寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

kiyasumeのギター物語、BBking物語、(体調不良の為、今回で暫し休息に入ります。出すから此の記事が最後になります。過去記事から再び掲載。読んで見てやって下さいね)

体調不良の為、今回の記事を持って更新は暫く休みます。一つ前に挙げたものですが。順番を入れ替えて一番最初に表示させますね。記事は短いですので、読み易いかと思います。。。宜しく........。kiyasumeのギターに付いての話ですので、読んで見て下さいね。あと、アントニオ猪木が引退式の時に詠んだ詩の説明とBBkingに付いての記事ですから宜しく......。

 

 

 

 

ーー「エレキ・ギター」ーー

私は、昔、ギタリストだった。そしてバンドを渡り歩いて居た、しかし私はギター弾き初めは。エレキ・ギターが買えなかった。中学2年の頃に質屋でガットギターの質流のオンボロ・ギターを購入し、なんとか見様見真似で、フォークソングなどを弾いて居た。しかし矢張りギター・ソロ。それもブルース・ギターが弾きたくて、当時流行のブリティシュ・ロックのブルース・ギタリストを、聴きながらレコードに合わせて弾いて居た。そうして居る内に、ソロらしきものが弾ける様に成った。私は「テン・イヤーズ・アフター」のギタリスト。アルビン・リーやら、「テイスト」のギタリスト。ロリー・ギャラガーのフレーズを参考にして、ガット・ギターで弾いて居た。 或る日、何時もの様にギターを爪弾いて居ると電話が鳴って母が出て見ると、なんと小学校の頃に家に下宿して居た、通称・「北海道のお兄ちゃん」の母親からだった。

 

Ten Years After - Good Morning Little School Girl - 8/4/1975 - Winterland (Official)

 

母は私にギターを弾くのを止めてくれと言って。長々と話をして居た。そして電話を切ってこう言い出した。「北海道のお兄ちゃんは、地元で彼女と車に乗って居て事故に遭い頭を強く打って、病院に入院して居る。もう、病状は軽くなったが、記憶障害で、家で下宿して居た事しか思い出せなくなって仕舞った。電話にお兄ちやんを出すから、お前が色々と呼び掛けてくれないか。」私は吃驚して、電話が再び掛かって来たから電話に出て呼び掛けた。「お兄ちゃん!俺だよ!!解る?」彼は嬉しそうに「解るさぁ」と言った。そして色々と話をしたが、彼は「そっちで暮らして居た事は全部解るんだわぁ〜」「でも、その他は、何も解ら無いんだ〜、」と言った。そして電話が母親に代わり、「もしもし、そう言う訳で、努さんは、何も解らないのですよ。」「だから、近々、東京の其方の家に、行かせますので。宜しくね。」と言って電話は切れた。

母は「来週の土曜日に、お兄ちゃんが東京に来るから、話をして挙げなさい。」と言った。私は、黙って母の言う事を聞いて居た。私は、またギターを爪弾き始めた。すると、母は怒って言った。「お前は何時の間にそんなオンボロ・ギターを買って来たんだい。そしてロックなんて嫌なものを弾いて居て、、勉強しなさい!!」そう言うと、台所に夕食の支度をしに行った。其れから、1週間が立ち、北海道から「お兄ちゃん」がやって来た。そして私に、「〇ちゃんは、音楽好きだから、輸入盤のレコード専門店どこか知らない?」と聞いた。私はお兄ちゃんを連れて、新宿のDisc・Unionに連れて行った。するとジャズ・レコードを漁り出し、「マイルス・デイビス」と「リー・モーガン」「日野皓正」のレコードを買って居た。そして私に、最近、流行のロックのレコードで良いのは無いか?」と聞くので「ジェフ・ベック・グループ」の確か、セカンド・アルバムだったと思うが「ブルース・デラックス」と言う曲が聴けるレコードを薦めたら、買って居た。

 

Blues Deluxe - Jeff Beck Group (((ORIGINAL SONG 1968)))

 

私は「お兄ちゃん、何時から音楽好きになったの?」と聞くと、彼は言った。「俺は歌謡曲しか聴かないよ...。これは全部、従兄弟にやるので買ったのさぁ。」そう聞いて、私は思い当たる節があった。お兄ちゃんが下宿して居た頃に、何時の間にか楽器屋に行って「セルマーのトランペット」を買って来て。北海道に住んで居る従兄弟に送って居たからだ。お兄ちゃんは言った。「音楽なんて如何仕様も無い!あいつは今、ジャズ・バンドでトランペット吹いてるんだ!!如何仕様も無いね!!」私たちは家に帰って来て色々と昔話をした。そして彼が私の廊下の角にある私のスポットに来て、突然、言った。「○ちゃんもギターなんか弾いて居るのか!」私は「そうだよ」と言ったら、訝しがって居る。私はギターを取って。アドリブを弾いて見た。すると彼の表情が強張り、こう言った。「ほらほら、もう弾き方が普通ではない!!そんなロックだなんて辞めなよ!!」すると、母が追い討ちを掛ける様に言った。「○!!お兄ちゃんの言う通りだよ!!ギターなんか辞めなさい。」私は不貞腐れて仕舞った。

その夜、家族皆んなとお兄ちゃんとで、テレビを観て話した。お兄ちゃんは訳ありで、女の子と車に乗って居て事故を起こしたらしかった...。テレビでは丁度「傷だらけの天使」の最終回が流れて居た。ラスト・シーンで、井上堯之バンドが流したバラードが切なかった。最後、水谷豊が風邪で部屋で死んで仕舞い。その遺体をリヤカーで埋め立て地のゴミ捨て場に捨てに行くシーンには涙が出た。お兄ちゃんは神妙に見て居た...。

 

”傷だらけの天使”(最終回)『一人』デイヴ平尾 夢の島シーン

 

三角龍雪 VS 木暮修傷

 

