちのおやじが亡くなった週で、葬式を出してから競馬に行って勝った思い出もある。騎手を辞めるまでいい競馬ができたのもチヨノオーのおかげ。ありがとうと言いたいです。
サクラチヨノオーは、僕に競馬のサイクル、つまりはダービーを頂点とした馬産のサイクルを教えてくれた馬。
競馬ファンになって初めて見るダービーが1988年、サクラチヨノオーが勝ったレース。
府中の最後の直線坂下では一旦メジロアルダンが先頭に立ち、外からコクサイトリプルが迫る中、小島太の渾身の鞭に応えたサクラチヨノオーが差し返して、1988年の4歳(現3歳)世代のトップとして一躍名乗りを上げた、のちに差し返した根性が語り草となったレース。
88年の4歳(旧年齢表記)世代のトップホースといえばオグリキャップの名があまりにも有名で、事実公営笠松から転厩してきてもクラシックの追加登録が認められていなかったがためにクラシック戦線を歩むことが出来ずに、徹底した裏路線を歩まざるを得なかったが、もしクラシックレースへの追加登録が認められる現在のような制度が当時から備わっていたならば、3冠とまでは言わずとも、ヤエノムテキが勝った皐月賞、そしてサクラチヨノオーが勝った日本ダービーも、果たしてどうだったか…とは、その当時から既に言われていたことである。
しかし、オグリキャップがダービーに名を連ねていなかったからこそ、サクラチヨノオーの類稀なる勝負根性が遺憾なく発揮され、今の世まで名勝負、そしてラジオたんぱ(現在のラジオNIKKEI)中根アナの渾身の名実況と共に、語り草になったのではなかったか。ちなみに僕の中でラジオたんぱ実況陣の中で、中根アナをおいてナンバーワン実況アナウンサーは他におりませんw
88年4歳世代といえばオグリキャップが大多数のファンのイメージの中にあって、「俺も忘れてもらっては困る」とばかり、強烈な主張を自らの足跡と共に叫んでいた、サクラチヨノオー。
弟のサクラホクトオーはさらに不遇だったなあ…。
1989年春のクラシック戦線は、昭和天皇の涙雨がそのまま日本列島を包んだかのごとく雨にたたられるレースが多く、水が浮いて田んぼのような状態という、近年まれに見る極悪馬場で行われた弥生賞では全くいいところがなく、前夜までの雨でこれも不良馬場だった皐月賞でも押し出された1番人気も惨敗。雨に翻弄された馬だった。
競馬ファンとなって初めて迎えたダービーに胸を躍らせた日。
あの日の興奮は、22年半が経過した今でも、決して忘れることはない。
僕に競馬を教えてくれた馬、サクラチヨノオーに、合掌。
皐月賞のホクトオーは、三分三厘でずるずる後退して行きましたからねえ…。
トライアルの一つでもパンパンの良馬場だったら、ホクトオーの戦績は少しは違ったんでしょうけど…。