きみだんごの日記帳

日記帳の形を借りて、創作活動の成果を発表していきたいと思います。
荒井公康

孤独日記8

2023-07-30 13:53:53 | 日記

「近江商人心得帖」
 1.商いをするとしないとに関わらず、一度でも会った人の顔と名前は絶対に忘れないこと。
 2.商いをするには、七度まで通って人を説き、例え成功しなくても後日を期して態度を変えないこと。
 3.腹が立っても、笑顔を看板とし、音声は常に低めを心掛けること。

知足不辱。知止不殆。
可以長久。
(老子、第44章)
足るを知れば辱しめられず、
止まるを知れば殆うからず。
以て長久なるべし。

まことに、あなたの大庭にいる一日は
千日にまさります。
私は悪の天幕に住むよりは
むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。
(詩編84:10)
 神に信頼する人は、なんと幸いなことでしょう。あなたの恵みに感謝します。

 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
(使徒20:35)
 初めはキリスト教徒を迫害していたパウロも、回心して、自ら働きながら伝道に努め、ついにはキリスト教を立ち上げ、世界中に布教する礎を築きました。弱い者を助け、自分の益よりも相手の益を考えることの大切さを説いた精神は人々の心を打ち、キリスト教が広く受け入れられる要因になったのでしょう。パウロなくしてキリスト教なし、と言われます。パウロが果たして幸せだったのか分かりませんが、神はパウロをキリスト教伝道の器にされたのでした。さて、神は私に何を望んでおられるのでしょう。残念ながら私には分からないことです。

「もしある人が羊を百匹持っていて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人はどうするでしょうか。丘に九十九匹を残して、いなくなった一匹を探すために出て行かないでしょうか。そしてもしその一匹を見つけたとしたら、あなた方に本当のことを言いますが、彼は迷い出なかった九十九匹の羊のこと以上に、その一匹を喜ぶのです。同じように、この小さい者たちのたった一人でも滅びることは、私の天の父の意図するところではありません。」
(マタイ18:12~14)
 マタイは迷子になった一匹を「小さい者=取るに足らないちっぽけな者」にたとえます。神さまには大切に思わない人など一人もいないのです。社会で取るに足らないとされている「小さな者」だって神さまはきちんと気にかけていらっしゃるのです。

 どんな小さな仕事であっても、それを天職と自分で思って全身全霊をかけてぶつかり、目の前の課題を一個一個クリアする中で、次の展開が見えてくる。<小久保祐紀(元侍ジャパン代表監督)>

 仕事をするうえで、改善という言葉はいつもついて回ると思う。これは、環境や状況が常に変化することを前提として、同じことを繰り返しているだけでは成果が上がらないからだ。いや、上がらないどころか、先行きが危うくなってくるからだ。これは、人間そのものにも当てはまることだ。私たちは、現状に甘んじていては成長がない。人間は、そもそも成長していくように造られている。だから、常に自分の将来を見据えて、自分自身を改善していかなければならない。毎日、何か一つでもいいから、自分自身に栄養分を与えるようなことをしていこう。

 ある日、私は「妻を求む」という広告を新聞に掲載しました。次の日、私は、たくさんの広告への反応を受け取りました。ほとんどが同じ内容でした。「私の女房はいかがですか」というものでした。

 神よ、変えるべきものを変えていく勇気を私たちにお与えください。また、変えてはならないものを守っていく心の落ち着きをお与えください。そして、何にも増して変えるべきものと変えてはならないものの差を見分ける知恵をお与えください。<ラインホールド・ニーバー(米国の神学者)>

 わたしたちはいい人生や悪い人生を与えられるのではない。ただ人生を与えられるだけだ。それを良くするのも、悪くするのも、あなた次第なのだ。<ウォード・フォーリー>

 古いものを尊びなさい。けれども、新しいものにも暖かい心で接しなさい。知らない名前に対して、先入観を持ってはいけません。<ロベルト・シューマン ドイツの作曲家>

 企業の経済活動が活発になり、大企業が内部留保を2倍にしても、その内部留保が下請けや労働者に払われず、法人税や復興税は減税し、企業が人手不足だと言えば、ロクな議論もせずに法案をゴリ押しするのが保守政治と言えるのか。アベノミクスの中味は金融緩和だけで、株価や企業業績は上がったかもしれない。しかし、国民にその恩恵は一つも届かず、やれ年金は減額だ、税金は増税だ、社会保障の負担金は増額だと国民負担は増す一方だ。

 今日12月10日は『ノーベル賞授賞式』 スウェーデンの科学者アルフレッド・ノーベルが1896(明治29)年に亡くなった日。ノーベル賞は彼の遺言により創設された。物理学・化学・医学・文学・経済学の各賞はスウェーデンの首都・ストックホルムで、平和賞はノルウェーのオスロで授賞式が行われる。賞の選考はノーベルが生まれたスウェーデンの研究機関が行い、平和賞だけは、創設当時スウェーデンと連合王国だった関係でノルウェーで選考される。賞ごとに選考委員会を作られ、世界中の大学や専門家に推薦依頼を送って、その返答をもとに受賞者が選ばれる。

置かれた場所で咲きなさい。<渡辺 和子>

子供のようになりなさい。子供はいつも前向きです。過去に執着しません。精神がいつも活性化しています。<シンディ・フランシス アメリカの作家>

あなたの傷を知恵に変えなさい。<オプラ・ウィンフリー>

あなたが生まれた時に、あなたは泣いて周りは笑っていたでしょう。だからあなたが死ぬ時は、周りが泣いてあなたが笑っているような人生を歩みなさい。<アメリカンインディアンの教え>

人の幸せはラクなところにはない。むしろ苦しいところにこそ、あるんです。乗り越える楽しみ、乗り越えた後の喜びがあるわけですから。<片山 右京 レーシングドライバー>

どんな関係においても、致命的な敵とは、自分自身、そしてお互いをあたり前のものつまり空気のように思い、関心をもたないことです。<マザー・テレサ>

 いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
(Iコリント4:7)
 私たちが持っているものは、全て神からの賜物であり恵みです。自分だけの力で得たものは何一つありません。自分自身、財産、才能、友人、家族、その他全て神さまからの贈り物です。それらを所有しているからと言って、自ら誇ってはいけません。全ては神さまのお陰です。神さまに感謝しましょう。

 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。
(Iコリント10:24)
 生まれながらの人間は利己的で自己中心的なものだと思います。自分のことばかり考えて、他者のことは無視しがちです。幸いなことに、私たちは、イエス様を信じることにより、愛によって他者のために生きるものと変わらせて頂くことができます。他人の利益を考えることは、自力では難しいことですが、神さまにより頼んで、愛に生き、他者のために生きられるように祈り求めましょう。

 人間にとって一番の幸せは、自分のあるがままにいることです。「エラスムス」

 幸福とは、あるがままの自分や、現在の生活や、今の人生の歩みを、心から受け入れられる能力である。「ウイリアム・ニッケルズ」
 パンさえあれば、たいていの悲しみは耐えられる。(セルバンテス)

 さとりとは、煩悩や迷いがなくなった状態ではなく、それらが、静められ、制せられてバランスの取れた状態のこと。(松原泰道)

 老年は人間的なエゴイズムの束縛から解放されている。ようやく解放されて、魂は移りゆく一瞬一瞬を愛でる。ただ、とどまれとは命じない。人生に理由などなく、人生に意味などない。これが答えである。 (サマセット・モーム、「サミング・アップ」)

「何を忠告すべきか」を心得ている人は、たいてい「何も忠告すべきでない」と心得ている。「イーデン・フィルポッツ(小説家)」

 少にして学べば壮にして為すなり、壮にして学べば老いて衰えず、老いて学べば死して朽ちず。(佐藤一斎)

 人間は偉くならなくとも一個の正直な人間となって信用できるものになれば、それでけっこうだ。真っ黒になって黙々として一日働き、時期が来れば“さよなら”で消えていく。このような人間を偉い人だと自分はいいたい。<鈴木大拙>

 悩み事は、散歩して忘れるのが一番だ。まあちょっと外へ出てみたまえ。ほら、悩み事なんか、翼が生えて飛んでいってしまう。(デール・カーネギー)

 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思うものは、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりまさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
(マルコ10:43~45)
 偉くなりたいとか人の先に立ちたいと思うことは、ある意味で不自然で、空しいことなのではないでしょうか。逆説的ですが、水が低きに流れるように、自分を低くするほうが楽ですし、自然なことです。自然に逆らってうまくいくことはありません。自然に逆らわずに、他者に仕えられるよりも他者に仕えるものとなれるようになりたいものです。

 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
(コリント第二3:17)
 私たちの自由と神とは関係があります。私たちは自分というものを、神によって、私たち自身に授けられているのです。私たちは神と結びついて、この世に依存しないですむときに、最も自由なのです。神は私たちが自由であることをお選びになりました。本来は私たちはこの自由を放棄して自己の責任を回避できないのです。自由のあるところには責任が伴います。私たちには自由とともに責任も与えられているのです。この世に悪があるのは、神に責任があるのでなく、人間の自由と責任回避によるものです。

 愛は信頼の行為である。神が存在するかしないかはどうでもよい。信ずるから信ずるのである。愛するから愛するのである。たいした理由はない。(ロマン・ロラン)

 悲観主義者は風にうらみを言う。楽観主義者は風が変わるのを待つ。現実主義者は、帆を動かす。(William Arthur Ward ウィリアム・アーサー・ウォード、米国の作家)

 経験とは、人々が自分の愚かさ、あるいは悲しみに与える名前である。(ミュッセ)

 心の目を覚まし、行く道の途上で出会うすべてのものを、じっくりと味わってごらんなさい。(ウエイン・ダイアー「どう生きるか、自分の人生!」)

 日本人は、自然を支配するのではなく、自然に対して限りない慈しみと喜びとともに、愛をささげる。<ラビンドラナート・タゴール: インドの詩人・思想家。ノーベル文学賞受賞。>

 愛とは他から奪うことではなくて、自己を他に与えることである。(阿部 次郎 哲学者・美学者・作家)

 人間は努力しているあいだは、迷うにきまったものだ。(ゲーテ)

