ある年齢になると将来に希望がなくなってしまうのは仕方がないことかも知れない。特に私は生涯独身で自分自身の家族もなく、自分の家族にまつわる祝い事とも無縁であった。40代からは世捨て人のように暮らして来た。しかし、父や母などの実家族がいたのは救いだった。親子3人でよく旅行をした。しかし、そんな両親も相次いで他界した。弟や従妹もいるが疎遠になってしまった。家族というのは特別な人間関係だ。他人には代えることのできない親しい関係だ。どんなに親しくても他人同士では親子になることはできない。家族を持たない人間は孤立しがちだと思う。家族を通した人間関係というものは結構あるものだが、そういうものができない。人間関係とは意外に生きがいにつながりうるものだ。家族もなく人間関係も希薄な60代の人間。なにを生きがいに生きていけばよいのか。たとえ希薄な人間関係しかないとしても、それを足がかりに、将来の希望へとつなげていくしかないのだろう。ご縁のある方々、こんな私でも、宜しくお願い申し上げます。
「人間、ひきこもって行くところがなくなってしまうと、おかしくなってしまうってね。」と言われたことがある。ひきこもって長くなり、ほぼ孤立している感があるが、なんとか身体面、精神面のバランスは保っているつもりである。秘訣は規則正しい生活と適度な目標課題の設定であろう。それさえ守っていれば、たとえ孤立していても、おかしくなることはないようである。身体面では、毎日の自転車での散策を欠かさない。爽やかな風に吹かれての気分転換は気持ちが良い。大学と会社での経験分野は、化学、電気工学、人工知能だったので、毎日、この方面の読書も欠かさない。どの分野を取っても、一人で全分野をカバーできないほどの知識を必要とするが、すこしずつでも理解できるようになればと思って勉強を継続している。歳をとってから、新しい分野の勉強を始める気力も体力も残っていないが、昔やったことに関することならば、馴染みもあるので、多少の興味を持って読書を進めることができる。最近は化学関連で薬理学などの勉強も始めたが、幅を広げるのもほどほどにするよう、自重するつもりである。精神は燃えていても、肉体は弱いものである、と聖書にあるとおりである。この歳で勉強したってどうにもならないのであるが、勉強に関して、私は歳をとれないようである。いまだに、浪人時代の大学受験生気分である。しかし、さすがに年齢は誤魔化せず、肉体的には歳をとったことを痛感する。最近、風邪をひいたが、回復するのに時間がかかった。回復力が若いころに比べてめっきり衰えた。よく考えてみれば、あとどのくらい生きられるのかも分からない年齢だ。あと10年、長くて20年くらいだろうか。蝋燭は燃え尽きる瞬間に輝く。私も蝋燭のようなものか。いつ死んでも悔いがないくらいの心境になりたい。そのためには、もう少し努力が必要なようだ。まぁ元気のあるうちは頑張りたいものだ。
低タンパク、高糖質の食事ばかりのせいか、体重が増えてしょうがない。先日、ロイヤルホストで少し贅沢をして、ロースかつ御膳を食べてきた。うまかった。家でも、タンパク質を取ろうとしても、つい、畑の肉の納豆ばかりになってしまう。ああ、もっと肉が食いたい。歳を取っても食欲だけは衰えない。その他の欲はすかっり無くなってしまった。欲がないのは意外といい気分だ。欲求不満に陥る恐れが全くないからだ。食欲のことだけ心配していればよい。これは一種の悟りなのか、ただの加齢現象なのか。食うことだけが楽しみになった老人の戯言でした。
学生の頃習った少し難しいことは一種の勲章
歳を取っても、その周りをぐるぐる回っている
進歩はないが、昔を想うのも
孤独な身にはささやかな慰め
二三の成功と多くの失敗
人生は失敗のほうが多いもの
顔が赤くなるようなそんな失敗の数々も
今となっては、誰も見向きもしないお笑い種
老い先短くとも
この先何があるか分からないのが人生
死は慰めと
昔の友達は言っていた
そうかも知れない
その人と別れて何年になるだろう
少年老いやすく学なり難し
これは私の人生そのもの
しかし、楽しいこともあった
幸せだった子供時代
遊びに遊んだ
人生の基盤は子供時代に形作られる
失敗とも成功とも言えないこの人生にも終わりが来て
やがて忘れ去られる
無から生まれて、無に還る
