不幸の始まり
実家の一階部分をブラジル人が借り、酒場を開いてからが、私の人生の不幸の始まりであった。母が死ぬまでは親子三人で仲良く静かに暮らしていた。ブラジル人が来る前には日本人(丸新食品)が実家の一階部分を借りていたが、静かに営業しており何の問題もなかった。しかし、ブラジル人が酒場を開業してからは、私の居住していた場所の雰囲気は一変して、昼間から酔っ払いが大勢、辺りをたむろし、入れ墨をした人間が出入りするなど私も怖い思いをした。近所からも騒がしいと苦情が出ていた。小学校も近いし風紀は完全に乱れて、困ったものだと思った。私も家主として注意に行ったが、逆に営業妨害だとか文句を言ってきて、警察が介入するようになった。明らかに民事介入で不法なことだった。外で焼き物をし消防法に違反するなど不法なことを行い、指摘した私が営業妨害と悪者にされ、警察とももめることになった。結局、私はそこに住めなくなり、やむを得ず、マンションに移り住むことになったが、住み慣れた実家を離れたことは、かなり苦痛であった。なにしろ、実家は小学生の頃から住んでいて想い出にあふれる場所であったから。時々、実家に用があって私が戻ると、実家の前を通っただけの私に対して、酒場の女主人は盛んに通報することを繰り返し、その後私をなんとストーカー扱いし、警察に訴えるようになった。しかし、警察官の中には、通報があって何回調べても酒場にはなんの被害も認められないと言う人もいた。明らかに今思えば、その女主人は虚偽告訴罪を犯していたことになる。なぜか、警察というのは女性の言うことは無条件に信じるものらしい。しかし、私の失ったものは大きい。実家を失ったことは、懐かしい思い出の故郷を失うことに等しかったからである。想い出の部屋、想い出の環境を無理やり奪われることになった。現在、やっとブラジル人も退去し、付近は平穏に戻ったが、想い出の住処を失った私の精神的な苦痛は大きなものがある。虚偽告訴を繰り返したその女主人は憎いが、忘れるしかない。しかし、この件で、改めて日本人がいかに大人しく秩序を重んずるかの認識を新たにした。外国人は倫理観に乏しく騒がしく、外国人にやたら物件を貸すものでないとも思った。日本では借り手よりも貸し手のほうが立場が弱いのもある意味問題だと思う。迷惑を受けて追い出したくても法律上簡単にはできないようになっているのである。私の心の痛手は大きいが、諦めるしかないようだ。
荒井公康
私は現在26歳で、旦那と三人の子供と一緒に富山で暮らしています。農業に携わる一方で、教育などあらゆる分野に関心を広げているところです。
わかりずらくて申し訳ありません。
なぜイエスが神の子として歩んだ時期と、私は明けの明星であると僕の位置を示されたかにも理由があります。
またイスラエル民族に対しては神は主として現れました。しかしイエスには父として現れました。それにも理由があります。
イエスは人類の罪を背負って十字架で死なれた。イエスは死ぬために来た。というキリスト教共通の解釈は少し矛盾を感じます。果してイエスは十字架を望まれたのでしょうか。もしそうなら、なぜ、「この杯を過ぎ去らせてください」と祈られたのでしょうか。キリスト教の人が、イエス当時の時代に行ったならば喜んで殺すのでしょうか。イエスは、最初は「見よ時が来た。天国は近づけり汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」と言われたように、イエスの目的は天国を迎えることにあったはずです。もしイエスが十字架に架かって人類の罪を償うために来たのでしたらその結果、天国が来ていなければおかしいです。しかし十字架上のイエスは共に架かった右側の強盗に対して「あなたは今日私と一緒ににパラダイスにいるであろう」と言われ、ペテロに「天国の鍵を預ける」と言われました。明確に天国とパラダイスを使い分けています。イエスは弟子が裏切らなければ十字架で死ぬことなく、まだほかにやりたいことがあったのではないかという疑問がうまれます。
このように、解釈に矛盾が生じれば、それを心から納得することはできません。
また、神のなさることを人間が理解できるわけないと、根拠が薄いまま兎に角「信じなさい」という妄信的なことは避けたいと思っています。私は誰かを否定したいとか、そういったマイナス的なことは一切ありません。ただ真実を知りたくて探究しています。