 病める貝殻にのみ真珠は生れる。(芸術家)

 原始時代の人は、その恋人に花輪を捧げることによってはじめて獣性を脱した。(岡倉天心)

 我らは、ちょうど色々な御門や通路を経て、長い趣のある廊下を通って、幾たびも幾たびも折れ曲がって、壮麗な宮殿の中に導き入れられるように、恋愛につれてゆかれるのを喜ぶべきである。(モンテーニュ)
 きのうは、今日のほんの思い出。 そして、明日は、今日の夢。(カリル・ギブラン レバノンの詩人・預言者)

 人生は外国語だ。大概の人間はそれを間違って発音する。(クリストファ・モーレイ)

 プラスチック製レジ袋の使用禁止などを目指し、京都府亀岡市と市議会が13日、「かめおかプラスチックごみゼロ宣言」をした。2020年度までに市内の小売店でのレジ袋の使用を禁止する条例を施行する方針。レジ袋を巡っては政府も小売店に有料化を義務づける方針を固めているが、市は廃止に向けてさらに踏み込む。現在、国内の自治体に同様の条例はないという。

 ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
(ガラテヤ3:28)
 神は私たちが自由であるばかりか平等であることも教えられました。私たち人間は、それぞれ立場によらず、キリスト・イエスにあって平等です。また、キリスト・イエスにあって一つであり、皆、敵ではなく仲間です。ここに、自由、平等、博愛といった近代民主主義の価値理念が確立しました。主に感謝します。

 ここに善意にみち、少し試み、多く失敗せる人眠るーーー多分これが彼の墓碑銘かも知れない。しかしそのことで彼は恥じる必要は毛頭ないのだ。(E・シティヴンソン)

 あんた方にとっての遊びは、わたしたちにとっては死なのだ。(イソップ:カエルの抗議)

 一日だけ幸せでいたいと思ったら床屋に行くがいい。一週間だけ幸福でいたいと思ったら結婚するがいい。一ヶ月だけ幸福でいたいと思ったら新しい馬を買い給え。一年だけ幸福に暮らしたいと思ったら、新しい家を建てろ。一生涯、幸せでいたいと思ったら、正直な人間であること。(イギリス倫諺)

 充実した一日が幸せな眠りをもたらすように、充実した一生は幸福な死をもたらす。(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

 幸福は身体にとってはタメになる。しかし精神の力を発達させるものは悲しみだ。(マルセル・プルースト)

 もし君が満ち足りるということを知っていないならば、幸運も君を幸福にすることはできない。(サンダース)

 孤独は、ひとを破壊しないかぎり、ひとを高めるものだ。(S・ツヴァイク)

 自分自身を支配しない人間は決して自由ではない。(ギリシャ人の言葉から)

 若い時は、一日は短く一年は長い。年をとると、一年は短く一日は長い。(ベーコン)

 友情を強めるその時間が、恋を弱める。(ラ・ブリュイエール)

 ひとりの、あるいは少数者の奴隷となるなかれ。万人の奴隷となれ、そのとき、汝は万人の友となる。(キケロ)

 恋愛の場合は、信じられたいと思う。友情の場合は、見抜いて欲しいと思う。(ボナール)

 初恋とは少しばかりの愚かさとありあまる好奇心のことだ。(バーナード・ショウ)

 私たちの一切の不幸は、私たちが独りでおれないところから生ずる。(ラ・ブリュイエール)

 植物の病原菌感染で年間5億人分の農作物が失われている。植物が病原菌感染に対して分泌する免疫ホルモンは免疫活性化という利点と同時に、生長停止という欠点もあった。今回、植物ホルモンであるジャスモン酸イソロイシンと構造が似た物質が新たに開発された。そして免疫強化剤として用いたところ生長を止めず、免疫を活性化させることに成功したという。世界の食糧問題の解決につながる画期的成果だ。

 今日12月14日は『忠臣蔵の日』。1702(元禄15)年のこの日、赤穂浪士47人が本所の吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちを成し遂げた。1701(元禄14)年3月、江戸城松之廊下で播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、幕府の礼式を司る高家筆頭の吉良上野介義央に小刀で切りかかるという事件が起った。浅野には即日切腹、領地没収という厳しい処置がとられたが、吉良には一切のお咎めがなく、これが事件の発端となった。家臣たちは主君の仇を討つ為に綿密に計画を練り、翌年12月14日寅の上刻(現在の暦法では15日午前3時ごろとなるが、当時は日の出の時間に日附が変わっていたので14日となる)、大石内蔵助の率いる47人が、本所の堀部安兵衛宅に集まり、そこから吉良邸へ討ち入った。2時間の戦いの末、浪士側は一人の死者を出さずに吉良の首を取ることができた。世論は武士の本懐を遂げた赤穂浪士たちに味方し、幕府は翌年2月4日、一同切腹という処置をとった。この事件を題材として、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』等100種にも登る作品が作られ、現在まで語り継がれている。

 我々は二つの耳と一つの口を持っている。沢山聞いて、少くしゃべるために。(ギリシャ諺)

 沈黙はひとつの素晴らしい会話術である。(W・ハズリット)

 忠告はめったに歓迎されない。しかも、それをもっとも必要とする人が常にそれを敬遠する。(チェスターフィールド)

 人の言葉は善意に取れ。その方が五倍も賢い。(シェークスピア)

 書物は友人と同様、数少なくあるべきであり、そしてよく選択されるべきである。(トーマス・フラー)

 読書は充実した人間をつくり、会議は覚悟のできた人間をつくり、書くことは正確な人間をつくる。(F.ベーコン)

 本は人生を楽しむことを教えるか、さもなくば人生を我慢することを教えるものでなければならない。(R・ジョンソン)

 多分、人間のたった一つの本当の価値は、自分自身を軽蔑できるということであろう。(G・サンタヤナ)

 人間とは、神の失敗作に過ぎないのか、それとも、神こそ人間の失敗作に過ぎぬのか。(F・ニーチェ)

 考える人間にとっては、世の中は喜劇であり、感ずる人間にとっては悲劇である。(H・ヲルポール)

 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
(エペソ4:32)
 キリストは私たちの身代わりとなって十字架に掛かられ、私たちの罪は赦されました。神がなされたように私たちもすべきです。お互いを思いやり、お互いに親切にし、互いに赦し合って生きていきましょう。

 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。
(ヤコブ1:25)
 信仰義認といっても、信仰だけでよいという訳ではありません。律法も行いも大切です。全ての律法を覚えそれを守るのは難しいことですが、神と隣人を愛するという原則を守っていれば、律法に反することはありません。世の中の法律全てを知らなくても、健全な常識があれば、法律違反をすることはないのと同様です。また、律法を守る人は、事を実行する人となります。真の信仰にはよい行いも含まれます。例えば、神と隣人を愛するという行為は信仰に基づく行為です。よい行いを伴わない信仰は真の信仰とは呼べず、口先だけの偽りの信仰です。信仰だけを強調する人がいますが、社会生活を送っていく上で、それだけが全てではないのは、当然ではないでしょうか。信仰が真正なことは何らかの形で示されなければなりません。偽りの空虚な信仰に陥らないようにしたいものです。律法、行い、信仰は相互に関連しあっているのです。信仰は行いを導き、律法は行いに内容を与えるものです。

これらのものは滅びるでしょう。
しかし、あなたはながらえられます。
すべてのものは衣のようにすり切れます。
あなたが着物のように取り替えられると、
それらは変わってしまいます。
しかし、あなたは変わることがなく、
あなたの年は尽きることがありません。
(詩編102:26~27)
 この世には神と神以外の被造物しか存在しません。神のみが常しえで、変わらず、永遠の存在です。それに比べ、人間を含む被造物は、変化し、滅びていきます。まさに諸行無常です。そんな私たち被造物を神があわれみ、いつくしんで下さいますように。

 実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。
(伝道者の書2:22~25)
 人の一生は悲しみと悩みでいっぱいで情けないことです。ただ、食べたり飲んだり、ささやかな楽しみに満足を見いだすしかありません。しかし、それも神のみこころなのです。神から離れては、楽しみもないのです。大いなることを望まず、ささやかな幸福を求めるときに神は私たちのそばにおられ、私たちは楽しむことができます。この幸いを覚えましょう。

 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
(ルカ1:30)
 クリスマス。それは神の御子イエスが人となって、この世に遣わされたことを記念する日です。神が人間を救うためにこの世に来て下さったのです。御子イエスの一生は、生まれたときから、苦しみと自己否定の連続で、決して幸福なものではありませんでしたが、結局、救い主の誕生は、人々にとって大きな喜びになったのです。

 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足らないものと私は考えます。
(ローマ8:18)
 聖書は、一時的な苦しみを永遠の相のもとで評価するようにと、私たちを励まします。

 鍋の美味しい季節になった。料理にガスを使う家庭は多いかと思うが、ガスには都市ガスとプロパン(LP)ガスの2種類がある。前者はメタンを主成分とした天然ガスで空気より軽いため、漏れた際は上に溜まる。また、後者はプロパンを主成分とした液化石油ガスで空気より重いため、下に溜まる。そのため、都市ガスを検知するガス警報器は壁の上部へ、プロパンガスは壁の下部にそれぞれ設置する。

 人が不安を感じる時、その内容が現実となっていることはまずない。不安は、自分にとって受け入れたくない事がこの先にやってくるかもしれないという憶測の感情に過ぎない。早い話が取り越し苦労をしていることになる。心配や不安の感情をいったん隅っこに置いてみることだ。その代わりに、受け入れたくないことを受け入れないための方策に気持ちを向けてみよう。気持ちを落ち着けて自分の心に訴えてみると、案外それまでに浮かばなかった方策や考えが顔を出してくるものだ。自分の中にある無限の潜在脳力を信じよう。

 ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。・・・ふたりはひとりよりまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。
(伝道者の書4:8~12)
 昔から孤独な人がいたのですね。ひとりで生きていくことはそれほど困難とは思いませんが、時にそれは辛いことだとも思います。孤独な若い人にとって、このクリスマスの時期はなおさらでしょう。私には少ないですが仲間や兄弟がいるのが救いです。昨日は教会に行き、皆とクリスマスを祝いましたが、それでも一人暮らしなので、家に帰れば、孤独感におそわれることもあります。でも、神さまはいつも私たちと共におられるのです。神さまは私たちのところへ来られたのです。インマヌエル。これこそがクリスマスのメッセージです。