誰もが辿るこの運命に不満は言うまい
ただいましばらくはこの生と戯れていよう
人間が孤独に耐え得るのは、神がともにおられるからである。神との正しい関係において、神の友となることができるからである。
読書すること自体も楽しいし、良いことだと思うが、それにもまして読書することによって愛読書ができるということほど喜ばしいことはないだろう。疲れた時、何かあった時、苦しい時、そして嬉しい時でさえ、古い愛読書は私の親しい友のようになってくれる。そして私を励まし、懐かしさで胸一杯にしてくれる。一冊の本が愛読書になるまでには、長期間愛読する必要があるが、そうした苦労の甲斐はあるものである。孤独な私にとって愛読書は、生身の人間にもまして、親しい存在である。多くの愛読書を持てる人は幸せだと思うし、孤独にも強くなれると思う。さぁ、読書に親しんで、沢山の愛読書を作ろう。
世の中に自分のものと言えるようなものがあるのだろうか。全ては他者から自分に与えられたもの言ってよいかも知れない。自分の考えも自分独自のものなどなく、全て先人、両親、恩師、友人から教えられたもの又はそれらをアレンジしたものではなかろうか。これは、こうして私に教えてくれた人も含めてである。社会を通して、様々なものが、人間によって伝えられていく。社会は神だという言葉もある。そういった意味で、全ては神から与えられるという考え方も成り立つように思える。
人生の意味だとか目的だとかは、歳を取っても分からない。だから私はただ生きる。この歳で生かされているだけで、何故か嬉しく、感謝の念が沸き上がってくる。何も迷わずに、今この時をただ生きて味わい楽しめばよいのだ。
平和祈念式典で、被爆者を代表して「平和への誓い」を読み上げた長崎平和推進協会継承部会員の山脇佳朗さんは、安倍首相に核兵器廃絶に向けてリーダーシップを発揮するよう直訴した。
暖かくなる冬と、長くなる夏とが、サハ共和国の90%を覆う凍土を着実に融かしている。夏に融け冬には凍る表層部分は、かっては最大で3フィートまでだったものが、10フィートにも深まっている。サハ共和国中の永久凍土が融け出すにつれ、土地のある部分が沈み、一帯をサーモカルストと呼ばれる小丘と窪みの障害物コースに変えていく。さらに沈み込むと沼地となり、そして湖になる。
2019年度の国家公務員給与を6年連続で引き上げるよう国会と内閣に求めた人事院勧告に対し、「財政難で増税するのに、公務員の給与が上がるのは許せない」という批判の声がネット上に集まっている。なぜ財政難でも公務員の給与は上がり続けるのだろうか。
欧州連合の関連機関によると、2019年7月は世界全体で観測史上最も暑い月だったという。
東京電力福島第1原発の廃炉作業を支援する「原子力損害賠償・廃炉等支援機構」は8日に公表した廃炉戦略プラン(2019年版)の概要で、核燃料が溶けて構造物と混じり合った「燃料デブリ」について、2号機から取り出すのが適切だと明記した。機構は概要でデブリについて、「拙速に対処した場合にはリスクを増加させうるリスク源」だと指摘。その取り出し作業では、多くの困難が待ち受けている。
水不足の世界。インドからイラン、南アフリカからボツワナにかけて、17カ国が現在、非常に高水準の水不足に至っていると、世界資源研究所が火曜日に報告した。サクストン氏の研究では、米国の10%の家庭が小さな家に移り住み、節約した生活をするならば、約3憶6600万エーカーの生物学的に実りの多い土地が保全されるとした。
生涯を旅に送った、漂白の歌人西行法師の私家集【 山家集 】
<ダイジェスト>
いつしかと春来にけりと津の国の難波の浦を霞みこめたり
吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき
ねがはくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ
道のべに清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ
けふもまた松の風吹く岡へ行かむ昨日涼みし友に逢うやと
葛城山まさきの色は秋に似てよそのこずゑは緑なるかな
嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな(百人一首)
