体調が悪く伏せって居て、今度こそ書く事が無いので、1年前の過去記事の再録です。また読んで見てやって下さいね。多少手直しはして降りますので宜しく。毎回、苦労してあげて居ます。コメント何でも良いので頂けると励みになるので宜しくね。また、次回は何時記事が書けるかわかりません、今まで毎回そう言いながら上げて来ましたが、調子が悪すぎます。もし上げたとしてもまた過去記事からでしょうと思います。私の記事は長いので、今回は第一部と第二部に分けてありますので。一度に読めない方は分けて読んでみて下さいね。ですので宜しくお願い致します。。。
動画に登場する女優は、原節子、高峰秀子、若山セツ子、山本富士子、八千草薫、岡田茉莉子、南田洋子、若尾文子、司葉子、デヴィ夫人、岩下志麻、加賀まりこ、吉永小百合、ひし美ゆり子。
私のレコードの思い出は複雑だ。1970年代は前半がロックのレコードを集めていた。まあ、集めると言っても140枚ぐらいだったが。中学生の頃は、ビートルズ。シカゴ。ピンク・フロイド。レッド・ツェペリン。グランドファンク・レイルロード。ユーライア・ヒープ。ディープ・パープル。T・レックス。CCR。オールマンブラザーズ・バンド。サンタナ。ジェスロ・タル。などを聴いて居た。集めたと言っても140枚だったが。金が無かったから此れでも集めた方だった。当時レコードは大切に扱っていた。ロックのレコードで一番最初に買ったのが、ビートルズの「ホワイト・アルバム」だった。何故、このLPだったのかと言うと、ジョージ・ハリソンの「While My Guitar Gently Weeps」が好きだったからだ。ラジオで流れて居るのを聴いて、好きだった曲だ。私はエリック・クラプトンが好きだった。だから、彼がこの曲の間奏部分のリードギターを弾いて居ると知ってその曲が此のアルバムに入って居ると知って興味を持ったのだった。しかし、このLPは名前の通りジャケットが真っ白だ、このレコードを隣に住む同級生に聴かせたら。そいつは「見して」と言って手にジャケットを取り、何と洗って居ない手で汚い手形を付けてしまった。私は烈火のように怒った。大体がジャケットに真っ黒に手形が付くほど汚れた手をして居る奴なんか居ない。まあそんな事があった。この当時、ディープ・パープルの「ライブ・イン・ジャパン」というLPには日本武道館でのフォト写真がおまけに付いて来たのだが。近所のカメラ屋の親父は現像と写真を頼んだのに、これはダメだと嘘を言って写真に焼いてくれなかった。その写真屋は、私がマカロニ・ウエスタンのLPジャケットの中側に掲載されていた、夕陽のガンマンの写真を複写した物も、ダメだと言って写真にしなかった。今に成って見ると嫌がらせだったのだ。まあ、そんな事が有った。
While My Guitar Gently Weeps [日本語訳・英詞付き] ジョージ・ハリスン VIDEO
Deep Purple - Child in Time - Made in Japan (1972) VIDEO
そして高校に成ると私は黒人のブルースに心底イカれてしまった。私は其れ迄大切にして居た。ロックのレコード140枚を中古として当時買取も行って居た、ディスクユニオンに持って行った。1枚380円ぐらいにしか成らなかったが。全て売った、そして処分した金を元にして今度はブルースのLPを買い求めた。初めて購入したブルースのレコードはBBkingの「ジャングル」だった、このLPはギターを弾くに当たってブルースギターの手本にした。このLPは歌が入って居ない。全曲ギターのインストだったからだ。だから私がギターで初めて、ブルース・ギターのフレーズを勉強したのはBBkingだった。そしてギタースリムの「The things that i used to」をコピーしたのだった。メンフィス・ブルースから、テキサス・ブルースをコピーしたのだ。他にハウリン・ウルフのバックでいいギターソロを弾いていたヒューバート・サムリンなどをコピーした。この当時、私はブルース・ハープも吹き始めた。私が最初に参考にしたのは黒人のハープ・ソロでは無く。イギリスのブルース・ミュージシャン、ジョン・メイオールの物だった。彼のハープ・ソロを一生懸命コピーした。そして、それだけで学園祭で吹いて居た。