そして彼は次の日、北海道に帰って行った。結局記憶は家で過ごした4年間の事と、彼女の事だけしか憶えてなかったが・・・・・。

私は、それから、そのガット・ギターで、ギターソロが弾けるように練習をして居た。時は流れ、高校1年に成って居た。私が1階を改築して出来た、6畳半の鰻の寝床の様な部屋を貰って、その部屋が初めての自分の部屋と成った。ある日、姉さんがボーイフレンドを連れて来た。姉さんは矢張り、音楽が好きで。特に井上陽水などの邦楽が好きだった。洋楽はよく解らなかった。姉さんが連れて来たボーイ・フレンドは松永さんと言った。矢張りロック・バンドを組んで居て。リードギターを弾いて居た。彼は早稲田の学生だった。姉さんは彼のバンドのライブを録音したテープを私に聴かせて言った。「今、エリック・クラプトンだとか言う人が上手いとか言われて居るけど、松永くんの方が上手いわよ。あんたもこのテープをしっかり聴きなさい!」私はそのテープを聴いて思った。彼の作った曲を演奏するバンドはまるでオールマン・ブラザース・バンドの物真似だったし。松永さんのギターのアドリブはロリー・ギャラガーの完全コピー だった。確かに彼の弾くギターはロリー・ギャラガー のピッキング・ハーモニックスをそっくりに真似て、上手い事は上手かったが....。私はなんだか、此れだけそっくりに弾けてもオリジナリティーがないじゃ無いかと思って居た。

 

The Allman Brothers Band - One Way Out - At Fillmore East 1971 (HQ)

 

Taste - What’s Going On - Live At The Isle Of Wight Festival / 1970

 

Taste : ニュース写真

 

今日の昼、すき家で、鳥煮込みカレー定食を食べた。サラダを大盛りにしたために760円だった。

 

 

 

私はエレキギターが欲しかった。だが親は買ってくれなかった。バイトをするしかなかった。高校1年に成って、私は中学の同級生の家によく遊びに行って居た。何故ならそいつは、金持ちの息子で、お小遣いは月に4万も貰えて居て。エレキギターを買って持って居たからだ。しかし、彼は何も弾け無かった。私が遊びに行ってそいつの代わりにエレキギターを弾いて居た。そうこうして居ると。その姉さんのボーイ・フレンドの松永さんがギター・ケースを持って遊びに来て、そして私の部屋に入って来て。そのギターを買わないかと言うのだ。見てみるとグレコの赤いレスポールだった。しかし、ピック・アップが、一つ壊れて居て音が出ない。私は言った。「これって壊れて居るじゃ無いですか?」すると彼はこう言った。「このギターはそのうち値打ちが出るぞ!!」私は笑って言った。「このギターのどこがですか?」彼は続けて言った。「だって君、エレキ・ギター欲しんだろ?」そしてこうも言った。「君が買ってくれればなぁ〜〜。まあ、姉さんとの付き合いの事もあるし、俺は結構モテるんだよ...。姉さんと別れても良いんだよ?」

私は、こんな野郎は如何仕様も無いなと思ったが、聞いて見た。「幾ら何ですか?」すると待って居たとばかりに言った。「1万8千円!!」私は「高い!1万円ぐらいなら買いますよ」すると彼は「1万4千円までは下げるけど、それ以上は値引きしない!!」と言う。私は姉の事もあるので、4万円ぐらいのエレキが欲しくて、貯めて居た途中の貶しのバイト代1万4千円で、その赤いレスポールを彼から譲り受けた。そして一つのピックアップだけのレスポールで、初めて組んだ、ロックバンドで「クリーム」の曲やら「レッド・ツッペリン」の曲を演奏して居た。それから暫くして、自宅の自分の部屋で、中村とうようの「ザ・ブルース」と言う。ラジオ番組が始まるとウキウキして、ラジオで流れる黒人のブルースをカセットテープに録音しようとして居たら、突然、ドアが開いて母と姉さんが入って来た。そして言った。「ラジカセを渡しな!!」姉さんが怒鳴り気味に言った。私は言った。「此れから、大切な番組がやるから、後にしてくれる。」すると姉さんは怒鳴って言った。「今日は松永くんのバンドのライブを録音したものを借りて来たんだ!!お前は勉強でもしろ!!」私は言った。「そのテープが聴きたいのならば、番組は30分で終わるから、それからにしてよ。」すると母が言った。「お前は勉強をしなさい!!」そして、ラジカセは、姉さんが私からもぎり取って出て行った。私は落胆した、その日は、ブルース・ギタリスト。アール・フッカーの幻の音源を放送する事に成って居たからだ。私は「何故、何時も姉はこうなんだ!」と、壁に本を叩きつけた...。

 

 

Earl Hooker - Driftsin Blues

Earl Hooker ~ ''The Moon Is Rising'' 1969

Rory Gallagher - Tattoo'd Lady (Live At Montreux)

 

 

忘れもしない。ある年の年末の雪が降った日にスタジオで演奏したが、レスポールの音が出にくくなり、私はついに頭に来た。こんな壊れたギターを無理やり買わされて、怒りが頂点になった私は、スタジオのコンクリートの床にその赤いレスポールを叩き付けて居た。何遍も叩きつけた。ネックは折れて弦は切れ、ボディーは割れて行った。するとバンドのメンバーが言った、「今日は如何したんだ。ピート・タウンゼント見たいに、ギター壊してさぁ」私は、「こんなギター如何でも良いんだよ!」と言うとスタジオにあるレンタルのテレキャスターを借りて、その後も借りて演奏をする事とした。その後、姉さんは松永さんのライブでの演奏が詰まった大切なテープを3本借りて来て、私に「あんたはこう言う音楽でも聴きなさいよねぇ!!」と言って私に渡した。私はそのテープをある日、ラジカセで聴いてから、全部消去して姉さんに返した。

姉さんは流石に、私がテープを全て消した事を、気にして私にこう言った。「あのテープは大切なものだったのよ。何で消したりしたの?何だか訳があったのでしょう?」私は一言言った。「あの松永って男が俺に何を売り付けたか、本人に聞いて見な」それから、姉さんはその男と付き合って居たが。松永さんの友達からこう言われた。「君さあ、松永はさぁ、彼奴の家は名家だから、君には悪いけど、結婚は出来ないよ。彼奴には決まられた許嫁が居るんだよ。小学校の時から縁結びされて居る女の子がね・・・。」姉さんはそう言われて、付き合うのを辞めた。そして、友人から紹介された医大生と付き合う様に成った。その人が今の姉さんの旦那で、若い頃は桑田佳祐らとバンドを組んで居た事もあったと言って居た。ドラムを叩いて居たのだ。

 

 

Who - Summertime Blues (live,1969) 0815007

 