さびしさにたへたる人の又もあれな庵ならべん冬の山里
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
年たけてまた越ゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山
孤独とは病的な状態である。健全な人間は社会的であるから。しかし、社会が病的になってしまっては、孤独に閉じこもるよりほかないのも人間ではないか。私は病的な社会に触れてきたので、今の孤独は心地よい。孤独にも耐性ができるようである。
フロイトは正直な人間であったと思う。若い頃はフロイトが嫌いであったが、現実に目をそむけていたかったのが理由だろう。歳を取ったら、フロイトに親近感を覚えるようになった。人間は社会によって振り回されているのだ。自分ならざるものに支配されているのだ。本当の自分はおろおろしているばかりではないのか。そして自分の意見など滅多に言わない。
どんなに恵まれた状況にあろうと、何か物足りなさを感じるのが人間ではないだろうか。人間の欲望には際限はないし、持っているものよりも、自分にないものに意識がいきがちだ。小欲知足という言葉が好きだ。今の自分で十分、それだけで有難いという感謝の気持ちは、自分を欲望から解き放ち、楽にしてくれる。やせ我慢とも言えなくもないが、やたら欲しがるのはみっともないし、得られないと自分で苦しくなってしまう。小欲知足の精神でいくのが最善のようだ。
若い頃は結婚したいと思っていた。しかし、縁がなかった。結婚していたとしても、私の性格から、結婚生活に耐えられず、離婚していたかも知れない。有無同然で、どちらが良かったのか分からない。運命として受け入れるしかないのだろう。ニーチェの運命愛の考えには共感を覚える。最善のことしかなさらない神の摂理と思って感謝して受け入れる考え方もあるだろう。これは結婚のことだけに限らないだろう。なんでも感謝して受け入れられる人は幸いかも知れない。
生活に必要なものは、水、空気、ご飯、家、本、パソコン、テレビ、自転車、若干のお金、といったところか。これだけあれば何とか生活していける。これ以外のものは、あれば有難く頂戴するが、欲張らないでおこう。贅沢をすると精神がだらける。寂しい生活だが、もう慣れた。小欲知足の精神だ。これが肝心だ。
なんとなく不安な心となんとなく物足りない心。このふたつの心から解放されたい。いつも、このふたつの心に縛られているわけではないのだが、常に清々しい心でいるにはどうしたらよいのだろう。どんな心でも、それを見つめているだけでよいのかも知れない。否定すべきことではないのかもしれない。そういう心も時が経てば、自然に消えてゆくものだ。心ほど移ろいやすいものはない。そういう自覚が必要だ。
幸せであろうと不幸せであろうとどうでもいいという心境になりたい。日々是好日。どんなに辛く悲しく寂しくとも、それを受け止めて、ただ生きていければ、幸不幸の対立を超えて、達観できるようになれるのかも知れない。
私の体、心、所有物全ては自分のものではなく、借り物なのだ。死ぬときには全てお返ししなければならない。執着せずに大切に使わせて頂こう。
論理、自然法則、常識のない世界に行きたい
これらのものから解放されたい
空想の世界を自由に羽ばたきたい
しかし、これらのものを失ったら
私たちはどこへ行ってしまうのだろう
まともであることは苦しく窮屈だ
あぁ、ただ、この苦しみから逃れたい思いだ
暑い暑い日だった
私は外へ出ていかなければならなかった
外へ出て
青い空に白い雲が自由に浮かんで動いていくのを見たら
私はありがとうと言いたくなった
私も自由だから
自由は寂しいものだが
雲と仲良しになれた気がした
自由は代えがたいとも思った
若い頃、自由が好きだった
それで私は孤独になった
歳を取った今
自由は寂しいと悟った
どんなに辛いこと、どんなに嫌なことを経験しようと、過去のことは、過去だということだけで、懐かしい思い出となる。学校のこと会社のこと家族のこと、今は全てが懐かしい。これは心の持つ自浄作用のようなものであろうか。人間、どんな人生を送ろうと、歳を取ると穏やかになるようである。どんな運命、人生であろうと、それを振り返ってみたときに、懐かしく思えるほどの慰めはあるまい。