Guitar Slim "The Things That I Used to Do" VIDEO
Hubert Sumlin plays Howlin' Wolf VIDEO
B.B. King, Eric Clapton, Buddy Guy, Albert Collins & Jeff Beck Apollo Theater, NY 06 15 93 VIDEO
今思うと無謀だが、、、また私は日本人のブルースマン、ギターなら吾妻光良。ハープは妹尾隆一郎を手本とした。妹尾さんのライブにはテープ・レコーダーを持って行って録音をさせて貰った。私はハープは妹尾さんから可成り影響を受けて居る。ライブハウスで妹尾さんのライブを観た時に直に話をして、まず正しいハープの持ち方を教わった。それまでは、サニーボーイ・ウィリアムソンのレコードを聴いてもどうやって音をワウワウと言わせて居るのかさっぱり解らなかったが、持ち方でそう言う音が出せる事を知った。私は初めのうちはジョン・メイオールと妹尾隆一郎さんの2人のフレーズを真似て吹いた。ギターは吾妻さんのギターを必死にコピーした。私は一応ブルースの基本は出来て居た。しかし私が弾くとどうしてもBBkingのフレーズが出てしまう。初めのうちはそれで良かったがブルースを聞き込んで行くと、私はどうしてもジャズのフレーズを研究したく成り始めた。だから、グラント・グリーンなどのジャズ・ギターも聴いた。あとよく聴いたのはオスカー・ムーアだ。彼らのフレーズは血に成り肉に成って行った。私は一度、吾妻さんに怒られた事がある。それは、高校の頃。ウエスト・ロード・ブルースバンドが解散して、ボーカルの永井さんが吾妻さんと結成した「ダーティ・ブラッド」のコンサートにラジカセを持ち込んだのだ。紙袋に入れて持ち込んだのだが、それを吾妻さんが見破って、彼から「あの野郎!無断で俺たちの演奏録音しているぞ!!」とステージの上から、注意され、怒られたのだ。私は「すみません・・・」と謝った。すると何と永井さんが、「いいじゃないか」と言ってくれたのだ。
2012.11/17 吾妻光良 牧裕 @BT 1 VIDEO
Roller Coaster feat. 妹尾隆一郎 - A Tribute To Little Walter Jacobs (Harmonica Cover) VIDEO
私はその後でブルース・バーの「ストンプ」にいた永井さんと話した事がある。1970年代の終わり頃、本場アメリカで、日本人のブルースマンが脚光を浴びて居た。大木トオルだ。永井さんは大木トオルにジェラシーを燃やして居た。私が初めて永井さんと口を聞いたのは、カウンターからグラスを持って、私のテーブルまで来て、「お前さあ、大木トオルをなんて思う?」と聞いて来たのが初めだった。私は大木トオルは敬愛する原田芳雄さんに曲を提供して居たりして居たから。嫌いじゃないし、、なんと言おうかと思って居たら。「あいつは演歌歌えるのかなぁ、」と言って「日本人のブルースなんだからダミ声を口だけ真似して歌わないで演歌なんかも歌えなきゃ、日本人のブルースは完成しない」と言って居た。時は1980年代に成った。私は大学である宗教団体の馬鹿野郎にストーカーをされていた。私は反撃し謝らせてストーカー行為を辞めさしたが。その事が元に成って、精神病を発症してしまった。思春期の一番敏感な時だ。丸1年近くに上るストーカー行為は、相手にとっては命より大切な宗教布教なのだろうが、私は嫌なものは嫌なのだ。詳しい事はいずれ書く事もあると思うが、今はこの話は辞めて置く。そしてバンドを辞める羽目に成った。