 クリスマスのことでした。判事さんは、(クリスマスなので)とても、陽気な気分でした。彼は、囚人に聞きました。「あなたは何の罪で、告発されているのですか?」
 囚人は答えました。
 「クリスマスショッピングが早すぎたのです」
 「それは罪ではないでしょう」
 と判事は言いました。
 「どれくらい早く買い物をしたのですか?」
 「店が開く前にです」
 と囚人が答えました。

 二人の若い兄弟が、おじいちゃん・おばあちゃんのところにいました。ベットの時間で、二人の少年は、ベットのそばにひざまずき、お祈りを始めました。その時、年少の少年は、大きな声で、お祈りを始めたのです。
「新しい自転車、任天堂、ビデオをお願いします」
おにいちゃんは、かがみこんで、弟を、肘でつつきました。
「なんで、叫んで、お祈りするの?神様は、耳は悪くないよ」
それに対して、弟は答えました。
「おばあちゃんが耳が悪いんだよ」

 メシヤのわたしでさえ、人に仕えられるためではなく、仕えるために来たのであり、多くの人の罪の代償として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
(マルコ10:45)
 御子イエスは、私たちに仕えるために、この世に来られました。そして私たちの身代わりになり、私たちの罪を贖うために、十字架にかかられました。ここに私たちに対する神さまの愛が示されたのです。究極の愛とは、他者のために命を捨てることです。それが献身ということです。私たちが神さまに倣って、お互いに愛し合って生きることは、神さまに喜ばれることです。神さまはお手本を示されたのです。神さまに倣うものでありたいと思います。

 人生は一冊の書物に似ている。馬鹿者たちはそれはパラパラとめくっているが、賢い人間はそれを念入りに読む。なぜなら、彼はただ一度しかそれを読むことが出来ないのを知っているから。<ジャン・パウル>

 人はどんな高いところでも登ることができる。しかし、それには決意と自信がなければならない。<アンデルセン(世界の童話王)>

 一つひとつの悲しみには意味がある。時には思いもよらない意味が。どんな悲しみであろうと、それはこのうえなく大切なもの。太陽がいつも朝を連れて来てくれるように、それは確かなことなのです。<エラ・ウィーラー・ウィルコックス>

 つらい道を避けないこと。自分の目指す場所にたどりつくためには進まなければ。<キャサリン・アン・ポーター>

 どんなに才能があっても、結局、元気でなきゃだめ。<黒柳徹子(女優・ユニセフ親善大使)>

Patience wears out stones.
(忍耐は石をもすり減らす)
「石の上にも三年」

Perpetual optimism is a force multiplier.
-- Colin Powell
常に楽観的でいることで、持てる力が増幅される。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。 主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。 主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」
(民数記6章 24-26節)
 これからずっと、あなたが主に守られて、恵みと平安を与えられますように。2019.1.2

私を砕き、
御手を伸ばして私を絶つことが
神のおぼしめしであるなら、
私はなおも、それに慰めを得、
容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。
私は聖なる方のことばを
拒んだことがないからだ。
(ヨブ6:9~10)
 思いがけなく、どんな試練に会おうとも、私たちは、ヨブのように、神を信頼し喜んでいられるでしょうか。私には自信がありませんが、幸いなことに、私たちの神は義と愛の神です。どのような時にも信頼に足る存在です。どのような試練に会おうと、神を信頼し、喜んでいられる者でありたいと思います。神は必ず試練を乗り越える道も同時に備えて下さいます。全ては神のなさることです。義と愛の神は最善のことしかなさいません。神に信頼してまいりましょう。

 わたしを見た者は、父を見たのです。
(ヨハネ14:9)
 神に関する真の知識を私たちは持つことができます。預言者たちは神からのメッセージを携えて来たのですが、イエスは人であるのと同時に神でした。神の愛、神の聖、神の力とは何であるかと知ろうとするなら、必要なのはキリストを見ることだけです。

    主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは 御名をあがめさせたまえ
御国を来らせたまえ
御心の天になるごとく
地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を 今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いいだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり

私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことがない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。
(詩編121:1~8)
 主は、いつでも、どこでも、どんなことからも、絶えず、私たちを守って下さいます。私たちは主に信頼してさえいれば良いのです。なんという幸いでしょう。

 先生:「ジョン、地図で北アメリカを見つけてください。」
 ジョン:「北アメリカはここです!」
 先生:「正解!です。皆さん。ではアメリカは誰が発見したのですか?」
 クラス全員: 「ジョンです!」

 昨年10月に開場した豊洲市場(東京都江東区)で5日、「初競り」があり、青森県大間産のクロマグロ(278キロ)が1本3億3360万円、1キロあたり120万円で競り落とされた。記録が残る1999年以降の史上最高値。

 人類は、絶えない変化を続けてきたからこそ進歩してきたといえる。逆に、変化しないということは動かないことであり、動かないということは死ぬことに匹敵する。成長するということは、本当の自分について新しい考え方をすることから生まれる。変化を恐れないことだ。昨日正しかったことは、今日間違っているかもしれない。間違っていたことは、正しかったのかもしれない。私たち全員が進化という道を進んでいる。

わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。
その叱責をいとうな。
父がかわいがる子をしかるように、
主は愛する者をしかる。
(箴言3:11~12)
 私たちにたびたび降りかかる患難や試練は、神が私たちを教育し訓練するためのものと思うとよいのではないでしょうか。患難や試練には原因があり、自分の罪に由来することが多いのです。自分のためと思って耐え忍びましょう。忍耐は私たちを成長させます。そして、私たちの品性は研かれます。神は私たちを愛しているからこそ、神は私たちをしかるのです。そう思えば、患難や試練も嬉しいものと思えませんか。苦難の後には必ず苦難から解放されたという喜びが待っています。神は耐えられないような試練を与えられず、脱出の道も備えて下さいます。どんな患難や試練に会おうと神の愛に信頼していましょう。

 ある既婚男性は、長い結婚生活の秘密を聞かれると、次のように説明しました。「週に2回、時間を作って、なじみのロマンティックで小さなレストランに行きます。ろうそくの明かりでのディナー、静かな音楽と、星空の下でダンス。彼女は月曜日ごとに、私は木曜日ごとに行くのです。」

 レストランで、お客がウエイターに言いました。
 「おい~! あなたの親指が私のスープに入っているよ!」
 するとウエイターは言いました。
 「大丈夫です。このスープ 熱くないですから」

 男は、バーに入り、言いました。
 「誰が、ここで一番強い男だ?」
 強そうな男が彼を見て言いました。
 「私が、ここらでは一番強い男だ!」
 もう一人の男は、丁寧に尋ねました。
 「ガソリンスタンドまで私の車を押していくのを手伝ってもらえませんか?」

 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
(創世記4:21)
 アダムとエバが神に反抗し罪を犯しエデンの園から追放されることになっても、神はあわれみを失われず、このように二人に対する愛を示されました。私たちも毎日罪を犯し続けていますが、それにも関らず、私たちは生かされています。これも神の愛です。本来、私たちは、悔い改めて赦されることによって、初めて生きていくことができるのですが、そのことさえ忘れがちな私たちはなんと罪深い存在でしょう。少なくとも、私たちを生かして下さる神への感謝は忘れないでいたいと思います。そして、今も昔も、私たちの罪を担っておられる御子イエスを覚えましょう。できれば、常に神に顔を向け、罪を犯したら悔い改められるようにしたいものです。

 すると、主は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
(マタイ25:40)
 神を愛し、喜ばせ、神の栄光を表すためにと言われても、具体的にどうすれば善いのか分からないというのが現実ではないでしょうか。この答は、あなたの隣人を愛することにあります。兄弟、ましてや最も小さい者さえも愛することは、神を愛することであり、神に喜ばれることなのです。神の栄光を表すには、隣人を愛し、隣人に奉仕すればよいのです。 神を直接愛せなくとも、こうすることが、神に喜ばれることなのです。神は御子イエスにおいて可視化されますから、御子イエスの生涯や福音を見つめることを通して、御子イエスそして神への愛へ至ることも可能でしょう。

 人は誰でも自分の考えを基準に、他人のことを判断する。このこと自体は当たり前のことだ。ただし、自分の考えや価値観が他人と異なった場合の処し方が大切になってくる。他の人も自分と同じように、自分自身の考えを基準に生きているということを認識しなければならない。考えや価値観は人それぞれ異なって当たり前ということを自覚してさえいれば、他人を批判することの無意味さを理解できる。また、他人からどう評価されようとも全く気にする必要がないことも自明の理だ。

 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
(マタイ7:21)
 信仰義認と言われ、信仰を告白して、義と認められますが、それだけで救われるのでしょうか。義と認められることと義であることは違うと思います。信仰義認では名目的に義と認められるだけではないでしょうか。信仰義認は一瞬のみわざですが、義となるべく、この後は神人協力の超自然的な神の恵みによる聖化の歩みが、この世の生を終えるまで続きます。神の恵みと言っても、人間の努力も求められるのではないでしょうか。聖化の歩みは一生涯続きます。その段階で、神のみこころを行わず、完全な義に近づかないものは救われるのでしょうか。行いによっては義と認められないのは事実ですが、義認の後になにもせず、聖化の過程を無視すれば、栄化されて、天の御国に入るということもないのではないでしょうか。繰り返しますが、義と認められることと、義であることは違います。義と認められたからといって、その人が義であるというわけではありません。人間は誰しも、義になるべく努力が求められるのではないでしょうか。信仰ばかりで行いが伴わないのは間違いです。真の信仰があれば、良い行いも伴うはずです。良い行いの代表格は、御子イエスがなされたように、隣人を愛し、他者のために生きることです。個人の努力と言っても、神が始められたみわざは、聖霊により堅持され、栄化への道は神によって保障されますので私たちは希望を持つことができます。