根気強くひとつひとつ紐解いていくことで見えてくるものがあります。
今更なのですが、ブログ内だと通知に気づきにくいこともあり、荒井さんさえよければ
メールでのやり取りが出来れば嬉しいです。
アドレス:4narinari2@gmail.com
narinariさんの質問は難しくて答えられませんが、今日のデイリーブレッドから引用しました。
神は人間を他の被造物とは違う性質を持ち、神のような存在である。それは、つまり、神と親子であり、神の子供として人間を作られたともいえます。その目的がどこにあるかといえば、愛にあると考えます。神は神にしかない唯一の特徴を人間に与え、万物をも与えました。そして何よりもご自身の価値までも人間に委ねられたのです。親の完成は子供によって決まります。子供が立派なら、育てた親も立派となります。しかし、子供が悪行に走っているのに、素晴らしい親とはなりません。神はご自身の全てを懸けてまで人間を生み出しました。人間を生み出した瞬間、創造者から親となりました。ただ試すためや好奇心のためなら、それが満足した時点で滅ぼすでしょう。悪で満ちる人類をみながらそれを良しとするなら、そもそも全てを懸ける必要はありません。現に聖書には、民の愚行に嘆く神の叫びが綴られています。ノアの時には「我、人を造りしことを悔いる」とまで言われています。それなのに、人類を滅ぼさず、今もなお忍耐されているのは、愛以外に考えられないのではないでしょうか。そして次に、人間はどうすれば神と一致したといえるのかという疑問や
人間が神の子の位置から、外れた原因は何か、そして外れたところから戻る方法はあるのか。などの問いがうまれてくるかと思います。
それを紐解くためには、聖書が重要となります。聖書を単なる歴史書ではなく科学の書として分析します。科学は仮設だけでなく、実証が求められます。
善悪混濁した人類歴史の中で、イエスだけが神の子として神と人間は親子であると証明しました。神の子といえば死刑が確定するにもかかわらず、その信念を曲げることはありませんでした。命懸けで、十字架上の逆境にもおいても、神との親子の関係を守り抜きました。神も「この子はたった一人わたしの心に叶う者」といわれました。また、キリスト教は誕生したイエスに救いをもとめますが、なぜ、イエスは神の子として誕生できたのかには関心がないように思います。
人間の本来の位置、堕落した原因、犯した罪の詳細、神はなぜ一人子イエスを遣わしたのか、堕落した人間は再び神の子に帰る方法はあるのか。を追及することも重要だと捉えます。
度々拙い文章で申し訳ありません。
どう思われますか(>_<)
生まれながらの人間は罪を持っており、新生、聖化、栄化という一種の修行を積まなければ、神に近い存在にはなれないようです。生まれながらの人間と神との間には隔絶があるというのが現実だと思います
この他にも、この本には、神がどのような存在かが書かれていて参考になります。narinariさんにもお勧めします。
人間が善であろうと、悪であろうと、そもそも人間を生み出された神は、人間を消滅させることさえ簡単だと思います。しかし、手を出すことをせずに人間の自由な意志に任せているかのように見えます。奴隷として造られたならば、勝手な悪行を許しておくはずがありません。自分の意志で善悪を判断し、自ら命を絶つほどの決定権が与えられたのは、人間だけです。神はその人間に何を期待されたのかを知るためには、まず神の特徴を研究する必要があると思います。
神は想像力と創造力を持ち、時空を超越したお方です。
人間もまた、他の動物とは違い、想像力と創造力を持ち、過去に遡ることができ心は時空を超越しています。
神を100の存在とすれば、同じく100の存在が必ずあるはずです。原因と結果はイコールだからです。
あらゆる宇宙万物の中で、人間だけが神の特徴と一致します。人間がロボットを作る場合、作った人間はロボットの全てを理解できますが、ロボットが人間の全てを理解することはできません。人間とロボットの間には落差があるからです。
しかい、人間が子供を生む場合は、人間と人間、100と100の関係となります。落差がありません。
神とイコール、つまり親子の関係にある存在があるとすれば、
神の特徴に一致する人間だということがわかるのではないでしょうか。