それから精神病院から薬を処方されて飲む様に成った。私はブルースを封印した。代わりにジャズを聴きだした。ハード・バップとスイング・ジャズを主に聞いた。チャリー・パーカー。ミルト・ジャクソン。レスター・ヤング。ズート・シムズ。ベニー・ゴルソン。ジャッキー・マクリーン。ソニー・ステッド。ソニー・クリス。その他色々、ありとあらゆるジャズプレイヤーを聴きまくった。レコードはブルースを全部処分した、480枚はあったと思う。それをまたディスク・ユニオンに売って今度はジャズのレコードとCDを買い求めた。ジャズのLPは300枚ほど買い込んだ。CDは100枚近く買い込んだ。
大木トオル ミスターイエローブルース ヒストリー VIDEO
Charlie Parker & Lester Young - Embraceable You VIDEO
Summertime - Sonny Criss VIDEO
Zoot Sims - You're My Everything (1977) VIDEO
Benny Golson plays Whisper Not VIDEO
Sonny Stitt - Stardust VIDEO
Jackie McLean Quintet / Cool Struttin' (1986) VIDEO
"True Blues" (Milt Jackson),Modern Jazz Quartet in London. VIDEO
当時、タワー・レコードが出来。渋谷では渋谷系といった音楽やら。テクノミュージックに代表されるイエローマジック・オーケストラなどが評判になり。音楽も細分化されてガレージ・ロックとかスカとかノイズとか出始めたが、私は今度はジャズ一直線だった、まだ、20代だった。そしてジャズを1995年ぐらいまで聞いて居た。しかしブルースが身についてしまった身から言わせて貰うと、ジャズは簡単なのだ。いや、語弊があるだろうけど。ジャズのアドリブはブルースマン達は可也研究している、吾妻さんもそうだったけど、ウエスト・コーストでブルースを演奏しているブルース・ギタリストはジャズも可也研究し、ブルースのフレージングの中に取り入れて居る。私は、ハイタイドハリスが好きだが、彼はジャズギターからも学んだと言って居る。どうしても私はブルースから逃れられないのだ。だから、2000年頃に成るとそれまで封印していたブルース・ハープを、また吹こうと思った。ハープは殆どが壊れて居たが。新しく買い求め、そして今度はジャズのレコードは売らずに、ブルースの中古レコードをディスク・ユニオンで買い求めた。そして今現在。ブルースのレコードは200枚ぐらいは所有している。ブルースのCDは100枚ぐらいだ。ロックのCDも100枚ぐらい買い求めたが、このblogを読んで居る人は知って居るかとも思うが。此処に来る引越しで、部屋にCDは入らない事が判明し78枚を処分した。落ち着いて見て、今度はこうやってカセットデッキやらアンティークの大型ラジカセ、そしてハイレゾが再生出来るCDラジカセも購入した事だし。今度はレトロだがカセットテープでロックを再度集めようと日々録音して居る。。。
私はレコードは殆んどをディスク・ユニオンで購入して来た。タワー・レコードが安かったのは余り知らなかったのだ。私は1980年代後半から友人付き合いが殆んど無く成ってしまった。だから、外部からの情報は途絶えてしまって居た。ディスク・ユニオンとの付き合いは16歳の頃から始まる。昔はその頃、新宿では帝都無線。新星堂などがレコード・マーケットを席巻して居た。処が其処に輸入盤を取り扱うレコード店ディスク・ユニオンが頭角を現し出した。当時、US盤やらイギリス盤、ドイツ版の輸入レコードはお洒落だった。US盤は日本盤より安かった。イギリス盤、ドイツ版は高かった。そして輸入盤で私が知ったのは、海賊盤レコードの存在だった。レコードが赤かったり青かったりしたので、赤盤、青盤と呼んで居たものだ。