 

私はエレキギターはスタジオのレンタルの借り物で練習をして居たが。或る日、私を坊やと言って可愛がってくれて居た。おばちゃんが居たのだが、その人が家に来て、突然こう言った「坊や、エレキギター欲しんだろう?」私は少し吃驚したが。「うん、まあね...。」と言ったら、こう言う。「あたしが買うてやるよ、坊や。」私は吃驚して言った。「いいの....。」すると言った。「どんなものが欲しいんだい」私は一応言って見た。「おばちゃんは知らないと思うけど、「ESー335」と言うタイプのもので、BBKingモデルと言うのだけども、、」そう言うと彼女は微笑んで「まかしとき!そのエレキギターを買うてやる!!」そして言った。「ただ、1週間我慢せえよ。」そして、私にウインクすると帰って行った。

 

 

ヘタな演奏で毎回同じですが飽きたかも知れませんが。聴いてやって下さい。ブルースバンドでのヘタクソなギターソロです。私が18歳当時の今から45年前の音源です。。。

 

 

 

 

 

 

1週間後、彼女は、大きなギターケースを持って家にやって来た。そして、驚いて見て居る母を知り目に「あたしゃ、見てられなかったんだよ。あんなに坊やはギター好きなのにさ、あんたは何時まで分かってやれないだい」そう言うと私にギターを渡して言った。「色は聞いて居なかったけどな、ロックの連中とかな、ブルースの連中とかが使って居るものの色を調べてな、店員が決めてくれた」私はギターケースを開けた。赤いBBKingモデルの「ESー335」だった。グレコのものだった。私はお礼を言うと要約、手に入ったその「ESー335」を手に取って眺めて居た。そして、それから8年間、そのギターをメインで弾いて居た。今、そのギターは手元に無い。統合失調症になって、バンドを辞めた時に、これは何遍んも言うが、私は感情が昂ってしまい。このギターだけは思い出があるので、あえてこのギターを道路のコンクリートの道に叩きつけてめちゃくちゃに壊したのだ。そうする事で、ギタリストの道に別れを告げたのだ。後の楽器も全部楽器屋に引き取って貰った。私のギタリストとしての道はこれで終わらせた、そう終わったのだった。

母は何時も私のやる事に反対した。絵を描いて居るとそんなものは辞めろと言って辞めさせ。そして楽器もだった。私に何をやらせかったのか?私は幼稚園児の頃に小学校から従兄弟が皆んな私立に行くので。私も私立に行かせてくれとねだった。しかし、行かせてはくれなかった。家が貧しかった事もあろうが、母には私は何時も「お前は、お父さんの会社に入るのだから」と言われて居た。食料品の卸問屋がそんなにも良い職業か!!親父の会社だと言うけども、従兄弟が社長の座を狙って居て、私は統合失調症になり障害を持つ様になってから、入社して見れば、禄な会社では無かったし、将来性も無い会社だった。私は26年間働いて従兄弟の嫌がらせに合い。歳を取り、横暴に成った父親に出て行けと言われた。だから会社を辞めたのだ。その父も、もう亡くなってこの世には居ない。母は認知症で施設で暮らして居て、近況も判らず。はっきり言って、もう、86歳ぐらいには成る。何時死んだと言われてもおかしくは無い歳だ。私は、今や独り身で、音楽は死ぬほど好きだから、楽器はブルースハープを演奏して居る。若い頃から演奏して居た。ただし途中20数年間ほどのブランクがあるが....。もう誰にも文句は言わせない。俺の人生は俺が決める。後生きても10数年の歳に成った。私に家族は居ない。身内はもう誰も居ない。姉さんは居るが、縁は切れて居る。残りの10数年間、音楽と映画とアニメ。そして哲学に埋もれて生きられたらそれで良い。良い加減に自分の思い通りに生きたいのです。

 

なんての?ホンマにエエ音や / ビンテージ67年製ギブソンES-335 / TFGD#29

 

 

 

〜〜コメントを頂けると励みに成ります....。

      どんな事でも構いません。宜しくお願い致します。〜〜

 

 

 

ーーー幸福な人間とは、自分の人生の終わりを

       始めに繋ぐ事の出来る人の事である。ーーー

                       「ゲーテ」

 

 

熱狂! グループサウンズの時代

 

 

懐かしのグループサウンズとアニメソングです。いい曲ですので聴いた事が無い人も聴いて見て下さいね♪

 

地獄少女 宵伽 よいのとぎ ED いろがみ 能登麻美子Ver

 

能登麻美子 - いちぬけ

 

ザ・タイガース 花の首飾り

 

ザ・タイガース モナリザの微笑み

 

エメラルドの伝説

 

 

 

「人間、捻くれる奴は、何を遣ってもどんな環境に居ても捻くれる。人間は追い詰められた時に真価を発揮する物だ......。」アントニオ猪木の言葉です。私の父親の会社に、小学校もまともに行って居ない人間が居た。私は今から40年前、もう、抗精神薬を飲んで居た。そして後遺症があるので、利尿剤も飲まされて居た。だからオシッコが近かったのだ。でも、何故か出て来るまで時間が掛かった。そして残尿感が凄かった。だから働いて居て、トイレが一番の問題だった。私は会社の社員で、小学校中退の岡本と言う男の車に乗せられた。そしてその男に、いい様に嫌がらせをされたのだ。何故ならゆきかず寄りの人間だったからだ。私がトイレに行きたいと言うと、大抵その男もトイレに来た。そして私が男子用トイレでズボンのジーパーを開けて立つと、岡本は私のすぐ後ろにピタリと寄って立った。私は唯でさえ、オシッコが出にくい。だから、私は暫く、りきんで居る。すると後ろから岡本が言うのだ。「何してんの。さっさとションベンすれば良いだろ」私は言った。「後ろに立たないでよ」するとこう言う「ケッ!へぇ〜。そんなに高級な生まれをして居るの」私は尿が出て来ない。だから立って居ると岡本が言う。「〇〇ちゃん、ションベンなんか出ないんだろ!!」私は仕方が無いんで、オシッコをするのを止めるのだ。そして車に乗り込む。それでトイレを我慢する、そう言う事が1回や2回では無い。私は強力な精神安定剤を飲まされて居る。だから頭が回らないのだ。だから岡本と車に乗ると。膀胱がパンパンに腫れて激痛が走る様になる。大体時間にして6時間はトイレで出て来ないのです。そして私は付いに我慢が出来なくなって、隠れて立ちションをやる事に成って行った。ある時など我慢に我慢を重ねて電柱の影で立ちションをしたら、鈍い痛みと共に血が混ざって出て来た事があった。