神は人間を、子供として生み出した。という結論です。
おおざっぱで申し訳ありません。どう思われますか。
私もクリスチャンではないですが
宇宙万物は偶発的に生み出されたのではなく、何らかの存在によって造られたと思っています。「神」一つとっても、その定義は様々です。イエスのように愛なる神としての認識もあれば、神の名を語って、大虐殺を行ってきた歴史もあります。
まずはその定義を、しっかりと定める必要があると思っています。
全て原因があって結果が生じています。そして存在よりも先に目的があります。
その前提で考えると、私の存在の前に、明確な目的がなくてはいけません。そして、その目的に一致することなしに、価値を発揮することはできません。
会社創立の目的は、会社創立の前にあり、その目的を正確に知るには
創立者に聞かなければなりません。
それと同じように、結果として存在している人間を生み出した原因に目的を聞かなければ、正確な人生の意味や価値を見出すことはできないと思います。
これでも前置きで、
なるべく完結にと思いながら
ザックリとした説明でわかりずらいかもしれません。
(分からないところはご質問くださるとうれしいです)
荒井さんと同じく、私も
自分を生み出した存在には心から感謝しています。母の胎内で私を形作り、全てを準備していただきました。
ヨブの教訓はご存知でしょうか。
私もそのように全てを受け入れて生きるも死ぬも、逆境も繁栄も委ねていけたらと思っています。
人生の意味については、以下のような見解があります。
• 脳科学者の茂木健一郎は、「生きる意味は、楽しむことにある」「生まれてきて良かったと、死ぬその瞬間に思うために生きている」など、好きなように決めていいということですhttps://ja.wikipedia.org/wiki/人生の意義。
• 哲学者のアルベール・カミュは、「人間は自分の存在に意味を求めるが、世界はそれに答えない」という不条理を指摘し、それでも自分の選択や行動に責任を持って生きることを提唱しましたhttps://dictionary.goo.ne.jp/word/生きる/。
• 宗教者のマザー・テレサは、「人間は神から愛されており、神の愛を他人に伝えることが人生の目的である」と説きましたhttps://hermes-life.com/purpose-life/。
• 心理学者のアブラハム・マズローは、「人間は基本的欲求のすべてを満たして、ようやく自己実現の欲求にかられ始める」という階層的な欲求理論を提唱しましたhttps://news.mynavi.jp/article/20201123-1491866/。
よそ者が勝手なことを言って大変失礼しました。
死は誰でも通過するものです。若くても明日生きている保証はありません。誰もが常に死と隣合わせの人生です。
人生の捉え方は人それぞれ
違いますが、自分の意志とは関係なく誕生してはじまる人生には、どんな意味があるとお考えでしょうか。
もし、よろしければ教えて頂きたいです。
前を向いておられることに
深く尊敬致します。
人は逆境において本心が顕著に
現れて来るかと思います。
その時に何を選択するかは
自分で決めることになります。
恨むこと、復讐に走ることもできますし
諦めや無関心に陥ることもありえます。
逆に許し、より器を広げることもできます。
困難を糧とし感謝に変えることもできます。
しかし、
その時の葛藤は壮絶なものかと思います。
私も自分の弱さを克服し
愛に生きる選択をし続ける強さを
持ちたいと思いました。
誤解を招くと思いますので詳しいことは述べませんが、本当に酷い目に会いました。礼儀や思いやりに乏しいどころか遵法精神もありません。悪口になってしまうので、あまり言いたくありません。ご理解ありがとうございます。過去のことは忘れて前向きにいきていきたいと思います。ありがとうございました。
ブログを読ませて頂きました。
私も胸が痛みました。
日本人では当たり前の礼儀や思いやりが
他国に通用するとは限らないという
悲しい現実がありますね。
受け入れたいけれど
その土地や地域の持つ伝統などが
壊されていくのは見過ごせません。
秩序が乱れれば本末転倒です。
悲しみは消えないと思いますが
前を向いて頂けることを願っています。