私が購入した海賊盤はエリック・クラプトン率いる「クリーム」やら「ピンク・フロイド」や「オールマン・ブラザーズバンド」の物だった。海賊盤とはコンサートの模様を無許可で録音した音源をレコードにしたもので、大抵はテープレコーダーの録音なので音は極めて悪いが。当時貴重なコンサートの音源が聞けるとあって需要は可也あった。1970年代の中頃。私が高校生の頃はブルースが音楽界を席巻していた。あの松田聖子のヒット曲なども、曲名は今出て来ないが「スイートメモリー?」かな。R&Bの黒人のメロディから触発されて作られて居た物が有った時代だ。
ディスク・ユニオンには当時海外で人気が有った、イギリスのブリティッシュ・ブルースバンドのレコードが並んでいた。アレクシス・コーナー、ジョン・メイオールは当たり前でグラハムボンド・オガニゼーション、フリートウッド・マック、チキン・シャック、サボイ・ブラウン、ザ・クライマックス・シカゴ・ブルースバンド、その他、有名、無名のブリティシュ・ブルースマン達のLP。そして本場のアメリカのブルースマン達のLPレコード。切りが無いので此処までにして置くが、正にブルースの黄金期だった。ディスク・ユニオンではそんな貴重なレコードが手に入った。そして時代はCDの時代に突入して行った。私よりもこの新しいデジタルの媒体に乗っかったのは弟だった。私はCDは弟が持って居た据え置きのCDデッキから聴かせて貰って居た。私が初めて購入したCDは「シティー・ハンター」のサントラ盤だった。私がCDを本格的に集めるのは1990年代になってからだった。そして1995年ぐらいに成って、要約、マイクロ・コンポを購入した。だからCDを集め始めたのは最近なのです。此処23、4年ぐらいだ。今はCDはブルース・ハープの物を100枚程とその他の物を100枚程所有して居る。何遍も言うがこのアパートに引っ越して来た時にアパートに入り切らなくて76枚ほどを処分してしまった。売ったのではなく此方に持って来てからの引っ越し業者への処分なので、金が反対に掛かった。ロック、クラシックのCDだった。手痛い損失だった。その他、マカロニ・ウエスタンのサントラCD16枚ほどと、ジャズのCD 80枚ほどを所有して居る。私は、CDを買って行くには金が掛かるので、カセットデッキやらビンテージ大型ラジカセ、そしてハイレゾで聴けるCDラジカセなどでTSUTAYAでCDをレンタルしてそれをカセットテープに録音してコレクションして居る。私の住んで居るアパートは狭い。だから今までの様に中古レコードは余り集められない。購入する枚数に限度がある。さりとてCDを買うのは金が掛かる。だからレンタルで借りてカセットに録音するのが一番手っ取り早い方法なのです。TSUTAYAには世話になって居ます。あとは、スマホでのストリーミングを大型ラジカセに飛ばして聴いて居ます。
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3日分の食料。。。。
なんか、、調子が悪いと老けて見えるなぁ......。
「第二部」.....。
----「レコード店の紹介」------
年下の知り合いが好きなCD屋はタワーレコードだ。そしてディスクユニオンを悪く言う。タワーレコードは新しいし古ぼけて居ないと言う。果たしてそうか?「タワーレコード」も「 HMV」も最早古く成った。まあ、タワーレコードは品揃えではこの店に敵うCDショップはないだろうし、最近に成ってアナログ館を作った。
新宿駅直結のフラッグス内にあるTOWER VINYL SHINJUKU(タワーヴァイナルシンジュク)は、売り場面積約170坪。クラシックを除く全ジャンルを扱い、在庫数は約7万枚(うち中古レコード約4万枚)を取り揃える。解放感溢れるガラス張りの店内には、大型のヴィンテージスピーカーを設置。「アナログ・サウンドを聴きながら買い物を楽しめる」として居る。