私はなんと頑なだったのだろう
ただ仕事が気に食わなかったからと言って
今も昔も敵などいなかったのだ
ただの一人も
無欲であれば、禁欲する必要はない。しかし、無欲であることのなんと難しいことか。歳を取るしかないことなのかも知れない。歳を取れば、自然に欲も少なくなってくるものだ。
若き日には何かに怒りを燃やしていたような気がする。その怒りを行動のバネにしていたような気がする。誤解に対する怒りであっただろうか。しかし、今は、自分が何に怒っていたかも忘れ、穏やかな気分だ。今は、何事もなかったかのように読書に耽る。
履正社が令和初の夏制す 強力打線が星稜・奥川から5点奪う 甲子園初優勝
煩悩とは欲望のことである。全ての欲望を捨てれば悟れるのかも知れない。しかし、そんなことできるのだろうか。無事是貴人。求めないことが悟りであるという。確かに実現不可能なことを求めるのは苦痛だろう。しかし、実現可能なことなら求めてもいいのではないかと凡夫の私は思ってしまうのだが。実現可能なことを求めて叶うのは快いことだと思う。さて、悟りとは一体何なのだろうか。
一寸先は闇だ。将来のことは誰にも分からない。確実なのは死だけ。それもいつ訪れるか分からない。死とはなにかも分からない。分からないということは不安を生む。この不安は大したことではなくとも、嫌なものだ。この不安を解消するために、神に全てを委ね明け渡して平安を得るか、「今、ここ、自己」に集中して不安を払拭するか、心地よい趣味などに熱中して現実を忘れるかの手段に頼ることになるのが人間ではないだろうか。不安から始まる宗教や哲学もあると思う。不安をどのように解消するかも大切なことだと思う。
私が本当に人を愛せないのは
家族以外の人を本当に愛したことがなかったから
私には妻も子供もいなかったから
そうかも知れない
たぶん、そうなのだろう
愛し愛されるのは
自分が失われるようで
なにか怖い
そして不安だ
神の存在証明を自分の外部の世界に求めても無駄ではないか。神は私たちに良心の声として絶えず働きかけているのではないか。自由奔放に振舞おうとしても、私たちは、我ならざるものの力によって、抵抗を受け、引き戻されることが多い。我に返ってみて初めて、私たちに、神が働きかけていたことを知るのではないか。
目に見えぬ透明な世界
しかし、それじゃあまりに人間味がないじゃないか
人間が枯れてしまうよ
人間は神にはなれないのだ
追い求めれば逃れてゆき
諦めてみれば、気づかれもせずに自分のすぐ傍にある
そんな捉えがたきものを
私は日々見つけようとしていたのかも知れない
それは幸せであったかも知れない
夏の暑さが一段落した
秋の気配が漂う今日この日に
私はひとり溜息をつく
明日も良き日と思いつつ
孤独は辛い
孤独に負けるものか
と思っていたら
いつしか
孤独は私の友になった
孤独な時間は
私の心に
沢山の贈り物を残してくれるようになった
喜ばしい考えが心に浮かぶとき
孤独はこよなくありがたいものだと感ずるようになった
孤独の濃密な時
この無限ともいえる時を
自分だけのものとして過ごせる恵みよ
それは、至福の時
この時に可能性を感ずる私は
決して寂しくはない
このどん底の時に
私は開き直って笑みを浮かべる
これ以下になることはないのだ
こんなものか
どん底の時にこそ生まれる
不可思議な希望
本をいくら読んでも
なにも分からず
謎は深まるばかり
窓の外
青い空
雲が浮かんでいる
雲をしばらく眺めていたら
心が自由になり、楽になった
私の心は雲と一緒になって
動いていった
死とはあらゆる執着から引き離されることである。凡夫である人間にとって執着を手放すのは苦しい。しかし、すべてを捨てた人間にとって死は安らぎであろう。
人間にとって神仏とは何か。己を捨て、全てを捨てても、おまかせすればば、自分が生かされているのが分かり、感謝の念が湧いてくる。おまかせする相手、自分を生かしているもの、感謝の宛先、これを神仏という。
執着があるのも苦しい。執着を捨てるのも嫌だ。あぁ、執着だらけの私には苦しいことばかりだ。
私は必ずしも原発に反対でない。化石燃料の浪費による地球温暖化で近い将来壊滅的な自然災害を被るほうが怖い。自然の脅威は原発の放射能よりも恐ろしいと思う。