 子どもの時に拡大鏡で雪の結晶を観察して、その見事さに感激したのを思い出す。肉眼で見ていた雪がこんなにも複雑なデザインになっていたなんて、今でも不思議だ。そしてもっと驚くべきことには、一つとして同じ形の結晶がないということだ。つまり自然界の法則の現れの一つだ。これは、私たち人間にも言えることだ。70億人以上が住むこの地球上に、まったく同じDNAをもった人間はいない。つまり、異なる個性が70億以上あるということだ。私たちは他人と違うことを考えたり、違う行動をしたりするときに逡巡することがある。しかし、もともとの個性が一人ひとり異なっていると思えば、とても自由な気持ちになれるのではないだろうか。

 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかのどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
(ローマ13:8~10)
 キリスト教の教えは、「神と隣人への愛」という形でまとめられます。愛が全ての律法や戒めを守るのを可能にするからです。ただ、現実に全ての人を愛するのは難しいことです。そうできるように神に祈り求めなければいけないのかも知れません。神よ、愛することにおいてさえ無力な私たちをお助け下さい。主の御名によりて、アーメン。

 料理の際に行う「灰汁抜き」は、えぐみを取るなど、食味の問題から行われることだが、有害物質除去の効果もある。ワラビに含まれる発がん性物質プタキロサイドは、灰汁抜きを行うことで分解される。また、フキに含まれる肝毒性を発現するピロリチジン系アルカロイドや、タケノコに含まれる青酸配糖体なども、灰汁抜きによって除かれることが分かっている。灰汁抜きは健康維持のための古くからの知恵と言える。

 夜はいつも座禅をしている。座禅をするときには何も考えない。東洋思想では無は形の無いことを意味する。それゆえに無はどんな形のものであろうとなんでも包み込むことができる。だから無は愛や存在よりも深い。座禅するときには、無になろうとするのだが、なかなか難しい。しかし、酒があれば、それも容易になるようだ。実際、目覚めるには長い期間がかかる。まるで修行僧のようなものである。修行が足りないのは分かっている。いつも夢見ているのか覚めているのかも区別できない。こうして、修行が全くなっていないのを認めざるを得ないのだから、皆さん、せめて今宵は良き夢を!

私たちが経験した結果が、偶然から生まれたということはない。そこには何かしらの原因が潜んでいる。原因がどうしても思い当たらなかったとしたら、それは気づかないだけだ。また、誰かと知り合うことになった時も偶然からそうなった訳ではない。何かしらの原因(きっかけ)があってこそのことだ。このように、世の中の出来事には必ず原因がある。自分の望む結果が欲しいのであれば、意識してそこに繋がるような原因を創りたい。

人間の脳には右脳と左脳があり、役割と働きが異なることは周知のとおりだ。言語や計算、論理的思考などを得意とする左脳に対して、右脳は図形や映像の認識、直感、ひらめきなどを得意とする。私たちは、役割の違う左脳と右脳の働きをバランスよく使いこなすことが必要なのは言うまでもない。しかし、現代人はどちらかというと左脳の使用に偏りがちなので、意識して右脳を活性化する必要がある。そのためには、例えばスポーツや音楽、遊びなどに熱中することが良いといわれる。こうした状況下では思いがけない動きやハプニングがあるので、これに熱中することは右脳を活性化させるのに役立つ。また、笑うことも有効だ。脳にとっては大きな刺激となり、右脳が活性化すると考えられている。

 人生の意味とかは、歳をとっても分かるようになるものではないようだ。子供の頃からがり勉だったので、この歳になっても、惰性で勉強を続けている。しかし、若い頃と違って何かが欠けている。今更何のための勉学なのか。再就職も不可能な年齢だ。資格取得を目指しても無駄なことだ。この無目的の勉強には空しくなることもある。しかし、生きている以上、昼間起きている時には何かをしていなければ間がもてない。つい、本に手を伸ばしてしまう。勉強のための勉強が続く毎日だ。無目的の勉学とは、ある意味で、動機が純粋なことでもある。知のために知を求める。老いて、哲学者になった面持ちだ。欲望も少なくなって、若い頃よりも、集中力が増したようだが、加齢による能力の衰えは隠せない。まぁ、勉強は好きなほうだから、苦しくはない。集中した後や、新しい知識に出会えたときは充実して楽しくなる。YouTubeで音楽を聴きながらの読書は至福の時でもある。歳をとっても人の迷惑を掛けることもなく熱中できることがあるのはよいことかもしれない。後の大仕事は死ぬことだけだが、どうなることやら将来のことだから見当もつかない。考えてみても、今ここを精一杯生きることしか思い浮かばない。そして死ぬときには死ぬだけだ。今この時点で特に思い残すこともなく未練もない。このままの気持ちで生きていきたい。

 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中の罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
(ヨハネ8:7)
 私たちは自分のことは棚に上げ、他者の罪は赦しがたく思いがちです。しかし、全ての人が罪人なのです。自分の罪を覚え、他者を赦せるものでありたいと思います。罪を犯しても悔い改めれば神は赦して下さいます。同じように私たちの罪も互いに赦し合えるものでありたいと思います。

 私たちは今を生きている。当たり前のこと。しかしながら、私たちは過去の失敗や苦い思い出を事あるごとに頭に浮かべてしまいがちだ。また、将来に対する心配や不安が度々私たちを悩ます。でも、過去はすでに私たちから離れてしまっているし、未来はまだ何も決まったわけではない。そう考えると、自分の影響範囲を超えているものにいかにエネルギーを使っていることか???そんなエネルギーを、今の現実に注ぎたい。今を生きているのだから。

 ものごとが、「偶然に」とか「たまたま」起こるということはあり得ない。結果には必ず何かしらの原因がある。原因が思い当たらないという時でも、それは自分が気づいていないだけだろう。原因は直前に存在するとは限らず、ずっと以前に自分が気づかないときに起こっていた可能性もある。したがって、結果を嘆いたり悲観したりせずに、どうしてそういう結果になったのかを冷静に見つめ、その後は前を向いて自分の望む結果を達成できるような原因づくりに意識を向けたい。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
(Ⅱコリント1:4 )
 私たちを慰めて下さる神の力によって、私たちも苦しみの中にある人をも慰めることができます。苦しみの理由を理解するのは容易ではありません。しかし、神は、辛い体験を思いがけない形で用いられます。神に慰めと愛を求めるなら、それによって強められ、人の力になれるのです。神の慰めを体験し、それによって人を慰めることができるのです。

『老いの美』 坂村真民
木に
老醜はないという
老杉
老梅
老桜
みなそれぞれに
風韻
風格
風趣
を持ち
老いの美に
光る

 切ったり、穴をあけたりしても元通りに戻る自己修復機能をもつ新素材が開発された。この新素材はスカンジウムを触媒にして、エチレンにアニシルプロピレンという分子を結合させた高分子だ。ゴムのような弾性と柔軟性を持ち、切ったとしても分子と分子の間で起こる作用で、もう一度くっついて元に戻る性質を兼ね合わせている。大量に作ることも可能で、将来的には人工臓器の素材になると期待されている。

神様! なぜこれほど、女性を美しく創られたのですか?
お前たちが女性を愛するためだ。
ではなぜ、これほどまで女性を愚か者に創られたのですか?
女性がお前たちを愛するようにだ。

 人は他人からの批判や評価を気にしがちだ。もしそうした批判を完全に避ける方法は、「何もしない」、「何も言わない」、「何にもならない」、ことだろう。しかし、そんな生き方は現実にはあり得ないし、生きる意味がない。人と人が接しながら生きる社会では、摩擦が生じないほうが不思議だ。摩擦を恐れずに、自分自身を自分らしく表現することが大切だと思う。「自分を愛し」、「自分を信じ」、「自分らしさを表現」、しよう。批判されることや評価されることが、自分の中で徐々に価値をもたなくなってくるだろう。

 考え方を変えるためには、意識を変化させることが必要だ。自分がどういう人間なのか、どういう人間になりたいのか、ということを強く意識することだ。そのことが考え方のベースになる。今自分が悩んだり困ったり不満に思っていることが、考え方を縛ってしまいがちだ。脱却したいと思うなら、自分本来の姿を意識してそれに沿うように考え方を変えればよいだけだ。これが習慣になれば、行動は必ず目指す方向に変わってくるはずだ。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
(ガラテヤ5:22~23)
 もし、私たちが御霊に全てを委ね、御霊によって導かれるならば、律法の下におらずとも、御霊の実を身に結ぶことになります。これらの御霊の実によって、私たちは律法を全うすることになるのです。

【平成の化学キーワード】
・イオン液体
・環境ホルモン
・コンビナトリアル化学
・C-H結合活性化
・Spring-8
・糖鎖工学
・フーグスティーン塩基対
・カーボンナノチューブ
・分子イメージング
・核酸医薬
・有機触媒
・有機太陽電池

荒井公康

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤独日記9

2023-07-29 11:37:17 | 日記

 ある年齢になると将来に希望がなくなってしまうのは仕方がないことかも知れない。特に私は生涯独身で自分自身の家族もなく、自分の家族にまつわる祝い事とも無縁であった。40代からは世捨て人のように暮らして来た。しかし、父や母などの実家族がいたのは救いだった。親子3人でよく旅行をした。しかし、そんな両親も相次いで他界した。弟や従妹もいるが疎遠になってしまった。家族というのは特別な人間関係だ。他人には代えることのできない親しい関係だ。どんなに親しくても他人同士では親子になることはできない。家族を持たない人間は孤立しがちだと思う。家族を通した人間関係というものは結構あるものだが、そういうものができない。人間関係とは意外に生きがいにつながりうるものだ。家族もなく人間関係も希薄な60代の人間。なにを生きがいに生きていけばよいのか。たとえ希薄な人間関係しかないとしても、それを足がかりに、将来の希望へとつなげていくしかないのだろう。ご縁のある方々、こんな私でも、宜しくお願い申し上げます。