 

岡本は会社に帰ってから、ゆきかずに私は嘘つきだと話す。ションベンがしたいと言っても、ションべんなんか出無いと言うのだ。するとゆきかずがやって来て。私に「嘘をつくな!!」と言う。私の敵は彼らだけでは無い。肝心のバカ父親も「岡本から聞いた。お前はションベンなど出無いんだろ!!」と言うのだ。ある時に私は親父の車に家族と一緒に乗った。しかし矢張りトイレが近い利尿剤のせいだ。だから親父に言ったのだ。「トイレをどこか探してくれ」と。すると、親父は言う。「立ちションをしろ!!」....。私は怒って言った、「最近は立ちションでも見つかると、軽犯罪法で罰金になるんだよ!!」そしてファースト・フード店かガソリン・スタンドで用を足す事に成る。しかし出ないのだ。どんなにりきんでも出ない。すると親父が言う「おりゃ、岡本から聞いて居るんだ!!ションベンなどは出はしねえんだ!!」当時私は東京医大の精神科に罹って居た。だから新宿方面に行った時に診察日では無いが、病院に駆け込んだ。親父は車で待って居た。そして、私が、先生に尿が出にくいから、出る様に薬をくれ、と言うと、また利尿剤が処方される。私は殆困って仕舞った。そして車に戻ると親父がこう言った「いやぁ〜おめえが精神科なぞに罹って居るから、此処で待って居たら親戚の達吉が車を側に停めて病院に入って行った。おりゃぁ、顔を手で覆ったぞ〜〜。」

 

ある時に、矢張り、岡本の車に乗せられて、得意先回りをした時だ。私は何時もの通り嫌がらせをして来るので、また電柱の影でオシッコをして居た。すると、どこかのおばさんが自転車で通りかかった、そして「フン!!良くもまぁ〜。どう言う奴だ!!」と私を睨みつけて側の自宅に入って行った。私は嫌なババアだなと思ったが、やっとの事でオシッコをして、配達に来た家に置きにバイオレットを2体担いだ。ちなみに一体は25kgあった。 肩には50kg がのし掛かる。その粉糖を留守にして居る客の家のドアの前に置いたら。その隣のさっきのババアが出て来てこう言った。「あんた!!何して居るの!!そんな粉糖を置いて、警察に言うわよ!!」私は製菓材料の会社の社員だと言った、すると、またこう言う。「何が社員なものか、髪の毛を浮浪児見たいに長く伸ばして!!良い加減な事を言うんじゃ無いよ!!」そうしたら岡本がやって来て言う。「おい、ちゃんと仕事をしろ。やあ、かあちゃん、こいつは、おらさの連れです」「あんたは連れに立ちションさせてるの!!」私は頭に来たから、其の儘そこを離れ、「どこに行くんだ・・・」と言う岡本の車には乗らずに黙ってその場を後にした。そして通りに出てから電車に乗り込み。新宿に出た。そしてジャズ喫茶「サムライ」に行って夜遅くまでバーボンを飲んだ。午前2時に成り店は閉まって仕舞うので公園に行った...。そして1夜を過ごした。家には帰ら無かった。

 

そして翌朝に成って家に帰ってから、大切にして居た愛用のエレキギターESー335を手に取った。そして暫く見て居た。思い出が蘇って来る....。思えば8年間良くこのギターで演奏した物だ。私はギターにキスをして「今まで有難う」と言って、ギターと電池で鳴る小型のMarshallのアンプ。MPー2Rを持ちだし、玄関先に出て、ブルースを弾いた。涙が出て来た。会社の事務員の女の子がそれに気づいて側まで来て聴いて居た....。私はそれから自宅の側の道路に行った。そして目を瞑って大上段に降り被りギターを振り上げた。それから道路に何遍も叩きつけた。ギターのネックがぼっきり折れたが、同時に私の手もザックリ切れて血が滴り落ちた。私は血を滴らせながら、憮然と立って居た。それを観て居た岡本とゆきかずと親父は吃驚して私を観て居た。私は家に入ると自分で包帯とガーゼと軟膏を取り出して血を拭い。軟膏を塗って包帯を腕に巻いた、すると親父が家に入って来て。私の名前を呼んで狼狽て居た。母は黙って見て居た。壊れたギターは翌日の朝、ゴミ捨て場に捨てられた。そうしたら、馬鹿な岡本と会社の社員たちが言った。「おいエレキギターが捨ててあるぞ。拾って帰ろうかな!」「いや、あれ壊れて居るぞ...。」

それから暫くの間、私はもう車には乗らなかった。そして外回りは辞めて倉庫番と成った。誰も文句は言わなかった....。ギターに付いては日頃思っては居た。もうバンド活動は出来ないのだ。ギターがあったら、未練が残る。私は何もかも諦めたかったのだ。暫く経って、私は会社を辞めた。その後、岡本は得体の知れない奇病に罹った。筋萎縮性側索硬化症(ALS)だと言う、筋肉が固まって小さく成り痙攣を起こし。もの凄い激痛に襲われるのだ。岡本は言った「おらさは何か悪い事をしたんだろうか・・・。」ゆきかずの胃には穴が空いて悶え苦しんで治療した。親父は肺癌に罹りそれから骨ガンに罹って仕舞った。そして死んで行った。岡本は唸りながら死んで行った。死ぬ間際に野獣の咆哮見たく声を挙げたと言う。私は捻くれはしなかったが、周りは皆んなおかしく成って行ったのです。私は思って居る。どんな試練がこの先に待ち受けて居るかは分からない。今はたった一人暮らしだ。この先。此の儘、好きなブルースとジャズとロックをブルースハープで演奏して。映画とアニメを見て音楽を聴いて本が読めればそれで良い。私にはもう身内と呼べる者は誰も居ないのだから、それだけが生きて居る証なのです。あと生きても10年ぐらいだろう。此の儘、此の儘で良いのだ。人は傷が深い程他人に優しくなれると言う。私はこれからも人の役に立つ人間に成りたいと思う。