人工知能が発達して皆がベーシック・インカムを貰って生活するようになったら、人間は何をして生活していくのだろう。労働を嫌悪しようがしまいが、労働は人間を鍛えてくれる。人間は堕落していくことに耐えられるだろうか。労働とは他の生産的活動を求めていくのではないだろうか。労働のない世界は果たしてユートピアであろうか。
人生が夢ならば、死後の世界こそ現実であろう。無から生まれて無に還る。我々は元来、無であった。
徳とは何か。いっさいの運命をそのままに是認し、すべてを春のような暖かさで包むことである。
若い頃は、物事は思い通りにならないものだと不満を抱いていたが、歳を取った今は思い通りにならぬのが人生と諦めている。
最近は、「キリストにならいて」とか「老子・荘子」とか、世捨て人が書いたような本を好んで読んでいる。若い頃は名を成すことを志していたので、負け惜しみととられても仕方がないが、この類の本は慰めを与えてくれる。欲を持たずに無為自然に生きる楽しさを教えてくれる。現実には私の場合は社会の落ちこぼれで、現在は世捨て人のような生活をしているのが実情である。社会に未練を持っている人間である。それでも、これらの書物は今の自分に生きる指針を与えてくれるもので、有難い。人間、何事も心の持ちようである。思想によって気持ちを楽にするのも許されるのではないかと思う。
自己実現という言葉はあるが、他者実現という言葉はあまり聞かない。人間は放っておけば利己的に振舞うものだ。だから、他者実現を目指して努力するようにすれば、適度にバランスがとれていいのではないかと思う。利他的に生きることこそ、ギスギスした世の中への処方箋である。
自然とともに生き、自然から学ぶ。これも禅の精神のひとつのようだ。
求めれば、足りない。手放せば、足りる。
地球の温暖化が危機的状況だと言いながら、年々化石燃料の消費量は増え続けている。先進国は人口減で頭打ちだが、発展途上国では今も人口が増え続け、生活水準が上がり消費は激増している。どこかで歯止めをかけないと、取り返しのつかない事になりそうだ。
死後の世界の存在が信じられるならば、まだ救いがある。死後の世界の存在が信じられないとしたら、どうだろう。救いはないのではないか。
私たちの心身はいくつかの要素が和合してできており、実体ではないと考えれば、死んでも要素に分解されるだけであることが分かり、死ぬ主体は存在しないのだから、死を恐れることはないと考えることができる。私たちはもともと無ないし空であったと考えるのである。この場合、死後の世界の存在は必要なくなる。
希望も絶望も客観的には存在しない。希望も絶望も自分の心が作り出すのである。希望が欲しければ、自ら作り出せばいい。心の持ちようである。
煩悩具足の凡夫の身のままに
ずっと悟りの世界に憧れていたい
ああ、永遠の憧れ
永遠に悟りえぬ身のゆえに
ただ、憧れのみに生きるのだ
それはとても楽しいことだ
はなてば、てにみてり
禅語や仏教語の中には、日常用語として日本人の生活に浸透しているものも多い。自由、宗教などという言葉も仏教から借りてきた言葉だ。晴耕雨読、道具、言語道断などは禅語だ。仏教や儒教などの影響を受けていない日本人はいないのではないか。国を挙げて、これらは日本に導入されてきた経緯がある。キリスト教が日本で普及しないのも、キリスト教にはこれらの経緯がないからだと思う。キリスト教に似ているとされる日本最大宗派の浄土真宗が日本に広まったのも、仏教の伝統が日本にあったからだろう。
苦しみの原因は自分自身にある。
世の中には、自分以上に恵まれない人、不幸な人がいる。それを思うと不平不満は言っていられない。
私には地位も肩書もない。しかし、これが本来の自分の姿なのだ。ただの人間として、できることもあるだろう。できることをやっていこう。
執着は心を重くするから、それを捨てれば、その分、心軽やかに生きられる。今の私は地位や肩書など執着するものがないから幸いかも知れない。
利他主義と利己主義の対立を超えて、人格主義の立場に生きたい。
自由であることと欲望の奴隷になっていることをはき違えないようにしたい。
気晴らしー人間は死・悲惨・無知を癒すことができなかったので、自分を幸福にするためにそれらをあえて考えないように工夫した。(パスカル) この私の生活も気晴らしの毎日だ。