中古レコード・CDを扱って居る。ディスクユニオンに対抗するつもりなのか。。。
オープン当時(1981年)のタワーレコード
その後“渋谷の音楽”の象徴的なエリアのひとつになっていく「宇田川町のレコード街」の一角に、輸入版の専門店としてタワーレコード渋谷店はオープンした。
国内における大型輸入レコード店の先駆けとして日本進出、オープン当時は音楽業界に衝撃が走った。そして音楽ファンたちが最新の洋楽に触れるための環境も変化していく。タワーレコードの渋谷店、店長に聞いた。
――80年代の音楽業界はどう変わっていったんでしょうか。
タワーレコードなどの様な大型輸入レコード店が増えていくのと当時に、テレビでMTVが放映されるようになった。そこはリンクして居たと思います。新しい欧米のヒット曲のMVがテレビで流れて、それが流れた頃にはもう店頭でレコードが買えると言う。
僕が少年時代を過ごした60年代にはそう言う事はあり得なかった。アメリカでヒットした音楽が日本で聴けるように成るのは早くて3ヶ月後でした。
――MTVがスタートしたのは81年。80年代中盤には地上波でも番組が放送されて、マイケル・ジャクソンなどのアメリカのヒット曲がそのまま日本のお茶の間に届いていた時代でした。
僕は長崎が地元だったので、それまでもFEN(米軍極東放送網。1945年から在日米軍向けに放送されていたラジオ局)でリアルタイムでアメリカのヒットソングを聴いていましたが、そう言う事が出来るのは限られた人でした。下手したら日本ではレコードが手に入らない事もありました。
―― 60年代や70年代のアメリカのポップスは限られた人だけがアクセス出来るものだった訳ですね。しかし80年代、MTVと大型輸入レコード店が出来た事で、それが大衆化した。
そうですね。ただ、パイドパイパーハウスはそうじゃない処に行こうとしました。 それこそマイケルとかマドンナとか、そう言ったものはどの店にも大量に置いてある訳ですね。パイドでも初回はある程度並べるのですが、品切れになっても必死で補充することはしませんでした。
値段も大型店には適いませんし、それよりも僕らが好きな音楽、たとえばヴァン・ダイク・パークスとか、ドクター・ジョンとか、ローラ・ニーロとか、ジョニ・ミッチェルとか、ホーギー・カーマイケルとか、そういうものの在庫を切らさない様にして居ました。
――当時のパイドパイパーハウスはマニアックな場所だったと思いますか?
両面があったと思います。店に入って正面には売れ線のものも並べてある。ただ、一段奥に行くと別世界なんですね。そこに“趣味趣味音楽”というコーナーがあって、ほとんどラジオやテレビで流れないものを置いて居た。
でも、店でそれを掛けて居ると「これ、なんですか?」と聞いて買っていくお客さんが居るんです。高校生の様な若い子でもそう言う人が居ましたね。
渋谷系のルーツは何か
――80年代中盤は、アメリカのヒット曲がMTVで日本に届く一方、イギリスでさまざまなインディーレーベルが勃興する時代だったと思います。
僕らはむしろそっちの方をプッシュして居ましたね。80年代のイギリスからはニューウェーブやネオアコが出て来て、「やっと出て来たな」という感じでした。音楽もお洒落だし、アートワークやデザインもレトロな感じだけど新鮮さがある。小西くんや信藤(三雄)さん、橋本徹くんもそのあたりに注目して居ました。
――そういったインディーポップを愛好する音楽好きが、渋谷に集って居た様な実感はありましたか。
ありましたね。 ちょっと遠回りしてパイドパイパーハウスによってみんな渋谷に集まる見たいな感じでした。
あとは桑原茂一くんがやっていた原宿のピテカントロプスとかにもよく行っていた。世代は少し違うんですけれど、茂一くんや、藤原ヒロシくん、橋本徹くん、小西康陽くん、インク・スティックの松山勲さんたちはみんな同じ時期にパイドパイパーハウスに来てましたね。
――90年代にかけての時代の変化についてはどう見ていましたか?
