庭木師は見た!~ガーディナー&フォトグラファー~

庭木師が剪定中に見たあれこれ。

ーいざ、富山footbath(足湯)県へー見た映画『MINAMATA』

2021-09-29 17:39:14 | 日記

■映画『MINAMATA-ミナマタを見てきました。

 世界的な写真家、ユージン・スミスをモデルにした映画『MINAMATA-ミナマタ』を富山県の映画館で見て来ました。

 9月下旬の平日に行ったのですが、観客は私と50歳前後の女性だけでした。まあ、そうだろうなあ、という印象であります。こちらの方々には、水俣病やユージン・スミスはなかなかインタレストの対象にならないからです。

 何しろ、“足湯県”ですからね。

 映画は下のシーンから始まりました。水俣病の舞台となった八代海(不知火海)です。海岸線に沿って走るのは、第三セクターの「肥薩おれんじ鉄道」。旧・JR鹿児島本線です。

    

          (映像の左下に小さく車両が映っていますね)

   

      (妻のアイリーン・M・スミスと一緒のシーンを並べてみました)

 上の写真は、映画ではチッソの水俣工場ですが、恐らく、ユージンがチッソ社員から暴行を受けてボコボコにされた千葉県のチッソ石油化学五井工場での事件<1972年1月7日>を元にしたのでしょう。

 当時の様子は、たまたま取材で現場にいた読売新聞記者が記事にていますので、1972年1月8日付の同紙を縮刷版で読んでみてください。週刊朝日も1972年1月21日号(P26~)でスミスの証言を紹介しています。

 現場にいた何人かの水俣病関係者の証言集も読みましたが、ヤクザ映画もビックリ、無法地帯だったようです。

    

          (負傷したスミスの撮影助手を務めるアイリーン)

    

                  (映画のエンディング)

<映画の私的感想

・水俣病は1960~70年代に大きな社会問題になりました。それから半世紀経ちます。この映画自体は写真家・ユージン・スミスおよび水俣病の姿をきちんととらえていて、それに自体は問題ないと感じました。

・ただ、視点が真っ正面過ぎるような気がしないでもありませんでした。水俣病やスミス自体については既に多くの本や雑誌等で紹介され、この映画で描かれている彼の姿に意外性、新しい視点は特にありません。

・スミスは、チッソ五井工場で受けた怪我の治療のため、米国に帰り、その時の怪我がもとで亡くなり、日本に再び戻ることはありませんでした。彼は水俣に来る前、『ライフ』誌のカメラマンとして太平洋戦争を取材するため、サイパン、グアム、硫黄島などに従軍、その後の沖縄で取材撮影中、重症を負います。

 この時の古傷がチッソで受けた暴行で悪化したのです。

・そこで感想ですが、というか小生がこの映画を製作するのであれば、映画のタイトルは『スミスのMINAMATA』とし、末期の床から生涯を回顧する形で始めます。

 彼の人生に大きな影響を与えた日本-すなわち太平洋戦争とチッソ-を軸に、彼の目、カメラを通して日本をどう見たか、という形にした方が良かったのではないかと思った次第です。この50年間、何が良くなっていて、何が変わっていないか-。それを浮き彫りにする形にした方が…。

                                        以上。

 

 


ーいざ、富山footbath(足湯)県へー 映画「MINAMATA-

2021-09-26 10:35:03 | 日記

■見つかりましたユージン・スミスの離日写真と、映画「MINAMATA」

 2021年4月21日付の私のブログで、建築家・安藤忠雄が設計した富山県高岡市福岡町にある「ミュゼ・ふくおかカメラ館」について紹介した際、写真家・ユージン・スミスが釘でサインしたオリンパスのカメラのことに触れました。

 ユージン・スミスは1974年10月に熊本空港から離日、日本に再び戻ることなく米国で病没するわけですが、離日の日に水俣病支援者が撮影したスミス夫妻の写真が見つかりました。ネガはなく、預かったオリジナルプリントを私が接写したものです。下の写真がそれです。

   

   (左から、妻のアイリーン・M・スミスと、ユージン・スミス。1974年10月、熊本空港)

 たまたまですが、今年9月23日から映画『MINAMATA』(監督アンドリュ-・レヴィタス)が全国の映画館で公開されました。主演は、ジョニー・デップ、アイリーン役は父親がフランス人で、母が日本人の美波。

 化学会社、チッソが熊本県水俣で引き起こした公害、水俣病をテーマに、写真家・ユージン・スミスと妻のアイリーンが、どのようにチッソと立ち向かい、取材したかをテーマーとした作品です。

 日本経済新聞が、紹介記事(2021.9.22付)を書いていたので、それも添付します。

 水俣病の話になりましたが、富山人にとって水俣病それ自体は、直接的には関係がありません。富山の隣りの新潟県であれば、阿賀野川流域での「新潟水俣病」が大きな社会問題になりましたが。

 ただ、ジャーナリズムの世界からみると、相通じる世界があります。

 それは「富山の女」を全国的に知らしめた大正時代の魚津でのコメ騒動のことです。コメ騒動といえば、当時の事件の舞台となった倉が魚津市の海岸べりに保存されています。下の写真がそれです。

    

         (コメ騒動の舞台となった旧十二銀行の米倉。魚津市)

 この倉庫横に設置されているコメ騒動の説明文には、事件が起きたのは大正7年7月とされていますが、この時の騒動は明治時代半ばから頻発していた一連の米騒動の中の大きな米騒動でした。

   

               (魚津市に残されている米騒動の倉)

   

     (魚津の米騒動についての説明板が、事件の舞台に設けられていました)

 米騒動については、地元の新聞が相次いで報道しました。事件の概要は上記の説明を読んでください。

 その説明文には大正7年7月23日のことが記されていますが、魚津ではその前後にも頻発していて、同年8月4日の高岡新報の見出しは「女軍米屋に薄(せま)る-百七八名は三隊に分かれて町有志及び米屋を襲う」の見出しを掲げ、全国の新聞に転載されました。その後の報道「狼煙揚がる県下の窮民蜂起」は発売頒布禁止処分になったのです。

 一連の記事の執筆者は、高岡新報道の記者、井上江花です。

 米騒動は全国に飛び火し、米騒動報道に禁止令を出した当時の寺内内閣は、9月に総辞職に追い込まれたのです。

 一方、水俣病ですが、地元の熊本日日新聞が最初に報道、その後、九州ブロック紙の西日本新聞(本社福岡市)も報道に力を入れましたが、なかなか全国紙の紙面を騒がす事態にはなりませんでした。

 全国的に水俣病を知らしめたのは作家・石牟礼道子のノンフィクション『苦界浄土』でした。この本に刺激されて東京などのメディアが動き出すことになります。ユージン・スミスもその一人でした。

 戦後間もない時期の水俣は、東京から見れば遥か田舎、僻地でした。水俣病は「風土病」とも見られた時代だっただけに仕方ない点はあったかもしれませんが、石牟礼道子の作品がなかったら、不知火海の有機水銀中毒事件はどのように扱われたのか、と思うことがしばしばあります。          (以上)