どうも、こんにちは。
今回は京都の古社のひとつ、新熊野(いまくまの)神社を紹介します。
『平家物語』などでも有名な大権力者・後白河上皇が、当時信仰されていた熊野信仰の世界を、自らの支配領域の中に再現しようとした新熊野神社。
そしてそこに後白河上皇自身の手で植えられてから800年以上の時を生き、今もなお境内に立ち続けている巨大なご神木が「樟大権現」です。
今回と、次回、次々回に渡ってそれらを紹介していきたいと思います。
(記事中の写真はクリックで拡大します。プライバシー保護等の為、人の顔部分に修正を加えていることがあります)
まずはいつもの通り交通アクセスから。
京都市営バス「今熊野」停留所。
というより、すぐ前です。
この場所から東大路通りにもはみ出している巨大なご神木が・・・後に紹介する「樟大権現」です。
一の鳥居をくぐって。
「樟大権現」を横目に見ながら境内へ。
まずは本堂に礼拝。
この古社は、熊野信仰盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河上皇によって創建されたと伝えられています。
後白河上場は1158年に退位しましたが、当時は院政の時代で、その後も実質的な権力をふるい続けます。その拠点兼居住地となったのが、当時の「法住寺殿」。その敷地は現在の「法住寺」(※シリーズ第684回を参照)の何倍もあり、その鎮守寺として創建されたのが「蓮華法院(通称・三十三間堂)」であり、鎮守社として創建されたのが、新熊野神社です。
つまりここにはかつて、「三十三間堂」「法住寺」そして「新熊野神社」を抱える、広大な「後白河ワールド」が広がっていたのです(※シリーズ第684回を参照)。
当時は神仏習合の熊野信仰が盛んであり、後白河上皇も一生のうちに34回も参詣したほど熱心な信者でもありました。しかしながら、自動車や鉄道などの近代的な交通手段も無い時代、遠く紀州・熊野の地まで参詣することは大変なことであり、そう頻繁に行けるわけではありません。
そこで京のこの地に熊野の新宮・別宮として創建されたのが、後白河ワールドのこの地に熊野信仰の世界を再現しようとして創られたのが、この古社、新熊野(いまくまの)神社でした。
「新熊野(いまくまの)」という名前には、紀州の「古い(従来の)熊野」に対して、京の「今の熊野」「新しい熊野」という、当時の京都人に対するイメージが、その由来となっているそうです。
そして京都の多くの歴史ある寺社仏閣もそうだったように、繁栄や衰退、戦乱による廃絶の危機などを乗り越えて、現在に至ります。
ところで境内の入り口近くにこんな石碑が。
後ほど神社ホームページ内の資料を読んで知ったのですが、ここ今熊野神社は「能楽発祥の地」でもあったのです。
それは、世阿弥の次男・観世元能(もとよし)が著した『申楽談義』に記され
ている「観阿(観阿弥)、今熊野の能の時、申楽(猿楽)ということをは、将軍家(足利義満)、御覧じはじめらるるなり。世子(世阿弥)、十二の年なり。」という記述が根拠になっているとされています。この一文は、観阿弥・世阿弥親子が世の中に出るきっかけとなったのが、今熊野での猿楽演能だったことを記しています。
しかし、これが定説となったのは、ごく近年のことだそうで、この石碑が新しく造られてから間も無いのも、その為でしょう。
しかも、現在に伝わっている「能」は、世阿弥以降の作品、もしくは後年に改作された観阿弥の作品であり、ここ今熊野の境内で当時演じられた古い原型の「能」は、現在では失われてしまった「幻の作品」となってしまったそうで・・・。
今様など舞楽を愛好し、『地獄草紙』を制作させる等、文化芸術の庇護者ともなった後白河上皇ゆかりの地が、はるか後世にまた新たな文化発祥の地となった。
何か因縁めいたものを感じます。
本殿礼拝後には、本殿裏にある「熊野古道」と呼ばれる参道を歩きます。
この境内参道は、紀州のオリジナル熊野大社の別宮としての、「熊野信仰の世界を再現する」「オリジナル熊野まで行けない人が代わりに参拝する」という目的の為に創られたもの。その名の通り、オリジナルの熊野古道を模して創られたものです。
ただ、ここで記事がそこそこの長さになってしまった上に、この熊野古道に関する記述部分がかなり長くなってしまいました。今回はここで記事を一旦切って、次回記事でこの境内参道について、さらに次々回でご神木「樟大権現」について、とりあげます。
今回はここまで。
また次回。
*新熊野神社へのアクセスはこちら。
*新熊野神社のHP
http://www.imakumanojinja.or.jp/
*『京都妖怪探訪』シリーズ