人と比べるな。人と比べると惨めな気持ちになる。わが道を行こう。
自分の外に出ようとして出られない自分の心。私は私でしかない。
幸せは何か特別なことにあるのではない。日常のさりげない生活のうちにある。背伸びしない、ありのままの自分で、いつもの日常を送ることのできる幸福に感謝しよう。
私は能力のない努力家だ。努力しても、もたもたしていたから社会から取り残されてしまった。役立たずの老いぼれになってしまった。情けないことだ。
物事の限界と人間の想像力の限界を混同してはならないだろう。現実の物事の限界は常に人間の想像力を超えている。
2019/09/21今日は昨日に引き続き涼しい日であった。久しぶりに自転車で遠出をし2時間ばかり走ってきた。曇天であったが秋らしく清々しい日で気持ちが良かった。平安小学校、潮田小学校では運動会が催されていた。傍を通ったら、その雰囲気に昔の想い出が蘇ってきて、懐かしい気分になった。子供に還ったような気持ちになった。父母もいたあの頃が懐かしい。
愛だけでもダメ。義だけでもダメ。愛と義を併せ持たなければダメだ。
哲学と宗教は違う。私はあくまで哲学徒だ。哲学には宗教も含まれる。ひとつの宗教だけでなく全ての宗教が哲学研究の対象である。宗教に限らず、あらゆることに興味を抱くのも哲学徒だ。
雲や水のように生きたい。
いくつになっても、初心忘るべからず。
人生に意味を求めることよりも、人生の無意味さに耐えることにこそ真実があるのではないか。その先に見えてくる希望もあるのではないか。
存在するものを対象とすることは、支配であり暴力とも考えられる。この暴力的な立場からぬけだし、万物の存在が明らかになる場が脱自-存在としての人間であり、人間は存在のあらわれ(真理)を見守る使命を持つ。人間は、自らのあらわれを贈る存在に聴従し、存在の真理を思索しながら見守る「存在の牧人」である。
人生においては何事にも完成ということはない。生涯、ただ精進あるのみ。
無とは時として、形のないこと、限りないことを意味する。
自然に触れていると、はからいのない世界に、自分もまたいるのだと感じる。これほどの心地よさはない。
努力し続けよ。そうすると、ある時ふと分かることがある。
いくら言葉を重ねても、言い尽くせぬものが残る。
現実を分析するだけではだめだ。現実を超える理念を持たねばならない。
過去のことはくよくよせずに、きっぱりと忘れる。未来のことは思い煩わない。現在を一所懸命に生きる。
無為自然になり、おまかせすると、元気が出てくる気がする。
比べることが、悩みや苦しみの原因になる。
あるがままの自分で、今いる状況で、生きることしかない。今の自分を、今いる状況を、絶対なものとして生きるしかない。
判断をしない。
一瞬、一瞬をコツコツ、丹念に生きる。
変幻自在な心を持つ。捨てるという構えを忘れない。捨てるとは、求めないことであり、執着しないこと。求めるから、得られなくて悩む。執着するから、それに捉われて迷う。
一息に生きるとは、ひと呼吸するその瞬間を、精いっぱい大切に生きること。つねに一息を生ききっていれば、心残りも、未練もない。従容として死を迎えることができる。
何事も、自分のために、させて頂いているのだと思って感謝しよう。
キリストを信じたい
天国を信じたい
そうすれば楽になるだろう
でも何故か確信が持てない
神よ、私に信仰をお与えください
キリストも苦しまれたのだ。安楽な道はない。この苦難の人生にひとりで立ち向かうことのできる人間はいない。神の助けによりこの苦難の人生に耐えることができるのみだ。しかし、人間には不可能なことも神には可能だ。ここに希望がある。ただ、安楽な人生を求めても無駄かも知れない。人生は苦しいものだ。これは仏教でも同じだ。
自分よりもキリストを愛せる人は稀だ。人間にとり、自分より愛おしいものはない。キリスト教は厳しい教えだ。この点、仏教は楽観的なので好きだ。私の人生には、キリスト教が教えるほどの苦難はない。孤独でも、結構楽しい。
神に支配されているときこそ、私たちは自由なのだ。
判断せず、理解せず、分析せずに全ての物事を包容する。