僕はパイドパイパーハウスをやりつつ会社を作って、海外のアーティストのコンサートを主催して居たんです。で、よく覚えて居る事があるんですけれど、89年にやったダン・ヒックスのコンサートに、小西くんや、フリッパーズ・ギターの二人や、ロッテンハッツや、その後90年代に活躍する若いミュージシャンたちが、みんな客席に居たんです。
そうですね。パイドパイパーハウスが閉店する日の夜に田島(貴男)くんがギターを抱えて「夜をぶっとばせ」を歌ってくれた時のことも鮮明に覚えてますね。店内にあった木の切り株のスツールの上で、ギターをかき鳴らしていた。彼も含めて、ダン・ヒックスやフィービ・スノウを観に来ていた若者たちが活躍していくようになって、何時の間にか、その辺の人たちを指して「渋谷系」と呼ぶ動きが出て来る様になったんです。
――80年代のパイドパイパーハウスから90年代の渋谷系は地続きでつながって居る訳 ですね。
そうかも知れませんね。ピチカート・ファイヴが海外に進出してからは、海外のメディアからそう言う取材を受けた事もありました。
タワーレコード渋谷店は天国のような場所
―― 改めて80年代の渋谷と音楽を振り返って、どう言う時代だったと捉えて居ますか?
やっぱりレコード・ショップ、CDショップが沢山できた時代でしたね。渋谷に行けば事足りる様になった。
これは海外のアーティストに取ってもそうです。僕が招聘して来日したミュージシャンが「レコードを探したいからホテルは渋谷にしてくれ」と言う様な事もあった。
世界的にもあんなにレコード・ショップが何十軒も並んでいる街はなかったんです。
あと、その後90年代になると、バート・バカラックやA&Mサウンズのような、日本で言うソフト・ロック、海外で言うイージー・リスニングの人気が出てくるんですが、大胆に言えば、その大元になったのは80年代に出た一枚のレコードだったのかも知れない。
87年に日本だけで出たロジャー・ニコルス&スモール・サークル・オブ・フレンズのCD再発がなかったら、ひょっとしたら違って居たかも知れないと思う事もありますね。68年に出て、その後廃盤になって居たんですが、パイドパイパーハウスではカット盤を1000円前後で売っていて、それをミュージシャンや音楽関係者達がみんな買って居ました。アメリカ本国でもヨーロッパでも全く知られて居なかった一枚のレコードが再発されて、その嗜好や音楽性が、渋谷系のムーブメントを経て海外のマニアにも注目される様になった。
―― 過去の名盤を新しい感性で蘇らせる。そういう感性が渋谷系の基盤になったと言う事でしょうか。
ソフトロックだけじゃなく、モンドやラウンジ・ミュージックもありました。イタリアの映画音楽のようなマニアックな音源も若い人たちの間で聴かれた。そういう音楽を愛好する人たちが渋谷に点在するレコード屋に通って居た訳ですね。
――そう考えると、若い人が昔の音楽を掘り返すようなムーブメントこそ、80年代に生まれたカルチャーだったと言えるかも知れません。
そうですね。それが渋谷系の源流になったのかも知れない。大学生をはじめ、音楽家の卵たちが渋谷の中古盤店やタワー・レコードにリイシュー・コーナー目当てに通っていた時代でした。当時、来日したアメリカのミュージシャンを連れて、渋谷のタワーに行ったんですが、再発盤やイージー・リスニングのコーナーに若者が沢山居て驚いてました。アメリカだと昔を懐かしむ年寄りばかりなのにって。
――そういった趣向性は一時のブームではなく今も定着して居ると思いますか?