 「人間、ひきこもって行くところがなくなってしまうと、おかしくなってしまうってね。」と言われたことがある。ひきこもって長くなり、ほぼ孤立している感があるが、なんとか身体面、精神面のバランスは保っているつもりである。秘訣は規則正しい生活と適度な目標課題の設定であろう。それさえ守っていれば、たとえ孤立していても、おかしくなることはないようである。身体面では、毎日の自転車での散策を欠かさない。爽やかな風に吹かれての気分転換は気持ちが良い。大学と会社での経験分野は、化学、電気工学、人工知能だったので、毎日、この方面の読書も欠かさない。どの分野を取っても、一人で全分野をカバーできないほどの知識を必要とするが、すこしずつでも理解できるようになればと思って勉強を継続している。歳をとってから、新しい分野の勉強を始める気力も体力も残っていないが、昔やったことに関することならば、馴染みもあるので、多少の興味を持って読書を進めることができる。最近は化学関連で薬理学などの勉強も始めたが、幅を広げるのもほどほどにするよう、自重するつもりである。精神は燃えていても、肉体は弱いものである、と聖書にあるとおりである。この歳で勉強したってどうにもならないのであるが、勉強に関して、私は歳をとれないようである。いまだに、浪人時代の大学受験生気分である。しかし、さすがに年齢は誤魔化せず、肉体的には歳をとったことを痛感する。最近、風邪をひいたが、回復するのに時間がかかった。回復力が若いころに比べてめっきり衰えた。よく考えてみれば、あとどのくらい生きられるのかも分からない年齢だ。あと10年、長くて20年くらいだろうか。蝋燭は燃え尽きる瞬間に輝く。私も蝋燭のようなものか。いつ死んでも悔いがないくらいの心境になりたい。そのためには、もう少し努力が必要なようだ。まぁ元気のあるうちは頑張りたいものだ。
 
 低タンパク、高糖質の食事ばかりのせいか、体重が増えてしょうがない。先日、ロイヤルホストで少し贅沢をして、ロースかつ御膳を食べてきた。うまかった。家でも、タンパク質を取ろうとしても、つい、畑の肉の納豆ばかりになってしまう。ああ、もっと肉が食いたい。歳を取っても食欲だけは衰えない。その他の欲はすかっり無くなってしまった。欲がないのは意外といい気分だ。欲求不満に陥る恐れが全くないからだ。食欲のことだけ心配していればよい。これは一種の悟りなのか、ただの加齢現象なのか。食うことだけが楽しみになった老人の戯言でした。


学生の頃習った少し難しいことは一種の勲章
歳を取っても、その周りをぐるぐる回っている
進歩はないが、昔を想うのも
孤独な身にはささやかな慰め
二三の成功と多くの失敗
人生は失敗のほうが多いもの
顔が赤くなるようなそんな失敗の数々も
今となっては、誰も見向きもしないお笑い種
老い先短くとも
この先何があるか分からないのが人生
死は慰めと
昔の友達は言っていた
そうかも知れない
その人と別れて何年になるだろう
少年老いやすく学なり難し
これは私の人生そのもの
しかし、楽しいこともあった
幸せだった子供時代
遊びに遊んだ
人生の基盤は子供時代に形作られる
失敗とも成功とも言えないこの人生にも終わりが来て
やがて忘れ去られる
無から生まれて、無に還る
誰もが辿るこの運命に不満は言うまい
ただいましばらくはこの生と戯れていよう

 人間が孤独に耐え得るのは、神がともにおられるからである。神との正しい関係において、神の友となることができるからである。
 
 読書すること自体も楽しいし、良いことだと思うが、それにもまして読書することによって愛読書ができるということほど喜ばしいことはないだろう。疲れた時、何かあった時、苦しい時、そして嬉しい時でさえ、古い愛読書は私の親しい友のようになってくれる。そして私を励まし、懐かしさで胸一杯にしてくれる。一冊の本が愛読書になるまでには、長期間愛読する必要があるが、そうした苦労の甲斐はあるものである。孤独な私にとって愛読書は、生身の人間にもまして、親しい存在である。多くの愛読書を持てる人は幸せだと思うし、孤独にも強くなれると思う。さぁ、読書に親しんで、沢山の愛読書を作ろう。

 世の中に自分のものと言えるようなものがあるのだろうか。全ては他者から自分に与えられたもの言ってよいかも知れない。自分の考えも自分独自のものなどなく、全て先人、両親、恩師、友人から教えられたもの又はそれらをアレンジしたものではなかろうか。これは、こうして私に教えてくれた人も含めてである。社会を通して、様々なものが、人間によって伝えられていく。社会は神だという言葉もある。そういった意味で、全ては神から与えられるという考え方も成り立つように思える。

 人生の意味だとか目的だとかは、歳を取っても分からない。だから私はただ生きる。この歳で生かされているだけで、何故か嬉しく、感謝の念が沸き上がってくる。何も迷わずに、今この時をただ生きて味わい楽しめばよいのだ。

 平和祈念式典で、被爆者を代表して「平和への誓い」を読み上げた長崎平和推進協会継承部会員の山脇佳朗さんは、安倍首相に核兵器廃絶に向けてリーダーシップを発揮するよう直訴した。

 暖かくなる冬と、長くなる夏とが、サハ共和国の90%を覆う凍土を着実に融かしている。夏に融け冬には凍る表層部分は、かっては最大で3フィートまでだったものが、10フィートにも深まっている。サハ共和国中の永久凍土が融け出すにつれ、土地のある部分が沈み、一帯をサーモカルストと呼ばれる小丘と窪みの障害物コースに変えていく。さらに沈み込むと沼地となり、そして湖になる。

 2019年度の国家公務員給与を6年連続で引き上げるよう国会と内閣に求めた人事院勧告に対し、「財政難で増税するのに、公務員の給与が上がるのは許せない」という批判の声がネット上に集まっている。なぜ財政難でも公務員の給与は上がり続けるのだろうか。

 欧州連合の関連機関によると、2019年7月は世界全体で観測史上最も暑い月だったという。

 東京電力福島第1原発の廃炉作業を支援する「原子力損害賠償・廃炉等支援機構」は8日に公表した廃炉戦略プラン(2019年版)の概要で、核燃料が溶けて構造物と混じり合った「燃料デブリ」について、2号機から取り出すのが適切だと明記した。機構は概要でデブリについて、「拙速に対処した場合にはリスクを増加させうるリスク源」だと指摘。その取り出し作業では、多くの困難が待ち受けている。

 水不足の世界。インドからイラン、南アフリカからボツワナにかけて、17カ国が現在、非常に高水準の水不足に至っていると、世界資源研究所が火曜日に報告した。サクストン氏の研究では、米国の10%の家庭が小さな家に移り住み、節約した生活をするならば、約3憶6600万エーカーの生物学的に実りの多い土地が保全されるとした。

生涯を旅に送った、漂白の歌人西行法師の私家集【 山家集 】
<ダイジェスト>
  いつしかと春来にけりと津の国の難波の浦を霞みこめたり
  吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき
  ねがはくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
  吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ
  道のべに清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ
  けふもまた松の風吹く岡へ行かむ昨日涼みし友に逢うやと
  葛城山まさきの色は秋に似てよそのこずゑは緑なるかな
  嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな(百人一首)
  さびしさにたへたる人の又もあれな庵ならべん冬の山里
  心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
  年たけてまた越ゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山

 孤独とは病的な状態である。健全な人間は社会的であるから。しかし、社会が病的になってしまっては、孤独に閉じこもるよりほかないのも人間ではないか。私は病的な社会に触れてきたので、今の孤独は心地よい。孤独にも耐性ができるようである。

 フロイトは正直な人間であったと思う。若い頃はフロイトが嫌いであったが、現実に目をそむけていたかったのが理由だろう。歳を取ったら、フロイトに親近感を覚えるようになった。人間は社会によって振り回されているのだ。自分ならざるものに支配されているのだ。本当の自分はおろおろしているばかりではないのか。そして自分の意見など滅多に言わない。

 どんなに恵まれた状況にあろうと、何か物足りなさを感じるのが人間ではないだろうか。人間の欲望には際限はないし、持っているものよりも、自分にないものに意識がいきがちだ。小欲知足という言葉が好きだ。今の自分で十分、それだけで有難いという感謝の気持ちは、自分を欲望から解き放ち、楽にしてくれる。やせ我慢とも言えなくもないが、やたら欲しがるのはみっともないし、得られないと自分で苦しくなってしまう。小欲知足の精神でいくのが最善のようだ。

 若い頃は結婚したいと思っていた。しかし、縁がなかった。結婚していたとしても、私の性格から、結婚生活に耐えられず、離婚していたかも知れない。有無同然で、どちらが良かったのか分からない。運命として受け入れるしかないのだろう。ニーチェの運命愛の考えには共感を覚える。最善のことしかなさらない神の摂理と思って感謝して受け入れる考え方もあるだろう。これは結婚のことだけに限らないだろう。なんでも感謝して受け入れられる人は幸いかも知れない。

 生活に必要なものは、水、空気、ご飯、家、本、パソコン、テレビ、自転車、若干のお金、といったところか。これだけあれば何とか生活していける。これ以外のものは、あれば有難く頂戴するが、欲張らないでおこう。贅沢をすると精神がだらける。寂しい生活だが、もう慣れた。小欲知足の精神だ。これが肝心だ。

 なんとなく不安な心となんとなく物足りない心。このふたつの心から解放されたい。いつも、このふたつの心に縛られているわけではないのだが、常に清々しい心でいるにはどうしたらよいのだろう。どんな心でも、それを見つめているだけでよいのかも知れない。否定すべきことではないのかもしれない。そういう心も時が経てば、自然に消えてゆくものだ。心ほど移ろいやすいものはない。そういう自覚が必要だ。

 幸せであろうと不幸せであろうとどうでもいいという心境になりたい。日々是好日。どんなに辛く悲しく寂しくとも、それを受け止めて、ただ生きていければ、幸不幸の対立を超えて、達観できるようになれるのかも知れない。

 私の体、心、所有物全ては自分のものではなく、借り物なのだ。死ぬときには全てお返ししなければならない。執着せずに大切に使わせて頂こう。

論理、自然法則、常識のない世界に行きたい
これらのものから解放されたい
空想の世界を自由に羽ばたきたい
しかし、これらのものを失ったら
私たちはどこへ行ってしまうのだろう
まともであることは苦しく窮屈だ
あぁ、ただ、この苦しみから逃れたい思いだ