 

kiyasumeの過去の写真です。太って居ます。

今現在の写真です。相変わらず太って居ますが。髪切りました・・・・。

 

 

 

皆さん「‘キング・オブ・ブルース’ B.B.キング」と言うシンガーでありギタリストを此処で知って下さい。。。。

 

 

 
 

シンプルに‘B,B,’と略され世界中の何百万人ものブルース・ファン達に知られて居る男は、2015年5月14日、89歳でこの世を去った。糖尿病の合併症で病気で入院した事を含む、一連の健康状態の悪化が続いた末での他界であった。それにも関わらず、2013年の時点でさえも彼は‘ルシール’と自身が名づけたギターを抱え、大好きだったコンサートを年間100本もこなして居た。数多くのライヴで演奏し、アルバムをリリースし続ける事で、彼は自分が愛する音楽を世間に紹介し、ブルースが人々に悲しみ同様に、幸せな気持ちも与えてくれる事を気づかせてくれたのだ。

本名ライリー・B.キングは、アルフレッド・キングとノーラ・エラ・キングの息子として1925年にミシシッピ・デルタ地帯のディープな中心地、インディアノーラで誕生した(*注:生まれはイタ・ベーネのコットン農園)。ファースト・ネームの「ライリー」は、両親が住み込みで働いて居た農園所有者のアイルランド人のラスト・ネームに由来する。「農園のオーナーはジム・オライリーと言う名前だった。「うちの親父とミスター・オライリーは凄くいい友人同士で、彼にちなんで私の名前をつけたが、頭の“O”を外したらしい。自分の名前の由来を理解できる年齢になったある日、親父に「ミスター・オライリーにちなんで名付けたのに何故’O’を外したの?」と聞いたら、「お前はどう見てもアイルランド人には見えないだろ!」って言われたよ」。

B.B.キング曰く「いかなる時でも、農園で生まれた者には選択肢が存在しなかった。農園第一で、それは常に最優先」であった。だが、間もなくしてライリー・B.キングの名前はビール・ストリート・ブルース・ボーイとして認知される事で変わって行った。この小作人の息子は1946年(*注:1947年の説もあり)にメンフィスに移り住み、従兄弟のブッカ・ホワイトと暮らして居たが、程なくしてトラクター運転手として働く為にインディアノーラへ舞い戻った。

 

「私が得ていた基本的なトラクター運転手の基本給の週給22.5ドルは、あの辺りで働いていた他の人達と比べて高額だったよ」- B.B.キング

b-b-king-the-hooks-brothers-1949

 

サニー・ボーイ・ウィリアムソンのラジオ番組に刺激を受けた若き日のライリーは、その後1948年にメンフィスへ戻る。「サニー・ボーイのオーディションを受ける事になり、アイヴォリー・ジョー・ハンターの‘Blues of Sunrise’を歌ったんだ。当時サニー・ボーイはウェスト・メンフィスにあったシックスティーンス・ストリート・グリルという小さな店で演奏して居て、サニーは雇い主のミス・アニーという女性にこう言ったんだ「今夜、奴を俺の代わりとして店へ送るから」って。それから私の仕事は賭け事をしない若者達の為に演奏する事になったんだ。シックスティーンス・ストリート・グリルの店内後方にはギャンブル出来る場所があって、もし男性客が賭け事をしないガールフレンドや奥さんを連れて来た場合、その女性達が踊れる様な音楽を演奏し、楽しんでもらうのが私の仕事だった。お客さんが私の演奏を楽しんでくれた様子だったので、ミス・アニーから「あなたもサニー・ボーイ見たいにラジオ局の仕事を持ったら、部屋と食事込みで週6日勤務、一晩12.5ドル支払うわよ」と言われたんだ。その時は信じられなかったね」。

彼は地元のラジオ局WDIAで働き始めた。「ラジオのディスク・ジョッキー時代、私はビール・ストリートから来た男だからか‘ブルース・ボーイ’と呼ばれて居た。後に、皆が私宛に‘ブルース・ボーイ’と書く際に’B.B.’と略す様になったんだ」。そして、メンフィスでの人気のお陰で、1949年にB.B.はブレット・レコードでレコーディングのチャンスを得る事になった。最初に出したシングル盤の売上はさほどでは無かったものの、1950年9月にサム・フィリップスは彼のレーベル、メンフィス・レコーディング・サーヴィスのスタジオへB.B.を送った。そして、タレント発掘の為にメンフィスを訪問中だったバヒリ兄弟がB.B.を見つけて、彼らのRPMレーベルと契約する事になり、B.B.はサム・フィリップスと録音したシングル盤をリリースする事になった。これらのレコードはヒットしなかった為、ビハール兄弟の一番下の弟であるジョー・ビハールは、1951年1月8日にメンフィスへ行き、YMCAの部屋を借りてB.B.キングのレコーディングを行った。ジョーはその次のメンフィス訪問中にB.B.キングによるローウェル・フルソン「Three O’clock Blues」のカヴァーを録音。同曲は1951年12月29日に全米チャート入りし、1952年初頭には最終的に5週間1位を獲得した。これはオーヴァーナイト・センセーション(一晩で一躍有名になる様な突然の成功)ではなかったが、現代ブルース史に於ける最も成功した、長いキャリアの始まりであった。

「我々は、白人向けには演奏しない。将来どうなるかは自分でもわからないし、「白人のために演奏はしない」って言ってる訳じゃないよ。レコードは不思議なもんでね。有色人種層向けにマーケティングしても、突然白人達が気に入って呉れると、自分のコンサートにドーン!と白人客が集まる様になるんだ」- 1950年代のB.B.キング

