今年70歳になった。
自分を顧みておもう、
おれのような平々凡々たる人間は非常に大勢いる。
おれたちは、さあいよいよ死ぬというその瞬間が来るまで
まだまだ間があるサ
という謎のふてぶてしさを持ち続け、欲から離れた本気には一度もなれずに、欲の真っただ中で、ふっと意識が消えて、はいおしまいという頓馬を繰り返してると。
(ブッダ 神々との対話3篇3章5節・山の譬喩 中村 元訳)
より引用させていただきます。
(釈尊はパセーナディ大王に説かれた)
虚空をも打つ広大な岩山が、四方から圧しつぶしつつ、追ってくるように〈老いと死〉とは、生きるものにのしかかる。王族、バラモン、庶民、隷民、チャンダーラ、下水掃除人であろうと、いかなるものをも免除しない。すべてのものを圧しつぶす。
そこには、象軍の余地なく、戦車隊や歩兵隊の余地もない。
策略による戦いによっても、財力によっても、勝つことはできない。
それゆえに、賢明な人は、自己のためになることを観察して、
ブッタと法と集いとに対する信仰を安住させよ。
(引用終)
虚空をも打つ広大な岩山が、四方から圧しつぶしつつ、追ってくるように〈老いと死〉とは、生きるものにのしかかる。
「自分」は死を超えられない。
だから、やるorやらないの選択の余地は、実に初めからなかったのだ。
さあいよいよ死ぬというその瞬間に、初めて気づいても、すでに体力も気力もすっかり失せていて指一本動かすことさえできず、何もかも手遅れで、ただ愚かに死んでいく。
それが大多数の人間のありのままの事実だ。
それゆえに、賢明な人は、自己のためになることを観察して、
ブッタと法と集いとに対する信仰を安住させよ。
まだ体力気力が残っているうちに、これに気づきホントの本気になるかならないかに、人生のすべてがかかっている。
しかし、どこまでもホントの本気にだけは、けっしてなろうとしない、凡夫の不可思議。
(My Favorite Songs)
「誰が欲の犬を放した? 」バハメン
[同日追記]
スマナサーラ長老のヴィパッサナー瞑想法話
「執着の発見ーー自宅で瞑想する心構えと観察のコツ」