哲学日記

冥途のみやげ覚知

 

 おおむね平和な家庭の中でたいした波風もなく、親も長生きをし子供にも恵まれ、生活にも貧しさを感じない人達は、ブッダやイエス・キリストや、あるいはトルストイや親鸞のことを内心どう感じるでしょうか。


超リッチな生活と王位継承権と妻子を捨て、無一物の修行者になったブッダは、愚か者にしか見えないでしょう。


十字架上で虐殺されたイエス・キリストは、狂人としか思えないでしょう。


同様に、トルストイも親鸞も、わけわからん考えの犠牲になった不幸・不運な人間でしかないでしょう。


口に出してはっきり言う者はいなくても、彼らには、そうとしか見えてないでしょう。


実際彼らは、ブッダやキリストが何千年も尊敬され続けている理由が、本当のことをいえば、さっぱり理解できないのです。

 

 


もし人間が老病死しない存在なら、それでも通用するでしょう。
しかし、いうまでもないことですが人間は必ず死にます。例外はありません。

 

 


彼らは、
自分は死を超えられないという事実
を無視した愚かな幻想のなかで生活しているために、正しい判断ができない。


死んだら、あの世というそう悪くない世界があって、そこに引越して、先に往ったみんなと一緒に、いわば人生パート2が始まるものと、ぼんやりのんびり幻想してるんです。

さあいよいよ死ぬというその瞬間ときが来るまでは……

さあいよいよ死ぬというその瞬間とき本人が望めば、ブッダやキリストが死後何千年も尊敬され人類に記憶されてきた理由にも、初めて気づき、
自分は速やかに忘れられてしまう理由にも、初めて気づきます。

さらに、死こそ確実だという、あたりまえの事実に生まれて初めて気づき、必然的に、それまで疑うことさえできなかった「俺、俺のもの」こそ、人生が徒労に帰す元凶であり大嘘だったと気づく。

というのも、欲望のプログラムは、いまや死なんとする個体を、役立たずのものと見限って、
欲望から自由な認識
を、その瞬間初めて彼(彼女)に許すからだ。

どんな欲深い人間でも、死ぬ前には、それまで気づけずにいた存在の意味に卒然として目覚めかける。
残念ながら、その直後死ぬのだが。

 

これが、全て手遅れになって今さら何もできなくなってから、意地悪く与えられる冥途のみやげ覚知です。

すべての人間は、動物として生まれた時の初期設定がそうなってるので、必ずそのように死ぬしかない、自分で設定値を変えた人間以外は。

だから人生の真の目的は、この「死ぬ直前の気づき」を、ピンピンしてるうちになんとかして得ることだけです。

もし元気なうちにこの覚知を得た者にはさらに、そう気づかせてくれた死等の苦が、実は聖だという鮮やかなパラダイムシフトが起きる。初期設定値が動きだす。
苦聖諦は、苦しみ「が」救ってくれるから苦聖諦と呼ばれてる。
人生楽ありゃ苦もあるさでは、そこそこいい人生だとおもってるわけで、そんな人には仏法の入口扉さえ開かないから、サティの価値もまるきりわからん。

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs) 

B. B. King - The Thrill Is Gone. New York 1971


www.youtube.com

 

(過去記事統合編集再録)

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