成功を収め始めた当初、B.B.キングは自身が大スターだったメンフィスに暮らして居たが、彼が思って居た程、常に大スターだった訳では無い。「我々がメンフィスのオーディトリアムへ行った時、エルヴィス(・プレスリー)がボビー・ブランド、リトル・ミルトン、リトル・ジュニア・パーカー、ハウリン・ウルフ、そして私の演奏を観て居た。全員ステージ経験者だった。ステージを沸かすボビー・ブランドは観客を躍らせる事が出来、リトル・ミルトンと私は何時もと同じく自分達がやるべき事をやって居たけど、ボビー・ブランド見たいに観客をすぐに躍らせる事が出来なかった。我々はそのままステージ上に残って居たら、次のハウリン・ウルフの登場で皆がクレイジーなほど大騒ぎし始めたんだ。リトル・ミルトンは「‘こりゃ、凄い事になってるな’」と言った。そこで、ジュニア・パーカーが「‘さぁ、行こうぜ’」と声を掛けると、ウルフは“Spoonful”を演奏し始めた。我々も着いて行くと、今度はウルフが跪き、床を這い回ったんだ。とにかく観客がもう大騒ぎで、その時やっと一体何が起きて居たのか、解ったよ。奴のズボンの尻の部分がヤブれてたんだ!ケツ丸見えでね!」

ある夜、B.B.キングがアーカンソー州トゥイストのクラブに出演した際に客同士の喧嘩が原因でストーブが倒れ、木造の建物が火事になった。バンドとオーディエンスが慌てて外に避難した後、キングは30ドルもする自分のギターを会場に置き忘れた事に気づいた。彼は燃え上がるクラブ内へと急いで戻り、命がけで何とか自分のギターを取り戻す事が出来た。その後、喧嘩の原因は、”ルシール”と言う女性を巡った争いだった事が判明し、B.B.キングは自分のギターにその名前を付けた。その結果、ギブソン社のカスタムメイドのギターの約20本には全て‘ルシール’と言う名が付いて居る。

RPM時代のB.B.キングはヒット曲を次々と量産し、その後1958年ケントに移籍するまでの間にR&Bチャート1位を3度も獲得した。そして、60年代の大半はケントに在籍、その後R&B チャート首位には二度と輝かなかったものの、沢山のヒット曲を放った。彼の甘美でゴスペル色を帯びた歌声は卓越したシングル・ストリング・ピッキングと相まって、たまらなく魅力的な組み合わせだった。それは、キングをR&Bチャートにおける史上最高の成功したアーティストの1人へと押し上げた。

「我々は自分達の兄弟をしっかり見守る者である事を、皆に伝えようと努めて居る。つまり、肌の色が赤、白、黒、茶色、黄色であろうと、富める者でも貧しい者でも、誰にでもブルースはあるから」- B.B.キング

1960年後半までに、B.B.キングは彼の仲間であるブルース・ギタリスト達と同様に若い白人のロック・アーティスト勢から見出され、それによって彼のキャリアは大きく後押しされた。1970年に「The Thrill is Gone」はR&Bチャート3位となり、更にジャンルを超えて全米シングル・チャートでは15位まで上昇し、B.B.最大のヒット曲となった。1969年にはB.B.はその後何度も訪問する事になるヨーロッパへ初めて渡った。欧州のオーディエンスはレジェンドであるB.B.キングがエリック・クラプトンやピーター・グリーン達へ音楽的影響を与えた事を熟知して居た為、彼を受け入れる態勢が整って居たのだ。B.B.キングによる1964年録音のアルバム『Live at the Regal』は、大西洋の両側に住むミュージシャンとファン達に長年崇められて来た作品である。

 

B.B. King - How Blue Can You Get Live at the regal

R.I.P. | BB King - Sweet Little Angel (Live at the Regal)

 

 

【和訳】How Blue Can You Get

 

僕は落ち込んで居るんだ、ねえ
僕らが会った日からずっと
だから落ち込んで居るんだよ、ねえ
僕らが会った日からずっと
僕らの愛はブルー以外の何でも無かった、なあ
ねえ、君はどれだけブルーになれるの...。

僕といる時、君は悪魔だよ、ねえ
そして離れて居る時は、嫉妬深い
だからさ、僕と居る時、君は悪魔だよ、ねえ
そして離れて居る時は、嫉妬深い
どれだけ君はブルーになれるの、ねえ
答えは僕の心の中、すぐ此処にあるよ

新しいフォードをあげたね
でも君は、「キャデラックが欲しいの」、って言った
僕は10ドルのディナーをご馳走した
そして君は言った、「おやつありがと」、って
君にうちのペントハウスに住ませてあげたけど
君は、そんなのただの掘っ立て小屋だと言った
7人の子供も与えたけど
いまじゃ、みな返したがって居る

僕は落ち込んで居るんだ、ねえ
僕らが会った日からずっと
僕らの愛はブルー以外の何でも無かった、なあ
ねえ、君はどれだけブルーになれるの...。

 

 

 

【和訳】Every Day I Have the Blues

 

毎日、毎日、憂鬱だ
ああ、毎日、毎日憂鬱だよ
僕が心配して居るのを見てる時、そう、君の事だよ、同情して居るんだろう。

誰も愛してくれない、誰も気に掛けて居ない様な気がする
誰も愛してくれない、誰も気に掛けて居ない様な気がする
まあ、心配事や面倒事でさ、愛しい人よ
ねえ、僕だって結構やったんだよ

毎日、毎日、憂鬱だ
ああ、毎日、毎日憂鬱だよ
僕が心配して居るのを見てる時、そう、君の事だよ、同情して居るんだろう。

誰も愛してくれない、誰も気に掛けては居ない様な気がする
誰も愛してくれない、誰も気に掛けては居ない様な気がする
まあ、心配事や面倒事でさ、愛しい人よ
ねえ、僕だって結構やったんだよ

 

 

 

「そうだな。B.B.キングはまるでヒーローだった。バンドはどうかって? あのバンドが『Live at The Regal』でスウィングするのを聴いて見ろよ。まるで道路をならす蒸気ローラーのような威力だから」― ミック・フリートウッド(フリートウッド・マック)

B.B.キングの成功の大部分は、彼のコンサートに起因するであろう。彼は常に「最も働き者なライヴ・パフォーマー」の1人であり、ライヴ活動が少ない年でさえ年間250~300本もの公演を行って居た。また、彼はバンドを結束させる才覚を持って居た、それは彼のバンド・リーダーとしての腕前の印だが、おそらく彼のボスとしての寛大で思いやりのある気質が恐らく大いに関係して居るに違いない。

「うちのバンド仲間は素晴らしいミュージシャンと言うだけじゃなく、お互いに忠実なんだ。だから、皆で集まると楽しい時を過ごせるね。全員私と長年一緒にやってきた仲間で、ドラマーのサニー・フリーマンは約18年一緒に演奏したし、現在のシニア・トランぺッターは21年間も一緒。1人を除き、全員が10年以上も私と一緒にプレイしてきた仲間達なんだ」- B.B.キング(2000年)