そうですね。今もそれは続いて居ます。去年からはタワーレコード渋谷店の中でパイドパイパーハウスをやって居るので、店に居ると判るんです。
若い女の子がアナログを熱心に見て買っていく。それに、毎日数十人の海外のお客さんがやって来るんです。そういう人たちが沢山のアナログレコードやカセット、日本でしか出ていない再発CDを買っていく。
洋楽だけでなく、はっぴいえんど、ピチカート・ファイヴ、山下達郎、坂本龍一のような日本の音楽も買っていく。タワーレコード渋谷店は天国のような場所なんでしょうね。いろんな国の言葉が飛び交っていますよ。
ーディスクユニオンー
新品CD店と中古店の二つの顔を持ち合わせるチャーン店。コアな音楽ファンを対象とした品揃えが豊富。CD・レコード・DVDのほか、オーディオ機器・書籍・ゲーム・バンドTシャツ・オリジナル・グッズなど多彩な商品を扱っている。新宿、御茶ノ水、渋谷の各地区には「ロック館」「ジャズ館」など細分化された小規模店舗が散在している。レコード関連商品を扱う店舗の名称は「ディスクユニオン」、新品オーディオ機器を扱う店舗は「オーディオユニオン」、中古オーディオ機器を取り扱う店舗は「セカンドハンズ」と屋号を変えている。
1982年にはDIWレーベルを設立して、音楽ソフトの制作および販売(海外への輸出も含む)に進出した。この他、海外直輸入盤や国内インディーズ作品の卸販売も手がけている。
アーティストが新譜をリリースする際には、タンブラーやキーホルダーなどや、タワーレコードや HMVとはひと味違った特典を付ける事が多い。
2015年の11月に関西エリア初の店舗としてオープンし、オールジャンルの層が厚い品揃えとともに関西の中古レコード市場に着実に新たな流れを築いてきたディスクユニオン大阪店。商品の回転率の圧倒的なまでの速さ、毎週末に様々なジャンルで開催される廃盤セール、クラシック館の新設、保護シートなどの充実したレコード・グッズ・コーナーなど…。オープンから間もなく3年を迎えようとする現在も、関西のあらゆる音楽ファンに新たな楽しみと驚きを次々と提供し続けている。かつては大阪のレコード店の聖地エリアのひとつとして栄えた梅田の堂山町に店舗を構え、関西の音盤フリークの周遊ルートを再び変えてしまった感すらある同店について、店長の川村健さんに話を聞いた。
――関西初出店ということでオープンされたディスクユニオン大阪店さんも今年の秋にはもう3周年を迎えますが、こちらに出店という話は以前からあったんですか?
そうですね。ずっとあったものの、なかなか物件が決まらずだったんですけど、2015年にようやくココに入ることが決まって、11月にオープンしました。 ――どうも心斎橋にオープンするらしいとか、その前から様々な噂が流れて居ました(笑)。
だいぶそれはあった様ですね(笑)。あとは、このアクト・スリーで定期的に行われているレコード・フェアに10年以上前に出店した事があったので、その頃から梅田で出店できる場所はないかと探して居た処はありました。 ――川村さんはこちらに来られる前は渋谷のジャズ/レアグルーヴ館で店長をされて居たそうですが、大阪に出店してみての印象などはいかがですが?
ありがたい事に、たいへんあたたかく迎えていただけたなと言うのはあります。私を含めて社員スタッフは全員東京から来たのですが、プライベートな話になりますけど、関西自体が非常に住みやすくて、食べ物もおいしいですし…。それはいいとして(オープン後に)とても印象的だったのが、当社の買い取りは、盤質やそれぞれの特記事項を担当者が入力して明細を1点ずつ付けてお出しするんですけど、皆さんその明細にとても興味深く目を通されて。そこの評価をいただいて居る処も大きいのかなと強く思います。
壁一面に面だしされたレコードを眺めているだけでも楽しい。取材日は平日の昼間にも関わらず、店内にはお客さん専用の買い物かごに多数のレコードを入れている人も多く見受けられた。 ――そうですね。関西の中古レコード店の買い取りでは総額でという査定が一般的なので、1点1点でキッチリと査定額が出てくる明細には僕も驚きました。
それで査定に少しお時間をいただいている面もあるんですけども、最初は“こんなに1点ずつ出してくれるのか”というお声がホントに多かったですし、実際に“あ、コレはこんなに行くのか”とか“コレはこういう理由でこうなのね”というのを眺めて楽しんで頂けて居るのかなと。 ――買い取りで入ってくるモノも、やはり大阪店ならではの特徴などがあるんでしょうか?