「あなたたちは空虚な言葉で私の夢を奪った」。米ニューヨークの国連本部で23日開かれた気候行動サミットで、スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリさん(16)が各国政府の気候変動に対するこれまでの取り組みを強い口調でとがめ、対策を加速させるよう促した。
「人々は困窮し、死にひんし、生態系は壊れる。私たちは絶滅を前にしている。なのに、あなたがたはお金と、永続的経済成長という『おとぎ話』を語っている。よくもそんなことが!」。目に涙を浮かべ、怒りで小さな体を震わせる少女の叫びに、国連本部の総会ホールは静まりかえった。
あるときはありのすさびに憎かりき、なくてぞ人は恋しかりける(古歌)
窓の外
空に浮かぶ
雲を見ていたら
なんだか楽しくなってきた
水を酸素と水素に分解して考えるだけでなく、「水は美しい」と感じることも大切だ。
自然の移ろいに逆らわない生活をする。
真理は至る所にある。それも、平凡でありふれた日常の中に。遠くの特別な所にではない。私たちが気づかないだけである。
朝顔を育てた幼い日
私も一緒に育ってた
2019/09/27㈮ 肉が食べたくてファミチキを買った。
「無財の七施」
1眼施…………優しい温かい眼差しで周囲の人々を明るくすること。
2和顔悦色施…優しい微笑みを湛えた笑顔で人に接すること。
3言辞施………優しい言葉をかけること。
4身施…………肉体を使って人のため、社会のために働くこと。
5心施…………心から感謝の言葉を述べること。
6床座施………場所や席をゆずり合う親切。
7房舎施………求める人、訪ねて来る人があれば
一宿一飯の施しを与え、その労をねぎらう親切。
<2019/10/11>アマゾン川の水温1度のエネルギーで全世界のエネルギー消費を賄えるという。自然のエネルギーはそれほど膨大なものだ。台風19号は、世界のエネルギー需要をはるかに上回るエネルギーを携えて、日本列島に接近ないし上陸しようとしている。人間の無力を感じる。この台風をやり過ごすしかないのだ。あぁ、この無力感。改めて自然の脅威を思う。
隠れて生きよ(エピクロス)
<2019/10/17>台風19号は大きな爪痕を残していったが、来年も猛暑の夏は来るし、台風も来るだろう。今回のような災害を来年も防ぐことはできないだろうが、今回のような地球温暖化による災害を減らしていくためには、原発を最大限活用し、火力発電は極力控えるしかないだろう。これは先進国の義務である。災害の復興に要する財源にも限度がある。このような災害が一年に何度も起こるようになれば(既にそうなっているが)日本自体が破綻するであろう。喉元過ぎれば熱さを忘れるであってはならない。抜本的な対地球温暖化対策が必要である。これ以上、二酸化炭素を排出してはならない。原発に感情的に反発していれば人類の滅亡が早まるだけだろう。真剣に地球温暖化の原因について直視すべきで、これ以上誤魔化したり、言及することをタブー視してはならない。原発再稼働が禁句では人類の滅亡は避けられない。環境も随分住みにくいものとなっている。ここらで真剣に考えるべきである。
昨今,我々の社会活動から生じる温室効果ガスによる地球温暖化防止のため,再生可能エネルギー源の導入が進んでいる。一方,現代の我々の社会生活は電力が安定供給されることを基盤としている。したがって,不可逆的に進む自然変動型電源の増設と並行して,その副作用とも言うべき発電出力の変動に対し,電力を安定供給する手段が必要となり,需給調整市場の制度設計が検討されている。
世界保健機関の新しい報告書によると、世界では毎年80万人が自殺によって命を落としており、つまり40秒に1人の割合で自殺者が出ているという。
何も全てのことを理解することもできないし、そうする必要もない。気楽にいこう。
地球温暖化の原因については温室ガス効果によるものと考えられているが、その背後にあるのは、地球全体の熱収支のバランスが崩れてきているということだろう。人類全体の生産活動によって生成される熱エネルギーが、放射冷却によって地球から宇宙へ放出される量よりも、大きくなってきているのである。したがって、温室効果ガスの排出を削減をしたからといって、すぐに地球温暖化が止まるわけではない。温室効果ガス濃度が同程度でも、地球全体の熱収支が改善されない限り、地球温暖化は進むことになる。地球温暖化を止めるためには、温室効果ガスの排出を削減するばかりでなく、人類全体の生産活動を抑え、生産活動による熱エネルギーの放出を抑える必要がある。効率が100%の熱機関は存在しない。どのような熱機関を用いても、利用できない部分のエネルギーは熱エネルギーとして放出される。熱機関によるエネルギーのほぼ70%は熱に変化してしまう。