暑い暑い日だった
私は外へ出ていかなければならなかった
外へ出て
青い空に白い雲が自由に浮かんで動いていくのを見たら
私はありがとうと言いたくなった
私も自由だから
自由は寂しいものだが
雲と仲良しになれた気がした
自由は代えがたいとも思った

若い頃、自由が好きだった
それで私は孤独になった
歳を取った今
自由は寂しいと悟った

 どんなに辛いこと、どんなに嫌なことを経験しようと、過去のことは、過去だということだけで、懐かしい思い出となる。学校のこと会社のこと家族のこと、今は全てが懐かしい。これは心の持つ自浄作用のようなものであろうか。人間、どんな人生を送ろうと、歳を取ると穏やかになるようである。どんな運命、人生であろうと、それを振り返ってみたときに、懐かしく思えるほどの慰めはあるまい。

私はなんと頑なだったのだろう
ただ仕事が気に食わなかったからと言って
今も昔も敵などいなかったのだ
ただの一人も

 無欲であれば、禁欲する必要はない。しかし、無欲であることのなんと難しいことか。歳を取るしかないことなのかも知れない。歳を取れば、自然に欲も少なくなってくるものだ。

 若き日には何かに怒りを燃やしていたような気がする。その怒りを行動のバネにしていたような気がする。誤解に対する怒りであっただろうか。しかし、今は、自分が何に怒っていたかも忘れ、穏やかな気分だ。今は、何事もなかったかのように読書に耽る。

 履正社が令和初の夏制す 強力打線が星稜・奥川から5点奪う 甲子園初優勝

 煩悩とは欲望のことである。全ての欲望を捨てれば悟れるのかも知れない。しかし、そんなことできるのだろうか。無事是貴人。求めないことが悟りであるという。確かに実現不可能なことを求めるのは苦痛だろう。しかし、実現可能なことなら求めてもいいのではないかと凡夫の私は思ってしまうのだが。実現可能なことを求めて叶うのは快いことだと思う。さて、悟りとは一体何なのだろうか。

 一寸先は闇だ。将来のことは誰にも分からない。確実なのは死だけ。それもいつ訪れるか分からない。死とはなにかも分からない。分からないということは不安を生む。この不安は大したことではなくとも、嫌なものだ。この不安を解消するために、神に全てを委ね明け渡して平安を得るか、「今、ここ、自己」に集中して不安を払拭するか、心地よい趣味などに熱中して現実を忘れるかの手段に頼ることになるのが人間ではないだろうか。不安から始まる宗教や哲学もあると思う。不安をどのように解消するかも大切なことだと思う。

私が本当に人を愛せないのは
家族以外の人を本当に愛したことがなかったから
私には妻も子供もいなかったから
そうかも知れない
たぶん、そうなのだろう
愛し愛されるのは
自分が失われるようで
なにか怖い
そして不安だ

 神の存在証明を自分の外部の世界に求めても無駄ではないか。神は私たちに良心の声として絶えず働きかけているのではないか。自由奔放に振舞おうとしても、私たちは、我ならざるものの力によって、抵抗を受け、引き戻されることが多い。我に返ってみて初めて、私たちに、神が働きかけていたことを知るのではないか。

目に見えぬ透明な世界
しかし、それじゃあまりに人間味がないじゃないか
人間が枯れてしまうよ
人間は神にはなれないのだ

追い求めれば逃れてゆき
諦めてみれば、気づかれもせずに自分のすぐ傍にある
そんな捉えがたきものを
私は日々見つけようとしていたのかも知れない
それは幸せであったかも知れない
夏の暑さが一段落した
秋の気配が漂う今日この日に
私はひとり溜息をつく
明日も良き日と思いつつ

孤独は辛い
孤独に負けるものか
と思っていたら
いつしか
孤独は私の友になった
孤独な時間は
私の心に
沢山の贈り物を残してくれるようになった
喜ばしい考えが心に浮かぶとき
孤独はこよなくありがたいものだと感ずるようになった

孤独の濃密な時
この無限ともいえる時を
自分だけのものとして過ごせる恵みよ
それは、至福の時
この時に可能性を感ずる私は
決して寂しくはない

このどん底の時に
私は開き直って笑みを浮かべる
これ以下になることはないのだ
こんなものか
どん底の時にこそ生まれる
不可思議な希望

本をいくら読んでも
なにも分からず
謎は深まるばかり
窓の外
青い空
雲が浮かんでいる
雲をしばらく眺めていたら
心が自由になり、楽になった
私の心は雲と一緒になって
動いていった

 死とはあらゆる執着から引き離されることである。凡夫である人間にとって執着を手放すのは苦しい。しかし、すべてを捨てた人間にとって死は安らぎであろう。

 人間にとって神仏とは何か。己を捨て、全てを捨てても、おまかせすればば、自分が生かされているのが分かり、感謝の念が湧いてくる。おまかせする相手、自分を生かしているもの、感謝の宛先、これを神仏という。

 執着があるのも苦しい。執着を捨てるのも嫌だ。あぁ、執着だらけの私には苦しいことばかりだ。

 私は必ずしも原発に反対でない。化石燃料の浪費による地球温暖化で近い将来壊滅的な自然災害を被るほうが怖い。自然の脅威は原発の放射能よりも恐ろしいと思う。

 人工知能が発達して皆がベーシック・インカムを貰って生活するようになったら、人間は何をして生活していくのだろう。労働を嫌悪しようがしまいが、労働は人間を鍛えてくれる。人間は堕落していくことに耐えられるだろうか。労働とは他の生産的活動を求めていくのではないだろうか。労働のない世界は果たしてユートピアであろうか。

 人生が夢ならば、死後の世界こそ現実であろう。無から生まれて無に還る。我々は元来、無であった。

 徳とは何か。いっさいの運命をそのままに是認し、すべてを春のような暖かさで包むことである。

 若い頃は、物事は思い通りにならないものだと不満を抱いていたが、歳を取った今は思い通りにならぬのが人生と諦めている。

 最近は、「キリストにならいて」とか「老子・荘子」とか、世捨て人が書いたような本を好んで読んでいる。若い頃は名を成すことを志していたので、負け惜しみととられても仕方がないが、この類の本は慰めを与えてくれる。欲を持たずに無為自然に生きる楽しさを教えてくれる。現実には私の場合は社会の落ちこぼれで、現在は世捨て人のような生活をしているのが実情である。社会に未練を持っている人間である。それでも、これらの書物は今の自分に生きる指針を与えてくれるもので、有難い。人間、何事も心の持ちようである。思想によって気持ちを楽にするのも許されるのではないかと思う。

 自己実現という言葉はあるが、他者実現という言葉はあまり聞かない。人間は放っておけば利己的に振舞うものだ。だから、他者実現を目指して努力するようにすれば、適度にバランスがとれていいのではないかと思う。利他的に生きることこそ、ギスギスした世の中への処方箋である。

 自然とともに生き、自然から学ぶ。これも禅の精神のひとつのようだ。

 求めれば、足りない。手放せば、足りる。

 地球の温暖化が危機的状況だと言いながら、年々化石燃料の消費量は増え続けている。先進国は人口減で頭打ちだが、発展途上国では今も人口が増え続け、生活水準が上がり消費は激増している。どこかで歯止めをかけないと、取り返しのつかない事になりそうだ。

 死後の世界の存在が信じられるならば、まだ救いがある。死後の世界の存在が信じられないとしたら、どうだろう。救いはないのではないか。

 私たちの心身はいくつかの要素が和合してできており、実体ではないと考えれば、死んでも要素に分解されるだけであることが分かり、死ぬ主体は存在しないのだから、死を恐れることはないと考えることができる。私たちはもともと無ないし空であったと考えるのである。この場合、死後の世界の存在は必要なくなる。

 希望も絶望も客観的には存在しない。希望も絶望も自分の心が作り出すのである。希望が欲しければ、自ら作り出せばいい。心の持ちようである。

煩悩具足の凡夫の身のままに
ずっと悟りの世界に憧れていたい
ああ、永遠の憧れ
永遠に悟りえぬ身のゆえに
ただ、憧れのみに生きるのだ
それはとても楽しいことだ

 はなてば、てにみてり

 禅語や仏教語の中には、日常用語として日本人の生活に浸透しているものも多い。自由、宗教などという言葉も仏教から借りてきた言葉だ。晴耕雨読、道具、言語道断などは禅語だ。仏教や儒教などの影響を受けていない日本人はいないのではないか。国を挙げて、これらは日本に導入されてきた経緯がある。キリスト教が日本で普及しないのも、キリスト教にはこれらの経緯がないからだと思う。キリスト教に似ているとされる日本最大宗派の浄土真宗が日本に広まったのも、仏教の伝統が日本にあったからだろう。

 苦しみの原因は自分自身にある。

 世の中には、自分以上に恵まれない人、不幸な人がいる。それを思うと不平不満は言っていられない。

 私には地位も肩書もない。しかし、これが本来の自分の姿なのだ。ただの人間として、できることもあるだろう。できることをやっていこう。

 執着は心を重くするから、それを捨てれば、その分、心軽やかに生きられる。今の私は地位や肩書など執着するものがないから幸いかも知れない。

 利他主義と利己主義の対立を超えて、人格主義の立場に生きたい。

 自由であることと欲望の奴隷になっていることをはき違えないようにしたい。

 気晴らしー人間は死・悲惨・無知を癒すことができなかったので、自分を幸福にするためにそれらをあえて考えないように工夫した。(パスカル) この私の生活も気晴らしの毎日だ。