そうですねぇ…やはり日本のポップスのシングル盤などではご当地モノが多かったりとか。演歌じゃないですけども“北新地○○”とか(笑)、そう言ったタイトルのものをよく見ることはあります。あとは、2~3年前に取り扱いさせて頂いた、ビートルズの非常に貴重な帯が付いた7ケタの盤があったんですけど、それは一説によると当時に関西だけで少量回ったモノという話もあって。そう言った処にも関西独特の傾向が出てきたし、まだまだあるのかなと感じますね。 ――売れるモノの方には、関東圏とは違う独特の傾向などはあるんでしょうか?
ジャンル別にじっくりと掘り下げていくと多少の傾向はあるんですけど、おおむね関東と関西での違いと言うのは余りないですね。やっぱりレコードでは、ロックでしたらビートルズ、ジャズならブルーノートが最も強いですし、どちらもジャケットや内容の良さ、カタログ的な魅力といった要素がどうしても揃って居るので、これから集め始めると言う方もまだまだいらっしゃいますし、逆にリタイアされて手放す方も多いです。あと、東京と関西の違いと言う点では、女性のお客さまが多いのかなと言うのを感じますね。関東もこの2~3年で変わって居るのかも知れないですけど。 ――成る程。そのあたりは最近のアナログ・レコード・ブームの影響と関係が?
関係はあると思います。
レジの奥でもお会計のみならず、スタッフの方々が忙しそうにデータの確認など、様々な業務を。そんなレジ横には試聴機もあり。気になる盤はこちらで一声。 ――ちょうど、この大阪店をオープンされた3年前あたりからアナログ・レコードへの需要や関心がグッと高まってきた感がありますが、やはりその影響は実感されますか?
そうですね。すでに「レコード・ストア・デイ」などは始まって居ましたけど、それがピークを迎えたのがちょうどココをオープンした頃で、実際に集客面と言う処では想像以上でしたね。オープン時もその半年後の「レコード・ストア・デイ」も、店内は歩けなく成る程で入場待ちも100名以上という状態でしたし。 ――はい。関西でレコード店に開店待ちで並ぶという光景は、ほぼ見た事がなかったです(笑)。
あとは毎週土曜日に何かしらのジャンルで廃盤セールと言うのをやっているんですが、オープン当初はまだまだそれが認知されて居なくて、東京ほど開店前に整理券でお並び頂く様な事は少なかったんですけど。今は定着して、毎週のように開店前に並んで頂く様になりましたね。
ビニールカバーの種類も豊富。また、自社で作成しているフリーペーパーや書籍、そのほか、スリップマットなども多数。女子向けのレコードグッズ まで展開して居るという幅広さ。 ――ディスクユニオンは、商品の回転/循環の速さも驚異的ですね。一週間どころか2~3日だけ空けて再来店してみても、前には見かけなかった盤がドッと並んで居たり…。
一日に新規で1,000枚出すとかもザラな事なので。やはり(大阪店では)オールジャンルを扱って居るからと言うのもあるんですけど、平日でも1,000枚出る日は幾らでもありますね。そこの回転率の良さやスケール感は、なかなか他にはない処かなと思います。毎日来て頂いて居るお客さまもいらっしゃいますし、毎日来て頂いても充分に楽しんで頂けるかなと。
以上が、日本の2大レコード店です。HMVは経営不振らしいです。タワーレコードのCDの品揃えには数年前に感心した事がある。私はロビン・トロワーのCDを探したのだが輸入盤で見つかった。可也マイナーなロックのバンドのCDも取り扱って居る。
ディスクユニオンは、中古レコード、中古CDの在庫が豊富だ。店も東京でチェーン化し、ロック館、ジャズ館、クラシック館、プログレッシブ館、ソウル・ブルース館とジャパーニーズ・ロック館、昭和歌謡館と細分化されて居て、ジャンル別の店舗がある。中古店としては日本最大級であろう。今日のこのblogでも紹介したように近年、関西方面にも進出した。。。中古レコードやら中古CDで探されて居るなら、迷わず、ディスクユニオンに行けばいいと思います。ディスクユニオンはお茶の水。渋谷にもあります。
あと、新宿アルタにある、HMVレコード店もいいかも知れない。。。
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