1969年にB.B.はザ・ローリング・ストーンズとアメリカ・ツアーを行い、多くの人々に取っては初めて史上最高のアーティストの1人であるB.B.キングの生演奏を観覧する事になった。ビル・ワイマンはこう語る。「当時はよくステージ脇でB.B.キングの演奏を聴いたよ。彼の12人編成バンドは卓越したミュージシャン揃いだった。彼の演奏で何時も驚かされたのは、叩きつける様な激しい演奏の後にテンポを下げて囁く様に歌い始める処だった。そうすると、会場は静まり返り、飾りピンが床に落ちた音でさえ聞こえて仕舞う程だった。そこで突然、B.B.は大きなクライマックスへと盛り上げて行くんだ。彼の演奏で好きなのは、そう言った音楽の幅広さだね」。

まともな仕事を見つけるのが難しかった1970年代、B.B.キングは常に第一線、もしくはその周辺に居た。彼はテレビ出演さえも果たし、それは当時他のブルース系アーティスト勢ではほぼ誰も実現して居ない事であった。そして、他のギタリスト達と共演した彼の評判の良さは、B.B.キングにブルース界の長老政治家の様な地位を与えた。ブルースの意味を雄弁に説明する事で、彼はブルースが下火になり掛けた時に盛り上げる手助けをした。中にはブルースにしてはポップすぎると言う批判もあったが、それはB.B.キングの成功の一片も達成出来ない者達からの負け惜しみだった。

ロックの殿堂入りした翌年の1988年、B.B.キングはU2のアルバム『Rattle&Hum』に参加。収録曲「When Love Comes to Town」での彼の演奏は、63歳でもまだ輝きを失って居ない事を証明した。外部アーティストとの共演はこれが初めてでは無く、70年代にはジャズ・グループのザ・クルセイダーズと共演しており、その他これまでB.B.キングが共演したアーティストには盲目のシンガーのダイアン・シューアやアレクシス・コーナー、スティーヴ・ウィンウッド、ボビー・ブランド等が居る。2001年にB.B.キングは長年の友人、エリック・クラプトンと録音したアルバム『Riding With The King』でグラミー賞を受賞。同アルバムでは「Three O’Clock Blues」の再レコーディングを含め「Worried Life Blues」や「Key To The Highway」等カヴァーを収録した。

 

B.B. King - Key to the Highway

Three O'Clock Blues

BB King & Bobby Blue Bland - The thrill is gone - 1977

BB King - 01 Every Day I Have The Blues [Live At Nick's 1983] HD

B.B. King - Sweet Sixteen

 

同じ時代の他のアーティストと同様に、B.B.キングはルイ・ジョーダンからインスピレーションを受け、黒人のミュージシャンでも偉業を成し遂げる事が出来ると信じて居た。よって、彼はこの伝説のバンド・リーダーの楽曲を録音したいと長年希望して居た。1999年にB.B.キングはそのカヴァー・アルバムを発表し、ルイ・ジョーダンへの恩義を示すと共に、「ジュークボックス王」による一連のヒット曲をカヴァーして祝福した。同カヴァー・アルバムのタイトルはB.B.キングに相応しく、何十年にも渡りB.B.キングが自身のライヴのオープニング曲として使用してきたルイ・ジョーダンの楽曲名から『Let  the  Good  Time  Roll』と名付けられた。

B.B.キングの偉大な才能は現代の音楽ジャンルの激しい変動を切り抜けて、面白いアルバムを出し続けた。B.B.は底辺にあったブルースを米国音楽のメインストリームへと押し上げた。子供時代に聴いた音楽を驚くほど多種多様な他の音楽スタイルと混ぜ合わせ、広範囲に渡るミュージシャン達と演奏する事でデジタル時代にもブルースを紹介し続けたのだ。

 

B.B. King, Eric Clapton, Buddy Guy, Albert Collins & Jeff Beck Apollo Theater, NY 06 15 93

BB King RIP with Gary Moore RIP - The Thrill Is Gone - Hi Quality

BB KING Best Solo Guitar King of Blues

JEFF BECK with B.B. KING - Key To The Highway

 

B.B.キングは、他のアーティスト勢を上回り、議論の余地なく「キング・オブ・ブルース」であったが、その「キング」の亡き今、私達はもう二度と彼のようなアーティストを目にする事は無いだろう。

私はBBkingに憧れた。髪型こそは1970年代のロック・ミュージシャンの真似をしたが、ギターはBBkingをコピーしたのです。今となっては懐かしい思い出だ。皆さんBBkingを聴きましょうよ.....。

 

 

 

アントニオ猪木 名言 道

 

 
 
 
 
==「危ぶむなかれ 行けば わかるよ」==

石川県白山市にある明達寺と言う真宗大谷派の寺院のご住職で、清沢哲夫と言う方(故人)がおられます。清沢哲夫氏は、仏教の近代化に大きく貢献された清沢満之(きよざわ まんし)先生(大谷大学初代学長)の孫として生まれ、清沢満之先生の弟子にあたる暁烏敏(あけがらす はや)先生のお寺(明達寺)を継がれた方です。この清沢哲夫氏の著書『無常断章』に次のような詩が掲載されて居ます。

 

「道」

此の道を行けば どうなるのかと 危ぶむなかれ

危ぶめば 道はなし

ふみ出せば その一足が 道となる その一足が 道である

わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ

          (昭和二十六年十月『同帰』所載)

 

皆さんこの詩を聞かれた事はあるでしょうか。「聞いた事がある様な気がする」と言う方も結構おられるのでは無いでしょうか。実は、プロレスラーのスーパーヒーロー。アントニオ猪木さんが引退式の時に詠まれたのがこの詩です。この詩を初めて聞いた時、すごく力強い詩だなと言う印象を持つ一方、何か自信がなく、日々を不安に思いながら生きて居る自分に対して、温かく包みこみ、励ましてくれる様な印象を持った事を覚えて居ます。「道」と言う詩に込められた思いを、蓮如聖人御一代記聞書から考えて見たいと思います。

御一代記の155項に「仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ」と言う一文があります。これは言い換えると「仏法は今にて候」と言う事でしょうか。この「今」とは哲学的には、今は終わる時に解り、終わると言う事は今が解る事でもあると捉えます。すなわち「仏法は今にて候」とは、「終わって見ないと今が正しいかどうかなんて解らないのだから、今この瞬間を如何に大切にするかが大事なのですよ」と言う教えだと言えると思います。また、御一代記は次の様に続きます。「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきく人は ながく不退にかなふなり」。すなわち「私たちの心を奪い、心を乱す色々な誘惑や困難がある人生の中で、自ら仏法を求めて仏に出遇う人にこそ、金剛の信心が与えられるのである」と説いて居ます。  

この様に仏教から考えると、「道」という詩には、「人生は、悩み迷い、困難の連続であるが、それはあなただけの事ではありません。結果なんて誰にも解りません。終わって見て始めて良かった、失敗したと解るのです。だからこそ、その生を生きる「今」を受け入れ、自らを大切にし、しっかりと今を生きて行きましょう」と言う願いが込められて居るのでしょう....。

 

約10年ぶりのスイパラは楽しかった。

 
 

コメント一覧

kiyasume
sera411さん、書き込みどうも有難う御座いました。
何か無理やりに読ませてしまった結果になりまして、、

申し訳ありませんでした・・・・・・・。

ギターを買ってくれたおばさんは、姉が幼稚園の頃に
手を引いて連れて来た女性でした、、( ◠‿◠ )
依頼”おばちゃん”と読んで居ました。うちにはよく来ました。

母をママと呼び、親しくして居ましたが、もう30年前ぐらいに
病気で亡くなって仕舞いました。おばちゃんの旦那は大工でした。
私たち兄弟は”おじちゃん”と読んで居ました。。。

その”おじちゃん”も亡くなって・・・・・・・・・・。

何だか過ぎ去った日々は夢幻だったかの様です、、
人の一生なんて成る様にしかなりませんよね。

読んで頂いて有難う御座いました、、
処でseraさんはお誕生日だったそうですね、、
お祝い申し上げますね・・・・・・・・・・。

私も、今月誕生日です。。。
また来て下さいね。宜しく、、
sera411
ギターを買ってくださったおばさんがいてくださって良かったですね。

その方に愛されたというのは事実です。

世の中には気が合う、合わないがあります。

それでも愛された記憶は大切だと思います。

これからの日々は気持ちを楽にして音楽や本を楽しんでください。
kiyasume
ビオラさん、書き込み有難う御座います、、
返信が遅れましてすみませんでした。

アントニオ猪木が引退式の時に読んだ詩は、、
清沢哲夫氏の著書『無常断章』にある詩ですね。

「道」と言う詩ですね、、

この詩はアントニオ猪木が詠んで有名になりました。
一歩を踏み出せ、、そうすれば解るよと言う意味の詩ですね。
何事もそうですが。危ぶんでばかり居たら、道は通じませんよね、、
この詩は、歩んで行け行けば解るよと言っています、、

此の詩が、猪木の引退式で詠まれた時は。その後も随分とセンセーション
な話題となりましたよね、、懐かしいです・・・・・・・・。

ただ、アントニオ猪木も76歳になり、しかも今は重病で寝たきりです。
なんでも自分の細胞が、自分の細胞を喰ってしまう難病だそうです、、
歳も歳だし心配して居ますよ、、往年の活躍したスポーツ選手やら
芸能人が亡くなって行くのは、仕方が無いけど嫌なものですね。。。

また来て下さいね、、、、(๑>◡<๑)
goohanasaku
今晩は〜。

アントニオ猪木さん〜、
ご紹介なさっていて、
久々に、声を聴いたような気がします〜💖

「名言 道」ですか・・・✨

茶道の先生が、「道とつくものは、続ける事が大切です・・・。」と、
おっしゃっていたのを、記憶しています・・・。
例えば、茶道、書道、剣道・・・、色々ありますね・・・。


アントニオ猪木さんの・・・聞きましたよ・・・。
「歩みを止めた時、人は、年老いていく・・・。」
「迷わず行けよ。 行けばわかる!」

そして、最後に、大きな声で、
「ありがとう〜〜〜✋」・・・で、締めくくられていましたね・・・😊


人生、色々ありますが、
歩み続ける精神〜、大事ですね・・・💖

前を向いて、歩いて行く中で、
楽しむ事を忘れずにいる事も大事です・・・✨

桜が美しいこの季節〜、
自然の育みを、喜びながら、
kiyasume様〜、充実した、日々を、お過ごし下さいね〜♪

ビオラ
kiyasume
akiraさんもご苦労なさって居ますね、、
私は20歳で発病したので、、本当は仕事は出来なかったのです、、
働く事が出来なかった、だから働く事は諦めて居ました。

何遍も言いますが、障害者年金を貰って、それで暮らそうと思いました。
しかし、何故か母は申請をしてくれずに、親父の会社で働かせました。
親にして見ればその方がいいと思ったのでしょうね、、、

しかし、私が貰った給料とボーナスは全額、親が預かりました・・・・・・・。
そして、私は毎月、3万円の小遣いでした・・・・・・・・。
そして何遍も言いますが、、母は自分が認知症になる直前に、
給料とボーナスから貯めて居た。纏まったお金をくれました、、

そのお金で7年ぐらいは暮らせました、、、

うちは此のblogを読んで居たら解る様に、あまり裕福では
ありませんでした。何しろ下宿屋をやって居たぐらいですから。
でも母が頑張って働いて居てくれたお陰で、生活はまあまあでした。

akiraさんは父親が失業して。食い扶持を減らす為犠牲になったのですね。
大変でしたね・・・・・・。私は今、もう。もう持ち金が僅かになったので、、
今年の夏には生活保護を、申請に行かなくては生きては行けません。

母から貰ったお金はもう4年前に尽きて居て。4年前に生命保険と、、
年金保険を解約して暮らして来ました。それも夏には尽きます、、
さて、それ以降はどうなるか解りませんよ・・・・・・・・。

そんな処です・・・・・・・。

また来て下さいね。宜しく。。。。。(๑>◡<๑)
1021akira
お邪魔いたします。
貧乏って嫌ですね。思うように活動出来なくなる。
私も16歳の時、単身で上京したのは、父親が失業して生活が出来なくなったので、食いぷちを減らすため、長男の私が犠牲になったのです。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事