 人と比べるな。人と比べると惨めな気持ちになる。わが道を行こう。

 自分の外に出ようとして出られない自分の心。私は私でしかない。

 幸せは何か特別なことにあるのではない。日常のさりげない生活のうちにある。背伸びしない、ありのままの自分で、いつもの日常を送ることのできる幸福に感謝しよう。

 私は能力のない努力家だ。努力しても、もたもたしていたから社会から取り残されてしまった。役立たずの老いぼれになってしまった。情けないことだ。

 物事の限界と人間の想像力の限界を混同してはならないだろう。現実の物事の限界は常に人間の想像力を超えている。

 2019/09/21今日は昨日に引き続き涼しい日であった。久しぶりに自転車で遠出をし2時間ばかり走ってきた。曇天であったが秋らしく清々しい日で気持ちが良かった。平安小学校、潮田小学校では運動会が催されていた。傍を通ったら、その雰囲気に昔の想い出が蘇ってきて、懐かしい気分になった。子供に還ったような気持ちになった。父母もいたあの頃が懐かしい。

 愛だけでもダメ。義だけでもダメ。愛と義を併せ持たなければダメだ。

 哲学と宗教は違う。私はあくまで哲学徒だ。哲学には宗教も含まれる。ひとつの宗教だけでなく全ての宗教が哲学研究の対象である。宗教に限らず、あらゆることに興味を抱くのも哲学徒だ。

 雲や水のように生きたい。

 いくつになっても、初心忘るべからず。

 人生に意味を求めることよりも、人生の無意味さに耐えることにこそ真実があるのではないか。その先に見えてくる希望もあるのではないか。

 存在するものを対象とすることは、支配であり暴力とも考えられる。この暴力的な立場からぬけだし、万物の存在が明らかになる場が脱自-存在としての人間であり、人間は存在のあらわれ(真理)を見守る使命を持つ。人間は、自らのあらわれを贈る存在に聴従し、存在の真理を思索しながら見守る「存在の牧人」である。

 人生においては何事にも完成ということはない。生涯、ただ精進あるのみ。

 無とは時として、形のないこと、限りないことを意味する。

 自然に触れていると、はからいのない世界に、自分もまたいるのだと感じる。これほどの心地よさはない。

 努力し続けよ。そうすると、ある時ふと分かることがある。

 いくら言葉を重ねても、言い尽くせぬものが残る。

 現実を分析するだけではだめだ。現実を超える理念を持たねばならない。

 過去のことはくよくよせずに、きっぱりと忘れる。未来のことは思い煩わない。現在を一所懸命に生きる。

 無為自然になり、おまかせすると、元気が出てくる気がする。

 比べることが、悩みや苦しみの原因になる。

 あるがままの自分で、今いる状況で、生きることしかない。今の自分を、今いる状況を、絶対なものとして生きるしかない。

 判断をしない。

 一瞬、一瞬をコツコツ、丹念に生きる。

 変幻自在な心を持つ。捨てるという構えを忘れない。捨てるとは、求めないことであり、執着しないこと。求めるから、得られなくて悩む。執着するから、それに捉われて迷う。

 一息に生きるとは、ひと呼吸するその瞬間を、精いっぱい大切に生きること。つねに一息を生ききっていれば、心残りも、未練もない。従容として死を迎えることができる。

 何事も、自分のために、させて頂いているのだと思って感謝しよう。

キリストを信じたい
天国を信じたい
そうすれば楽になるだろう
でも何故か確信が持てない
神よ、私に信仰をお与えください

 キリストも苦しまれたのだ。安楽な道はない。この苦難の人生にひとりで立ち向かうことのできる人間はいない。神の助けによりこの苦難の人生に耐えることができるのみだ。しかし、人間には不可能なことも神には可能だ。ここに希望がある。ただ、安楽な人生を求めても無駄かも知れない。人生は苦しいものだ。これは仏教でも同じだ。

 自分よりもキリストを愛せる人は稀だ。人間にとり、自分より愛おしいものはない。キリスト教は厳しい教えだ。この点、仏教は楽観的なので好きだ。私の人生には、キリスト教が教えるほどの苦難はない。孤独でも、結構楽しい。

 神に支配されているときこそ、私たちは自由なのだ。

 判断せず、理解せず、分析せずに全ての物事を包容する。

「あなたたちは空虚な言葉で私の夢を奪った」。米ニューヨークの国連本部で23日開かれた気候行動サミットで、スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリさん(16)が各国政府の気候変動に対するこれまでの取り組みを強い口調でとがめ、対策を加速させるよう促した。
「人々は困窮し、死にひんし、生態系は壊れる。私たちは絶滅を前にしている。なのに、あなたがたはお金と、永続的経済成長という『おとぎ話』を語っている。よくもそんなことが!」。目に涙を浮かべ、怒りで小さな体を震わせる少女の叫びに、国連本部の総会ホールは静まりかえった。

あるときはありのすさびに憎かりき、なくてぞ人は恋しかりける(古歌)

窓の外
空に浮かぶ
雲を見ていたら
なんだか楽しくなってきた

 水を酸素と水素に分解して考えるだけでなく、「水は美しい」と感じることも大切だ。

 自然の移ろいに逆らわない生活をする。

 真理は至る所にある。それも、平凡でありふれた日常の中に。遠くの特別な所にではない。私たちが気づかないだけである。

朝顔を育てた幼い日
私も一緒に育ってた

 2019/09/27㈮ 肉が食べたくてファミチキを買った。

「無財の七施」
1眼施…………優しい温かい眼差しで周囲の人々を明るくすること。
2和顔悦色施…優しい微笑みを湛えた笑顔で人に接すること。
3言辞施………優しい言葉をかけること。
4身施…………肉体を使って人のため、社会のために働くこと。
5心施…………心から感謝の言葉を述べること。
6床座施………場所や席をゆずり合う親切。
7房舎施………求める人、訪ねて来る人があれば
      一宿一飯の施しを与え、その労をねぎらう親切。

 <2019/10/11>アマゾン川の水温1度のエネルギーで全世界のエネルギー消費を賄えるという。自然のエネルギーはそれほど膨大なものだ。台風19号は、世界のエネルギー需要をはるかに上回るエネルギーを携えて、日本列島に接近ないし上陸しようとしている。人間の無力を感じる。この台風をやり過ごすしかないのだ。あぁ、この無力感。改めて自然の脅威を思う。

 隠れて生きよ(エピクロス)

 <2019/10/17>台風19号は大きな爪痕を残していったが、来年も猛暑の夏は来るし、台風も来るだろう。今回のような災害を来年も防ぐことはできないだろうが、今回のような地球温暖化による災害を減らしていくためには、原発を最大限活用し、火力発電は極力控えるしかないだろう。これは先進国の義務である。災害の復興に要する財源にも限度がある。このような災害が一年に何度も起こるようになれば(既にそうなっているが)日本自体が破綻するであろう。喉元過ぎれば熱さを忘れるであってはならない。抜本的な対地球温暖化対策が必要である。これ以上、二酸化炭素を排出してはならない。原発に感情的に反発していれば人類の滅亡が早まるだけだろう。真剣に地球温暖化の原因について直視すべきで、これ以上誤魔化したり、言及することをタブー視してはならない。原発再稼働が禁句では人類の滅亡は避けられない。環境も随分住みにくいものとなっている。ここらで真剣に考えるべきである。

 昨今,我々の社会活動から生じる温室効果ガスによる地球温暖化防止のため,再生可能エネルギー源の導入が進んでいる。一方,現代の我々の社会生活は電力が安定供給されることを基盤としている。したがって,不可逆的に進む自然変動型電源の増設と並行して,その副作用とも言うべき発電出力の変動に対し,電力を安定供給する手段が必要となり,需給調整市場の制度設計が検討されている。

 世界保健機関の新しい報告書によると、世界では毎年80万人が自殺によって命を落としており、つまり40秒に1人の割合で自殺者が出ているという。

 何も全てのことを理解することもできないし、そうする必要もない。気楽にいこう。

 地球温暖化の原因については温室ガス効果によるものと考えられているが、その背後にあるのは、地球全体の熱収支のバランスが崩れてきているということだろう。人類全体の生産活動によって生成される熱エネルギーが、放射冷却によって地球から宇宙へ放出される量よりも、大きくなってきているのである。したがって、温室効果ガスの排出を削減をしたからといって、すぐに地球温暖化が止まるわけではない。温室効果ガス濃度が同程度でも、地球全体の熱収支が改善されない限り、地球温暖化は進むことになる。地球温暖化を止めるためには、温室効果ガスの排出を削減するばかりでなく、人類全体の生産活動を抑え、生産活動による熱エネルギーの放出を抑える必要がある。効率が100%の熱機関は存在しない。どのような熱機関を用いても、利用できない部分のエネルギーは熱エネルギーとして放出される。熱機関によるエネルギーのほぼ70%は熱に変化してしまう。
 人類全体の生産活動を抑えるというのは、大げさな話だが、経済活動と直結する問題なので、発言するのも憚れ、生産活動を抑えろと主張するのは勇気がいることだが、本当の話であろう。地球温暖化といえば温室ガス効果を連想するのが普通だろうが、人類全体の生産活動量を連想する人は少ないようである。
 地球温暖化と同時に冬の寒冷化という矛盾することも生起しているので混乱しがちだが、今日観たNHKの番組によると、地球温暖化により、北極海の氷が解け、寒気を閉じ込める効果をゆうする北極圏ジェット気流の速度が遅くなるため、北極圏の寒気が拡散することにより、冬の寒冷化が起こるとのことである。
 今年の日本の夏は記録的な猛暑であったが、オーストラリアは以前から、そのような現象が見られ、40度以上の猛暑も普通になったという。
 はたして、経済的発展を求めて、人類滅亡への道を選ぶか、人類全体の生産活動を抑えて、そのよう道を回避するのか。私が生きている間に人類滅亡ということはありえないだろうが、長い目で見た場合、私個人は人類の未来を悲観的に観ている。

 食べることだけが楽しみだ。食事のことばかりが頭に浮かぶ。しかし、太るから無制限に食べるわけにはいかない。辛いところだ。

 音楽が好きだった。しかし音楽の才能がなかったので、音楽の知識を駆り集めて作ったのが自動作曲システムだった。情報処理学会に発表したところ、新聞やNHKの取材を受けた。30年以上も前のことだ。人間並みの曲は作れないが、中々複雑で面白い曲ができる。作品例はHPに掲示してある。しかし、あの新聞やNHKの取材以来、何の反響もなかった。それは、少し残念だが、自分の好きなことをやり遂げられたことは満足だ。私の人生の記念碑だ。

 私も歳をとって、家族は弟ひとりになってしまった。歳をとると出会いよりも別れが身にしみる。身近な人ばかりでなく、自分が若い頃活躍していた芸能人や政治家などの著名人の訃報に触れると、何とも寂しい気持ちになる。その人たちが活躍していた時分は、自分も若く、もっと明るく溌剌としいた。自分のことも含めて、何とも世の中の無常を観じる。やがて、私自身がこの世を去る日が来るのだ。その時は全てと別れなければならない。気持ちよくこの世を去っていけるだろうか。そのためにはなるべく執着を捨てて生きる習慣が必要なのは確かなようだ。

 歳を取れば取るほど、分かったことよりも分からないことのほうが余計に増える。だから、私は未だに信念というものを持てない。そして、モットーもない。

 哲学から派生した科学。哲学のほうが科学よりも基礎的と思っていたが、最近は「実験哲学」といって、哲学を科学的に吟味しようという動向が生じてきた。もはや科学的に考えることが、最も基礎的な考察態度になったようだ。

 人間は意識して、どう行動するかなどの意思決定をしていると考えられてきたが、実際は無意識が決定していて、その決定を意識が認識したのちに行動に移すということが明らかになってきたようだ。人間は無意識に生きている!