人類全体の生産活動を抑えるというのは、大げさな話だが、経済活動と直結する問題なので、発言するのも憚れ、生産活動を抑えろと主張するのは勇気がいることだが、本当の話であろう。地球温暖化といえば温室ガス効果を連想するのが普通だろうが、人類全体の生産活動量を連想する人は少ないようである。
地球温暖化と同時に冬の寒冷化という矛盾することも生起しているので混乱しがちだが、今日観たNHKの番組によると、地球温暖化により、北極海の氷が解け、寒気を閉じ込める効果をゆうする北極圏ジェット気流の速度が遅くなるため、北極圏の寒気が拡散することにより、冬の寒冷化が起こるとのことである。
今年の日本の夏は記録的な猛暑であったが、オーストラリアは以前から、そのような現象が見られ、40度以上の猛暑も普通になったという。
はたして、経済的発展を求めて、人類滅亡への道を選ぶか、人類全体の生産活動を抑えて、そのよう道を回避するのか。私が生きている間に人類滅亡ということはありえないだろうが、長い目で見た場合、私個人は人類の未来を悲観的に観ている。
食べることだけが楽しみだ。食事のことばかりが頭に浮かぶ。しかし、太るから無制限に食べるわけにはいかない。辛いところだ。
音楽が好きだった。しかし音楽の才能がなかったので、音楽の知識を駆り集めて作ったのが自動作曲システムだった。情報処理学会に発表したところ、新聞やNHKの取材を受けた。30年以上も前のことだ。人間並みの曲は作れないが、中々複雑で面白い曲ができる。作品例はHPに掲示してある。しかし、あの新聞やNHKの取材以来、何の反響もなかった。それは、少し残念だが、自分の好きなことをやり遂げられたことは満足だ。私の人生の記念碑だ。
私も歳をとって、家族は弟ひとりになってしまった。歳をとると出会いよりも別れが身にしみる。身近な人ばかりでなく、自分が若い頃活躍していた芸能人や政治家などの著名人の訃報に触れると、何とも寂しい気持ちになる。その人たちが活躍していた時分は、自分も若く、もっと明るく溌剌としいた。自分のことも含めて、何とも世の中の無常を観じる。やがて、私自身がこの世を去る日が来るのだ。その時は全てと別れなければならない。気持ちよくこの世を去っていけるだろうか。そのためにはなるべく執着を捨てて生きる習慣が必要なのは確かなようだ。
歳を取れば取るほど、分かったことよりも分からないことのほうが余計に増える。だから、私は未だに信念というものを持てない。そして、モットーもない。
哲学から派生した科学。哲学のほうが科学よりも基礎的と思っていたが、最近は「実験哲学」といって、哲学を科学的に吟味しようという動向が生じてきた。もはや科学的に考えることが、最も基礎的な考察態度になったようだ。
人間は意識して、どう行動するかなどの意思決定をしていると考えられてきたが、実際は無意識が決定していて、その決定を意識が認識したのちに行動に移すということが明らかになってきたようだ。人間は無意識に生きている!
アジアで1人当たりGDPは香港やシンガポールが日本を上回り、大学の実力はとっくに中国などが日本を逆転している。このままでは、韓国が日本より豊かな国になるのも時間の問題だ。現在の日本は、経済力が落ちて教育・研究が進まず、開発力が低下し、そのために成長が停滞するという悪循環に陥っている。
人生の意味を求めてみても、世界はそれを拒絶する。
いくら考えてみても、根本的なところが分からないのだ。
お金にも女性にも興味ない。これは達観したからでも悟ったからでもない。歳のせいだ。自然現象だ。何だか疲れてしまった。
子供の頃に還りたい。あの頃は孤独でなかった。あの頃が懐かしい。
孤独なとき、神様が傍にいる。だから孤独でも生きていける。人間は神なしに孤独では生きていけない。
荒井公康
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