朝から「束縛の愛は本当の愛ではない」というインスピレーションを得ましたので、本日はこのことについて考えてみたいと思います。
人間関係、特に家庭環境でトラブルを起こしそうな「束縛の愛」というものですが、具体例を考えてみます。
「あなたのために〇〇を買ってあげた」
「あなたのために〇〇してあげた」
「あなたのために払ってあげた」
「良かれと思って忠告してやってる」
一見、他人のために奉仕しているように見えます。
ですが、「〜してあげた」「〜してやった」という気持ちが入っているので、「してあげた」と思っていることが裏切られたり、思った反応と違ったりすると、その反動でネガティブになります。
「あげたものをいらないと言われた」
「あげたものを使ってもらえない」
「〇〇してあげたのに感謝がない(足りない)」
「良かれと思って言っているのに、言うことを聞かない」
こうなると、怒りが湧いてきて、さらに相手が望んだ反応になるようにしたいと思ってきます。
これがエスカレートすると、完全に相手を何としてもコントロールしたいという状態となります。
さらに悪いことに、本人にとっては「相手のためにやってあげている」という状態のため、歯止めが効きません。
単に自分よがりの正義感を相手に押し付けているわけですが、その人にとっては、相手に対して愛を持ってやってあげているんだと思っている状態。
従って「本人にとっては」非常にポジティブな行動になっています。
しかしやられた方にとっては、こんなにはた迷惑な愛はありません。まさに「余計なお世話」です。
子育てにおいても、「子供のために〇〇してやってる」「教えてあげている」「習い事にお金払ってやっている」んだから、「ちゃんとやらないとダメでしょ」という状態になりがちです。
子供が納得しているならば良いですが、これでは単なる親の価値観の押し付けです。
親のエゴでコントロールしようとしているだけに過ぎません。
これでは真の愛とは言えず、本人が良かれと思っても、人間関係に歪みを生むことになりかねません。
人に施そうとする時、とりわけ子供に対しては、何もかもやってあげないととなりがちです。
しかし、そこにエゴがないかどうか、相手を束縛しようとしていないだろうか、自分に問いたいものです。
束縛の愛の反対は、無償の愛ということになるでしょうか。
見返りを求めず、ただ施すことは「与える」ということになり、非常に徳の高いことでもあります。
基本的にこの考え方で日々過ごしたいものですね。
ここまで読んで頂き、誠にありがとうございました
毎回読んでいて、いつも自分に起きた事が頭に浮かんできます。
「〜してやった」本人は何気なく言ってるつもりなのかもしれませんが、でもその思いが多少なりともあるからその言葉が出てくるんだと思います。
私も随分その言葉を言われて、じゃぁどのように感謝の気持ちを表したらいいんだ!と思い続けて来ました。
「してくれと頼んだわけじゃない!」って感情が出て来ます。
押し付けの愛は自分が中心ですから相手には響かないですよね。
いつもコメント長くてすみません🙇
実の母親からもその言葉で抉られました。
なので私はその言葉は使わないと心に決めています。
そうですよね。「〜してあげてる」は親の期待とか夢がふんだんに詰まった言葉ですので、受け取った子供は戸惑いますよね。
aoisoraさんは、自身のご経験から、お子さんにしないようにされてるんですね。本当に頭が下がります🙇♂️
私も父親からこれをやられて嫌だった記憶しかないのに、私自身も子供にやってしまっていました。
朝からこの言葉が降りてきてドキッとしたので自分への戒めとして書きました😓
朝から反省しきりです。。。
これは私もしてしまいがちですが、世間には自分の正義を押し付けてくる迷惑な人たちがいます。
そうですよね。自分のルールや価値観、正義を押し付けることは争いの種にしかなりませんよね。
結局、そういったものは自分にも適用されるので、自己否定にもつながり、自己肯定感が低くなるので、自分にとっても良くないと思いますね。