 アジアで1人当たりGDPは香港やシンガポールが日本を上回り、大学の実力はとっくに中国などが日本を逆転している。このままでは、韓国が日本より豊かな国になるのも時間の問題だ。現在の日本は、経済力が落ちて教育・研究が進まず、開発力が低下し、そのために成長が停滞するという悪循環に陥っている。

 人生の意味を求めてみても、世界はそれを拒絶する。

 いくら考えてみても、根本的なところが分からないのだ。

 お金にも女性にも興味ない。これは達観したからでも悟ったからでもない。歳のせいだ。自然現象だ。何だか疲れてしまった。

 子供の頃に還りたい。あの頃は孤独でなかった。あの頃が懐かしい。

 孤独なとき、神様が傍にいる。だから孤独でも生きていける。人間は神なしに孤独では生きていけない。

 

荒井公康

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地球環境の危機

2023-07-26 20:16:12 | 日記

マルクスはエコロジーに大きな関心を持ち、持続可能なエコ社会主義を構想していた。(斎藤幸平)
人新世とは地質年代の新たな区分で、「人類が農業や産業革命を通じて、地球規模の環境変化をもたらした年代」と定義される。(クルッツェン博士)
コロナ禍は、資本主義がもたらした二つの危機(気候変動、格差社会)を可視化した。(斎藤幸平)
資本主義は環境破壊や経済格差を限界まで推し進めた。もう一度リセットして、持続可能で平等な社会を作ろう。(ダボス会議)
私たちは、一人ひとりがささやかな配慮をすれば、世界は変わるという物語が大好きです。しかし小さなアクションで満足すると、経済システムの中の真の問題が見過ごされ、一番必要な大胆なシステム変革ができなくなります。(斎藤幸平)
世界のCO2排出量が全く減っていないからです。それどころか、1990年のソ連崩壊以降の三十年間で1.6倍も増えました。このままでは「2030年までにCO2排出量を50%減らす」という目標は達成困難です。ただし、2020年に5.4%減少しています。コロナ禍で人びとが外出や旅行や買い物を控えたからです。リーマンショックの時でも1.2%減だったことを思えば、人類史上初の快挙で、今後のCO2削減のヒントになります。残念なのは、リベンジ消費によって2021年には4.9%増え、コロナ禍の状態に戻ってしまったことです。(斎藤幸平)
永遠の経済成長というお伽噺を大人たちがいつまでも信じているせいで、私たちの未来が犠牲になっている。(グレタ・トゥンベリ)
各国の掲げる2030年までの削減目標が全て達成されても、2100年までに世界の平均気温は2.4~2.7度上昇する。これでは、パリ協定の1.5度目標にほど遠い。(COP26)
脱成長を掲げているのが、ミレニアル世代~Z世代を中心とする若者で、イギリスの政治学者キア・ミルバーンは「ジェネレーション・レフト」と命名しました。彼らは資本主義下の格差や環境危機を問題視し、社会主義に肯定的です。(斎藤幸平)
今までと同じ経済成長を続けながら、CO2排出量や資源消費量を減らすことは、かなり難しいと言わざるを得ません。(斎藤幸平)

所得税や相続税の累進課税の強化。最高税率90%。<ピケティ>

干ばつの頻度と期間は、2000年以降、世界全体で29%増加していて、2050年までに干ばつが世界人口の75%以上に影響を与える可能性があります。雨の多い日本では、水不足や干ばつは遠い国の問題のように感じるかもしれません。 しかし、日本はオリーブオイルや小麦、大豆、鶏肉、とうもろこし、コーヒー豆、牛肉など多様な食品や原料、家畜飼料を輸入に依存しています。そしてその産出国の農業が、干ばつの被害を受けています。 干ばつによる森林火災も毎年のように拡大を続け、大気の二酸化炭素を吸収するたいせつな役割を担う大量の植物たちだけでなく、そこに暮らす人々や生きものたちの命を脅かしています。干ばつの原因のひとつは、気候変動による異常気象。これ以上、気候危機の加速をくいとめるためにわたしたちにできることが、まだまだあります。国連砂漠化防止条約(UNCCD)は、人類は干ばつの影響により「岐路に立っている。早急に、あらゆる手段を用いて緩和を加速する必要がある」としています。<グリーンピース>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤独と禅の世界観

2023-07-22 05:32:20 | 日記

枡野俊明著【「ゆるす」という禅の生き方】(水王舎)に次のような文章があった。

*****以下引用*****
「独座大雄峰」という禅語があります。百丈慧海禅師の言葉とされるものですが、「いまこの大自然の中で、自分がここにたった独り坐っていることが、いちばんありがたいのだ」という意味です。孤独の中にありがたさを感じ、幸福感を見出すのが、禅の世界観なのです。
 事実、禅僧が理想とする生き方は、いわゆる隠遁生活です。独り自然と一体になって、鳥のさえずりを聞き、川のせせらぎに耳を傾け、風のにおいを感じながら坐禅を組む。また一方では田畑で鋤鍬をふるい、ときに書物をひもとく。そんな暮らしの中に、生きる喜びも楽しさも、充実感も満足感も、一切合切があるとするのが禅的な考え方だといっていいと思います。もちろん、あえて人との繫がりを断つということではありませんが、人が生きるということの根底に流れているのは「孤独感」なのです。
 出家後、漂泊の旅を続けながらすぐれた和歌を詠んだ西行さんも、孤独に寄り添って生きた人でした。その晩年の歌に次のようなものがあります。
「ねがわくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」
 できることならば、(旧暦)二月の満月の光の中、花の下で死にたいものだ、という意味ですが、歌の調べの背後には、独り自然の中で静かに死を迎え、やがては土に還っていくのだという孤独への愛着、あるいは孤独者の矜持のようなものが見え隠れしていないでしょうか。
 孤独であることを怖れたり、孤独でいる自分を責めたりする必要などはありません。独りぼっちをじっくりかみしめ、ゆるりと楽しんだらいいのです。
*****引用終り*****

 坐禅こそ組まないが、私の生活も随分禅的だと思う。母が死んで以来独り暮らしだから、14年も孤独な生活が続いていることになる。母は平成14年に亡くなった。父ともそれ以来、ほぼ離れ離れに暮らしていたが、その父も4年前に亡くなった。
 日本人の生活の根底には禅があるといわれるが、私にも日本人の血が流れているということだろう。孤独にあっても、不思議と寂しさを感じない。ありがたさや幸福感を感じるのも事実である。孤独も慣れてくると、相手がいないので、知らず知らず、無心というか無の境地に陥り、自分の存在さえ忘れて生活していることに気づくことも多くなる。自分がいないのだから寂しさを感じようがない。
 まさしく、私の生活は隠遁生活だ。朝、朝食を済ませると、自転車で川崎方面の南河原公園に行く。途中、鳥のさえずりを聞き、鶴見川のせせらぎに耳を傾け、風のにおいを感じながら一行三昧。コンビニで菓子パンと緑茶を買い、路上に坐って、喫茶喫飯。鋤鍬をふるいはしないが、自宅を掃除し、書物をひもとく。たしかに、こんな暮らしの中には、生きる喜びも楽しさも、充実感も満足感も、一切合切がある。
 私には孤独者の矜持を持つというよりも、己を忘れて生きている、という感覚が強いので、プライドさえもない。
 将来は何が起こるかは誰にもわからない。わからないものは分からないとして、不安を感じず、その日その日を、精一杯生きていきたいものだ。人の人生は次の歌によくでている。

みわたせば 花ももみじも なかりけり 浦の苫やの 秋の夕暮れ (藤原定家)


荒井公康
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何も言ってくれない

2023-07-15 14:36:48 | 日記

何も言ってくれない
トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」を読んでいるとなんだか怒られているような気分になるのだが、神様に怒られていると思うとなんだか有難くもある。年をとると、いろいろと言ってくれる人がいなくなる。若いころは、いろいろ言われて腹を立てていたが、全く若気の至りで、今思えば素直に聞いていればよかったし、そうしていればもう少しましな人生になっていただろう。後悔先に立たずである。いろいろと言ってくれる人のいる間が花である。子供の頃の両親もそんなものだろう。子供の頃は反発していても、大人になって有難さが身に染みる。全て子を思っての言動であった。しかし、本当に今は、私に対して遠慮なく何でも言ってくれる人はいなくなった。年よりの私にみんな遠慮がちだ。そう言う意味でも「キリストにならいて」は貴重な本だ。今の私にも反発もせずに素直に受け入れられる本だ。私も少しは素直になったのだろうか。教会にいて最近亡くなった坂本兄弟は、私のことを神に守られていると言っていた。不満だらけの私であるが、端から見ればそう見えるのかもしれない。坂本兄弟も私にいろいろ言ってくれる有難い人だった。そういう人を失ったのは悲しい。これからも「キリストにならいて」は何度も読んでいこうと思う。そして自分への戒めにしていこうと思う。

 

荒井公康

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする