何度見ても飽きない「見事な桜」
4月10日高遠城址公園に行って来ました。葉山在住の頃より高遠に行ってまして長野県では一番好きな桜の観光地です。快晴で満開に恵まれました。取り壊された旧高遠城の城跡一帯に1500本もの桜の木が植えられており、城跡を覆いつくすように桜の花が咲き乱れます。これらの古木は、明治8年(1875年)に高遠城跡が公園となった時、高遠藩の旧藩士達が「桜の馬場」から移植したものです。このコヒガンザクラは、マメザクラとエドヒガンの交配種の一系で、高遠固有の貴重なものとして、「タカトオコヒガンザクラ」と命名されました。
写真は2022年4月12日に撮影しました。
タカトオコヒガンザクラ、その花形は、ややこぶりで赤みを帯び、その可憐さと規模の大きさは「天下第一の桜」と称されるほどで、県の天然記念物の指定を受け、平成2年には、日本さくらの会の「さくら名所百選」に選ばれています。
「北ゲート・正面入り口付近」
正面入口にあたる北ゲートを入ると左側に、公園事務所が入る高遠閣の建物があります。この建物は登録有形文化財。昭和11年に地元出身の文化人・経済人らが資金を募り、地元民の交流と観光客の休憩用に設置したもので、当時(昭和初期)から「桜の高遠」が有名だったことが伺われます。ゲートから入る前から、もう、あたり一面が桜の花だらけです。
「問屋門・桜雲橋」
桜の天井を見上げ、感嘆しながら右方向に進むと、桜の写真スポットとして有名な桜雲橋。堀を渡る橋の上方はもちろん、下方にも桜の花が咲いており、名前の通り、桜の雲の中に架かった橋のような趣です。
「満開の桜に潜む歴史ロマン」
橋を渡り、門をくぐって少し進むとそこは本丸。手入れの行き届いた公園で、満開の桜の中に、かつてここを舞台に活躍した歴史上の人物たちの雄姿がまぶたに浮かび上がってくるかのようです。戦国時代に武田信玄の下で、この城の設計・施工の「縄張り」した山本勘助。その後、織田信長の長男・信忠がこの城を攻めてきた際に死闘を演じた仁科信盛。江戸幕府の第3代将軍徳川家光の弟君で、後に創成期の幕府を支えた名君と評されることになる高遠藩主保科正之公。そして、江戸時代に歌舞伎役者との叶わぬ恋に落ち、大奥を追われてこの地に流された悲恋のヒロイン・江島……。様々な歴史物語がこの城の桜には秘められています。
「中央アルプスの眺望」
高遠城址の石垣の上から中央アルプスを一望できる絶景スポットがあります。復元された太鼓櫓に登るとさらに広い視野で一帯が望めます。 その後、水がたまった堀に写る桜や、時期によっては水面を覆う花びらなどを見ながら、散策出来ます。
「城跡に旧藩士が植樹・桜守が活躍」
旧高遠城の城跡に桜が植えられたのは明治に入ってすぐのこと。明治4年(1871年)の廃藩置県で旧藩体制が廃止になり、明治6年(1873年)にはいわゆる「城郭取壊令」によって、全国各地の城が取り壊されました。旧高遠城もこの時取り壊されました。
現在1500本ある桜の木の中で、130年以上の老木が約20本程度残されており、それは旧藩士たちが、植樹したものと伝わっています。この植樹以降、高遠の桜は営々として地域の人々の手で守り続けられて来ました。現在では、「地域桜守」の皆さんが活躍されています。
参照
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=909
口語短歌
「古戦場 咲くコヒガンは 天下一 城址を埋める 桜吹雪が」
「もののふの 仁科信盛 戦いて 戦場に咲く コヒガンザクラ」
「満開の コヒガンザクラ 高遠で 兵(つわもの)たちの 夢儚さも」
「大奥の 絵島生島 両島も 散りて涙の コヒガンザクラ」
「借景に 山と桜の 高遠で ここぞとばかり コヒガンザクラ」
「高遠で 受け継ぐ誇り 桜守 営々として 永久(とわ)に咲かすも」
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